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第四章 幽世の試練
87.大猫と蛟
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蒼愛と紅優は瑞穂ノ宮の屋敷に帰ってきた。
家屋は説明されなくても、どこに何があるかわかった。
家の匂いも雰囲気も、全身で感じる総てが安心する。
自分の部屋に入って、腰掛ける。
まるで違和感がなかった。
(少しずつ、感覚から思い出してきている気がする。僕はここで紅優と生活していたんだ)
紅優と二人になる前は、誰かがいた気がする。
それも、とても大切な思い出な気がする。
(思い出すきっかけ、探してみよう。焦らないで、ゆっくりでいいって、紅優も言ってくれたから)
ただこの家で暮らすだけでも、きっかけになりそうな気がした。
紅優とのゆったりとした生活が数日続いた、ある日。
来客は、突然やってきた。
「蒼愛! 俺を覚えてるか?」
赤い短髪をなびかせた筋肉質な神様が、来るなり蒼愛を抱き上げた。
「えっと、えと、あの、わからないんですが、きっと会ったことがあるんですよね」
背が高い大きな体に持ち上げられて、視界がグルグルする。
「火産霊! もっと丁寧に扱って! 蒼愛はまだ何も思い出せていないんだから!」
紅優が慌てて駆け寄ると、男性から蒼愛を奪い取った。
怖くて紅優にしがみ付く。
プルプル震える蒼愛を、火産霊と呼ばれた神様がじっと見詰めた。
「俺のことも、忘れちまったのか。一緒に漢字の練習したり、炎の術の練習したのも、忘れちまったのか」
大きな体に似合わない顔で、しょんぼりしている。
怖い気持ちがしぼんで、申し訳ない思いが擡げてきた。
「ごめんなさい……。思い出せるように、努力します」
火産霊が蒼愛の頬をそろりと撫でた。
「可愛い性格は、変わんねぇな。無理しなくていい。ゆっくり思い出せ」
火産霊が微笑んでくれたので、少しだけ安心した。
「だから来なくて良いと申し上げたのです。相変わらず動きが雑で呆れますわ」
後ろから女の人の姿が見えた。
その隣には、やっぱり体が大きな男性がいる。
心なしか、紅優の顔が引き攣って見えて、少しだけ不安になった。
「初めまして、蒼愛様。私は今日が初対面ですので、どうぞ御安心くださいませ。水ノ神、淤加美様の一ノ側仕、蛟の縷々と申します。以後、よろしくお願い致しますね」
髪を綺麗にまとめて、パリッと着物を着こなした、身綺麗な女性だ。
「お久し振しゅうございますわね、紅優様」
名前を呼ばれて、紅優が小さく肩を揺らした。
「お久し振りです。それはもう、お久し振りです。この度は側仕の斡旋をありがとうございました」
紅優が深々と頭を下げている。
蒼愛も倣って頭を下げた。
そういえば、月詠見が側仕の話をしていた時に、縷々という名前が出てきていた。
「なんでも紅優様は、私が選んだ側仕がお気に召さなかった御様子で。至らぬ点があれば他の者と取り替えますので、仰ってくださいな」
縷々が紅優に向かって笑んだ。
蒼愛でも怖いと思った。
「いえ、気に入らないとかそういう話ではなくて、ですね。俺にとっては大先輩の知り合いに、側仕をしていただくのは、申し訳ないといいますか、恐縮すると申しますか。縷々さんにおかれましても様付けはやめてほしいくらいでして、はい」
紅優の視線がチラチラと隣の男性に向く。
縷々の隣に立つ男性は、整った笑みを崩さず、紅優と蒼愛を見詰めている。
「まぁ、何を言い出されるのでしょう。瑞穂ノ神となったのですから、御自分の御立場を御自覚くださいませ。紅優様はこの国で最も尊ばれる神なのですよ。側仕の妖怪如きが呼び捨てなどできようはずがありませんわ」
縷々が驚いた顔で紅優を嗜めている。
「はい、申し訳ございません……」
紅優の白い耳が寝ている。
何となく、蒼愛はその耳を撫でた。
「あんまり紅優を虐めてやるなよ、縷々。紅優の性格、わかってんだろ。コイツはそういうの、苦手だぞ」
火産霊がフォローを入れている。
どうやら紅優と火産霊は仲がいいらしい。さっきも紅優の方から火産霊を呼び捨てしていた。
「わかっているから窘めているのですわ。火産霊様も本来であれば紅優様と敬称を付けて御呼びすべきですのよ」
今度は火産霊が縷々に叱られている。
風ノ宮の利荔や霧疾は紅優にフランクに話していたが、あれも縷々に見付かったら叱られるんだろうかと不思議に思った。
「火産霊にまで様付けされるのは、辛い」
紅優がとても小さな声で呟いた。
蒼愛はまた、紅優の耳を撫でてやった。
「そろそろ私の紹介をしてもらえるかな、縷々」
ずっと黙っていた男性が、変わらぬ笑顔で縷々に催促した。
「そうでしたわね。ごめんなさい。こちら、大猫の井光ですわ。紅優様と蒼愛様を守るに最適な側仕ですわよ」
縷々にやっと紹介してもらえた男性が、紅優と蒼愛の前に片膝を付いて頭を下げた。
「大猫の井光でございます。瑞穂国における最高峰の神にお仕えする機会を頂き、恐悦至極に存じます。この命に変えましても、御二人の総てを守り抜き安寧の生活を支えてまいります」
鋭い目が、細く笑む。
張り付いたような笑みは冷たく感じる。だが、嫌な感じはしなかった。
「猫さん、ですか?」
思わず口から出てしまい、蒼愛は自分の口を覆った。
「ごめんなさい、何でもありません」
井光の張り付いた笑みが一瞬、緩んだ。
意外そうな顔が、おかしそうに笑んだ。
(あ……、普通に笑うと、優しそうに見える)
「大猫は確かに大きな猫だけど、もう猫っていうか虎だから。井光さんは虎より大きな大虎だから」
紅優が早口で教えてくれた。
珍しく感情のない話し方をしているように聞こえた。
「虎さん、ですか」
確かに鋭い眼光は常に獲物を狙う虎のようではある。
井光が蒼愛の前に傅いた。
「大昔は現世の、吉野の山に住んでおりました。初代大王が山で迷われた際に道案内をした妖怪にございます。私の子孫は今でも現世で、人と交わり人として生きております。私は早くにこの瑞穂国に来ました故、現世とは縁遠いですが、蒼愛様の匂いは懐かしく感じますよ」
蒼愛に目線を合わせて、井光が微笑んでくれる。
きっと優しい妖怪なんだと思った。
蒼愛は、目線を外して俯いた。
「紅優は、神様ですけど。僕は、その。記憶を失くしてしまったみたいで、何もわからなくて、皆の期待に応えられるだけの活躍はできないと思います。ごめんなさい。だから、紅優を、守ってください」
紅優が蒼愛の肩を抱いた。
「蒼愛、焦らなくていいんだよ。ゆっくり思い出せばいい。思い出せなくても蒼愛の価値は変わらないよ」
紅優がいつものように優しい言葉をくれる。
嬉しいが、申し訳なくて、どういう顔をすればいいのか、わからなくなる。
目の前の井光が息を吐いた。
蒼愛は、そっと顔を上げた。
「蒼愛様、今から我々と散歩に行きませんか? 気分転換にもなりますし、気持ちが良いですよ」
井光がニコリと笑って、後ろの縷々と火産霊を振り返った。
「良いかもしれませんわね。蒼愛様は瑞穂国の大地をまだ見たことがないと窺っておりますから、お勉強にもなりますわ」
縷々がノリノリで肯定している。
「でも、地上は大蛇がいつ、蒼愛を狙ってくるかわからないから、危険ですし」
「地上に降りなければいいのですわ。天空のお散歩ですわよ」
紅優の不安を縷々がぴしゃりと跳ねのけた。
「良いじゃねぇか。ずっと屋敷に籠りっぱなしなんだろ? それじゃ気が滅入るぜ。俺たちも一緒に行きゃぁいいんだ」
火産霊が楽しそうに話す。
何となく、自分が行きたい雰囲気だ。
「だけど……」
「紅優様、仕舞い込むばかりが大切にする方法ではございません。蒼愛様を信じるのも、大事にする法でございますよ」
井光が紅優を説得している。
紅優の目が、蒼愛に向いた。
「蒼愛は、どうしたい? お散歩、行ってみたい? 蒼愛の気持ちを聞かせて」
紅優が蒼愛に問うた。
蒼愛は迷った。
紅優の表情は明らかに行かせたくない顔だ。行きたくないですと答えるのが正解だ。
(でも、それじゃダメな気がする。紅優が望んでいる答えは、そうじゃない気がする)
「……紅優が、一緒に行ってくれるなら、行きたいです。紅優が行かせたくないって思うなら、行きません。紅優を不安にさせてまで、どこかに行くのは、嫌です」
紅優の腕が、蒼愛を胸に抱いた。
「自分の気持ち、言えるようになってきたね。それでいいんだよ。けどまだ、俺に気を遣ってるね。もっと気を遣わずに、自分の本音を言えるようになろうね」
こういう話をする時の紅優は泣きそうに笑う。
その顔を見ると、胸が締まる。
(記憶を失う前の僕は、自分の気持ち、ちゃんと言えてたんだ。想像もつかない)
誰かに問われて答える時に、自分の感情を挟む余地なんて、今までなかった。
そんな会話はしたことがない。だから想像がつかない。
今だって、蒼愛にとっては充分に我儘だ。
(なのに心臓はバクバクしないし、落ち着いてる。記憶を失う前の僕は、もっと我儘だったのかな)
どんな自分だったのか、会ってみたいくらいだと思った。
「じゃぁ、決まりですわね。行きましょう」
縷々が手を合わせて嬉しそうに笑んでいる。
「決まりなのか? 紅優は行きたくねぇんだろ?」
火産霊に問われて、紅優が顔を歪ませた。
「危険じゃないなら俺だって、蒼愛を外に連れ出してやりたいよ」
ぼそぼそと零れた声に、縷々と井光が納得の顔を見合わせた。
「この国随一の竜と虎、それに火ノ神が護衛に付いても不安かしら? 紅優様」
自信たっぷりの縷々の言葉に、紅優が言葉を飲んだ。
「竜? 蛟は竜なのですか?」
「そうですわね、小さな竜だと思っていただければ、よろしいですわ。淤加美様が龍神の御姿になった時ほど、神々しくも大きくもございませんもの」
「はぁ……」
上手くイメージできなくて、曖昧な返事になってしまった。
「小さいと言っても、それなりに大きいよ。井光さんくらい大きい。井光さんと縷々さんは番でね。この国の最強の番って呼ばれているくらい、二人に敵う妖怪はいないんだよ」
ちょっとぐったりした顔で紅優が教えてくれた。
「井光さんは昔、火産霊の一ノ側仕をしててね。その時は側仕筆頭だったんだよ。井光さんが引退して、火産霊の一ノ側仕が吟呼になって、側仕筆頭が縷々さんになったんだ」
紅優がぼそぼそと説明してくれた。
知らない名前も出てきたが、つまりは強くて凄い妖怪と理解した。
「とても凄い方が紅優を守ってくれるってこと、ですよね。良かったです。紅優が危険な目に遭うのは、嫌だから」
大蛇が紅優を殺しに来るかもしれない。
井光なら、きっと大蛇からも紅優を守ってくれる。
そう思ったら、安心した。
大きな手が蒼愛の頭を撫でた。
目を上げたら、火産霊が笑っていた。
「記憶がなくても、蒼愛は紅優が好きなんだな。安心したし、嬉しいぜ。紅優を好きでいてくれて、ありがとうな」
火産霊にお礼を言われて、胸が温かくなった。
どうしてだか、切ない気持ちが湧き上がる。
「僕は火産霊様と、とても大切な話を、した気がします。火産霊様はとても優しいけど、ちょっとだけ切なくて。どうしてこういう気持ちになるのか、わからないけど、忘れちゃいけない話だった、はずで……」
隣にいる紅優が蒼愛を引き寄せて抱きしめた。
「散歩に行こう、蒼愛。俺も、蒼愛に瑞穂国を見てほしくなった」
「はい、紅優の指示に従いま……、じゃなくて。僕も、行ってみたいです」
紅優の声の方が切なくて、蒼愛の胸が余計に締まった。
そんな蒼愛と紅優を優しく見守ってくれる火産霊の笑顔は、やっぱり切なく見えた。
水ノ神 一ノ側仕(側仕筆頭):蛟 縷々
瑞穂ノ神 二ノ側仕:大猫 井光
家屋は説明されなくても、どこに何があるかわかった。
家の匂いも雰囲気も、全身で感じる総てが安心する。
自分の部屋に入って、腰掛ける。
まるで違和感がなかった。
(少しずつ、感覚から思い出してきている気がする。僕はここで紅優と生活していたんだ)
紅優と二人になる前は、誰かがいた気がする。
それも、とても大切な思い出な気がする。
(思い出すきっかけ、探してみよう。焦らないで、ゆっくりでいいって、紅優も言ってくれたから)
ただこの家で暮らすだけでも、きっかけになりそうな気がした。
紅優とのゆったりとした生活が数日続いた、ある日。
来客は、突然やってきた。
「蒼愛! 俺を覚えてるか?」
赤い短髪をなびかせた筋肉質な神様が、来るなり蒼愛を抱き上げた。
「えっと、えと、あの、わからないんですが、きっと会ったことがあるんですよね」
背が高い大きな体に持ち上げられて、視界がグルグルする。
「火産霊! もっと丁寧に扱って! 蒼愛はまだ何も思い出せていないんだから!」
紅優が慌てて駆け寄ると、男性から蒼愛を奪い取った。
怖くて紅優にしがみ付く。
プルプル震える蒼愛を、火産霊と呼ばれた神様がじっと見詰めた。
「俺のことも、忘れちまったのか。一緒に漢字の練習したり、炎の術の練習したのも、忘れちまったのか」
大きな体に似合わない顔で、しょんぼりしている。
怖い気持ちがしぼんで、申し訳ない思いが擡げてきた。
「ごめんなさい……。思い出せるように、努力します」
火産霊が蒼愛の頬をそろりと撫でた。
「可愛い性格は、変わんねぇな。無理しなくていい。ゆっくり思い出せ」
火産霊が微笑んでくれたので、少しだけ安心した。
「だから来なくて良いと申し上げたのです。相変わらず動きが雑で呆れますわ」
後ろから女の人の姿が見えた。
その隣には、やっぱり体が大きな男性がいる。
心なしか、紅優の顔が引き攣って見えて、少しだけ不安になった。
「初めまして、蒼愛様。私は今日が初対面ですので、どうぞ御安心くださいませ。水ノ神、淤加美様の一ノ側仕、蛟の縷々と申します。以後、よろしくお願い致しますね」
髪を綺麗にまとめて、パリッと着物を着こなした、身綺麗な女性だ。
「お久し振しゅうございますわね、紅優様」
名前を呼ばれて、紅優が小さく肩を揺らした。
「お久し振りです。それはもう、お久し振りです。この度は側仕の斡旋をありがとうございました」
紅優が深々と頭を下げている。
蒼愛も倣って頭を下げた。
そういえば、月詠見が側仕の話をしていた時に、縷々という名前が出てきていた。
「なんでも紅優様は、私が選んだ側仕がお気に召さなかった御様子で。至らぬ点があれば他の者と取り替えますので、仰ってくださいな」
縷々が紅優に向かって笑んだ。
蒼愛でも怖いと思った。
「いえ、気に入らないとかそういう話ではなくて、ですね。俺にとっては大先輩の知り合いに、側仕をしていただくのは、申し訳ないといいますか、恐縮すると申しますか。縷々さんにおかれましても様付けはやめてほしいくらいでして、はい」
紅優の視線がチラチラと隣の男性に向く。
縷々の隣に立つ男性は、整った笑みを崩さず、紅優と蒼愛を見詰めている。
「まぁ、何を言い出されるのでしょう。瑞穂ノ神となったのですから、御自分の御立場を御自覚くださいませ。紅優様はこの国で最も尊ばれる神なのですよ。側仕の妖怪如きが呼び捨てなどできようはずがありませんわ」
縷々が驚いた顔で紅優を嗜めている。
「はい、申し訳ございません……」
紅優の白い耳が寝ている。
何となく、蒼愛はその耳を撫でた。
「あんまり紅優を虐めてやるなよ、縷々。紅優の性格、わかってんだろ。コイツはそういうの、苦手だぞ」
火産霊がフォローを入れている。
どうやら紅優と火産霊は仲がいいらしい。さっきも紅優の方から火産霊を呼び捨てしていた。
「わかっているから窘めているのですわ。火産霊様も本来であれば紅優様と敬称を付けて御呼びすべきですのよ」
今度は火産霊が縷々に叱られている。
風ノ宮の利荔や霧疾は紅優にフランクに話していたが、あれも縷々に見付かったら叱られるんだろうかと不思議に思った。
「火産霊にまで様付けされるのは、辛い」
紅優がとても小さな声で呟いた。
蒼愛はまた、紅優の耳を撫でてやった。
「そろそろ私の紹介をしてもらえるかな、縷々」
ずっと黙っていた男性が、変わらぬ笑顔で縷々に催促した。
「そうでしたわね。ごめんなさい。こちら、大猫の井光ですわ。紅優様と蒼愛様を守るに最適な側仕ですわよ」
縷々にやっと紹介してもらえた男性が、紅優と蒼愛の前に片膝を付いて頭を下げた。
「大猫の井光でございます。瑞穂国における最高峰の神にお仕えする機会を頂き、恐悦至極に存じます。この命に変えましても、御二人の総てを守り抜き安寧の生活を支えてまいります」
鋭い目が、細く笑む。
張り付いたような笑みは冷たく感じる。だが、嫌な感じはしなかった。
「猫さん、ですか?」
思わず口から出てしまい、蒼愛は自分の口を覆った。
「ごめんなさい、何でもありません」
井光の張り付いた笑みが一瞬、緩んだ。
意外そうな顔が、おかしそうに笑んだ。
(あ……、普通に笑うと、優しそうに見える)
「大猫は確かに大きな猫だけど、もう猫っていうか虎だから。井光さんは虎より大きな大虎だから」
紅優が早口で教えてくれた。
珍しく感情のない話し方をしているように聞こえた。
「虎さん、ですか」
確かに鋭い眼光は常に獲物を狙う虎のようではある。
井光が蒼愛の前に傅いた。
「大昔は現世の、吉野の山に住んでおりました。初代大王が山で迷われた際に道案内をした妖怪にございます。私の子孫は今でも現世で、人と交わり人として生きております。私は早くにこの瑞穂国に来ました故、現世とは縁遠いですが、蒼愛様の匂いは懐かしく感じますよ」
蒼愛に目線を合わせて、井光が微笑んでくれる。
きっと優しい妖怪なんだと思った。
蒼愛は、目線を外して俯いた。
「紅優は、神様ですけど。僕は、その。記憶を失くしてしまったみたいで、何もわからなくて、皆の期待に応えられるだけの活躍はできないと思います。ごめんなさい。だから、紅優を、守ってください」
紅優が蒼愛の肩を抱いた。
「蒼愛、焦らなくていいんだよ。ゆっくり思い出せばいい。思い出せなくても蒼愛の価値は変わらないよ」
紅優がいつものように優しい言葉をくれる。
嬉しいが、申し訳なくて、どういう顔をすればいいのか、わからなくなる。
目の前の井光が息を吐いた。
蒼愛は、そっと顔を上げた。
「蒼愛様、今から我々と散歩に行きませんか? 気分転換にもなりますし、気持ちが良いですよ」
井光がニコリと笑って、後ろの縷々と火産霊を振り返った。
「良いかもしれませんわね。蒼愛様は瑞穂国の大地をまだ見たことがないと窺っておりますから、お勉強にもなりますわ」
縷々がノリノリで肯定している。
「でも、地上は大蛇がいつ、蒼愛を狙ってくるかわからないから、危険ですし」
「地上に降りなければいいのですわ。天空のお散歩ですわよ」
紅優の不安を縷々がぴしゃりと跳ねのけた。
「良いじゃねぇか。ずっと屋敷に籠りっぱなしなんだろ? それじゃ気が滅入るぜ。俺たちも一緒に行きゃぁいいんだ」
火産霊が楽しそうに話す。
何となく、自分が行きたい雰囲気だ。
「だけど……」
「紅優様、仕舞い込むばかりが大切にする方法ではございません。蒼愛様を信じるのも、大事にする法でございますよ」
井光が紅優を説得している。
紅優の目が、蒼愛に向いた。
「蒼愛は、どうしたい? お散歩、行ってみたい? 蒼愛の気持ちを聞かせて」
紅優が蒼愛に問うた。
蒼愛は迷った。
紅優の表情は明らかに行かせたくない顔だ。行きたくないですと答えるのが正解だ。
(でも、それじゃダメな気がする。紅優が望んでいる答えは、そうじゃない気がする)
「……紅優が、一緒に行ってくれるなら、行きたいです。紅優が行かせたくないって思うなら、行きません。紅優を不安にさせてまで、どこかに行くのは、嫌です」
紅優の腕が、蒼愛を胸に抱いた。
「自分の気持ち、言えるようになってきたね。それでいいんだよ。けどまだ、俺に気を遣ってるね。もっと気を遣わずに、自分の本音を言えるようになろうね」
こういう話をする時の紅優は泣きそうに笑う。
その顔を見ると、胸が締まる。
(記憶を失う前の僕は、自分の気持ち、ちゃんと言えてたんだ。想像もつかない)
誰かに問われて答える時に、自分の感情を挟む余地なんて、今までなかった。
そんな会話はしたことがない。だから想像がつかない。
今だって、蒼愛にとっては充分に我儘だ。
(なのに心臓はバクバクしないし、落ち着いてる。記憶を失う前の僕は、もっと我儘だったのかな)
どんな自分だったのか、会ってみたいくらいだと思った。
「じゃぁ、決まりですわね。行きましょう」
縷々が手を合わせて嬉しそうに笑んでいる。
「決まりなのか? 紅優は行きたくねぇんだろ?」
火産霊に問われて、紅優が顔を歪ませた。
「危険じゃないなら俺だって、蒼愛を外に連れ出してやりたいよ」
ぼそぼそと零れた声に、縷々と井光が納得の顔を見合わせた。
「この国随一の竜と虎、それに火ノ神が護衛に付いても不安かしら? 紅優様」
自信たっぷりの縷々の言葉に、紅優が言葉を飲んだ。
「竜? 蛟は竜なのですか?」
「そうですわね、小さな竜だと思っていただければ、よろしいですわ。淤加美様が龍神の御姿になった時ほど、神々しくも大きくもございませんもの」
「はぁ……」
上手くイメージできなくて、曖昧な返事になってしまった。
「小さいと言っても、それなりに大きいよ。井光さんくらい大きい。井光さんと縷々さんは番でね。この国の最強の番って呼ばれているくらい、二人に敵う妖怪はいないんだよ」
ちょっとぐったりした顔で紅優が教えてくれた。
「井光さんは昔、火産霊の一ノ側仕をしててね。その時は側仕筆頭だったんだよ。井光さんが引退して、火産霊の一ノ側仕が吟呼になって、側仕筆頭が縷々さんになったんだ」
紅優がぼそぼそと説明してくれた。
知らない名前も出てきたが、つまりは強くて凄い妖怪と理解した。
「とても凄い方が紅優を守ってくれるってこと、ですよね。良かったです。紅優が危険な目に遭うのは、嫌だから」
大蛇が紅優を殺しに来るかもしれない。
井光なら、きっと大蛇からも紅優を守ってくれる。
そう思ったら、安心した。
大きな手が蒼愛の頭を撫でた。
目を上げたら、火産霊が笑っていた。
「記憶がなくても、蒼愛は紅優が好きなんだな。安心したし、嬉しいぜ。紅優を好きでいてくれて、ありがとうな」
火産霊にお礼を言われて、胸が温かくなった。
どうしてだか、切ない気持ちが湧き上がる。
「僕は火産霊様と、とても大切な話を、した気がします。火産霊様はとても優しいけど、ちょっとだけ切なくて。どうしてこういう気持ちになるのか、わからないけど、忘れちゃいけない話だった、はずで……」
隣にいる紅優が蒼愛を引き寄せて抱きしめた。
「散歩に行こう、蒼愛。俺も、蒼愛に瑞穂国を見てほしくなった」
「はい、紅優の指示に従いま……、じゃなくて。僕も、行ってみたいです」
紅優の声の方が切なくて、蒼愛の胸が余計に締まった。
そんな蒼愛と紅優を優しく見守ってくれる火産霊の笑顔は、やっぱり切なく見えた。
水ノ神 一ノ側仕(側仕筆頭):蛟 縷々
瑞穂ノ神 二ノ側仕:大猫 井光
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