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第四章 幽世の試練
83.遡った記憶
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体がフワフワして、頭がぼぉっとする。
寝ているんだと思った。
遠くで誰かの話声がする。
きっと研究員だと思った。
「蒼愛に埋め込まれていた種は、大蛇とは断定出来なかったよ。ただ、大蛇が好んで使う死の瘴気の残滓があった。術式がはっきりと仕込まれていてね。記憶を改ざんして意識と感情を支配する、現世の呪詛だ。古い妖怪や人間が好んで使う呪術だよ」
聞いたことがある声なのに、思い出せない。
話は聞こえているのに、理解できない。
何の話をしているのか、わからない。
「大蛇の妖気が検出できなくても、八俣が絡んでいると考えた方が妥当ですね。色彩の宝石を取り込んで神になりたいんでしょうか」
また、聞き覚えがある声がする。
どうしてか、胸の奥が疼く。
手を伸ばして抱き付きたい衝動が湧いて、戸惑った。
自分には、そう思うような相手はいないはずなのに。
「土ノ神の座を狙っているんだと思っていたけど、もうそういう次元ではないかもしれないね。瑞穂ノ神に取り入りたいか、成り代わりたいのか」
神という言葉が聞こえて、うんざりした。
(きっとまた千晴だ。強い術者の次は、神様を作りたいのかな。馬鹿みたいだ。神様なんかいないのに)
いないと思う自分の思考に、疑問が湧いた。
(いない……ん、だっけ? 会ったこと、なかったっけ?)
頭の中が混乱する。
(きっと実験の後だからだ。霊元を移植して定着しなければ、死ぬかもしれない。でももし、成功したら。僕にも未来が、あるのかな)
自分の開けた未来を、明るい未来を、知っている。
罵声でも嘲笑でもない、優しい声を知っている。
そんな気がする。
「蒼愛は、起きる気配がないね。時空の穴の中で、寝ちゃったんだっけ?」
「はい……。あの時は疲れて寝てしまったんだと思っていたんですけど。ただ寝ているだけではないのかもしれません」
心配そうな声がして、手に温もりが触れた。
「あの日から毎日、日美子様と月詠見様が蒼愛の全身を浄化してくれています。俺も頭のてっぺんから足の先まで浄化して確認していますが。種のような異物もないし、瘴気も妖力も感じない。何が原因か、わからなくて」
温もりが強く手を握った。
嬉しくて胸が切なく締まる。
(何だろう、この感覚。知らないのに、とても懐かしい。僕に優しくしてくれる人なんか、いないのに)
頭の奥から、誰かの声がする。
聞いたことがある関西訛りだ。
『はよ、起きや! お前を待っとんのや。お前やないと、あかんのや!』
理研でしつこく声を掛けてきた、あの男の名は何だったか。
『名前、教えただろ? もしかして、俺との約束も忘れたのか? 幸せになるの諦めないって、約束しただろ』
彼も理研で見た顔だ。
なのに、名前が思い出せない。
(大切な約束をした。いっぱい助けてもらった。僕は、知っているはずなのに)
声を出したくて、懸命に喉を開こうとする。
けれど、何を発すればいいのか、わからない。
今、声を出さないと、大事なものを総て失ってしまう気がした。
「ぅ……、ぁ……」
絞り出した声は、呻き声になった。
気配が二つ、近付いて、顔を覗き込んだ。
「蒼愛! わかる? 聞こえる? 蒼愛!」
白い髪の、紅い目をした男性が、顔を近づけた。
(綺麗な、紅い瞳。血みたいな赤なのに、宝石みたいで、とても綺麗だ)
口をハクハクとして、懸命に声を出す。
「僕、は……、二十八、番、で、す……。実験は、どう、なりました、か……?」
紅い瞳の男性が、愕然とした表情をした。
「蒼愛……? 蒼愛は二十八番じゃない、蒼愛だよ。ここはもう理研じゃない。蒼愛はもう被験体じゃないんだ」
「理研じゃ、ない……?」
理研じゃないなら、どこなのだろう。
知らぬ間に、どこかに売られたのだろうか。
(だとしたら、実験は失敗したのかな。結局、未来はなかったのか)
ゆっくりと目を閉じる。
目の前が暗くなって、これが現実なんだと思った。
「苦しくなく、痛くなく、食べて、ください。未来なんか、なくていいけど、辛いのはこれ以上、いらない」
大きな手が体を持ち上げた。
抱き締められているのだと気が付くのに、少し時間がかかった。
驚いて、顔を見上げる。
紅い瞳の男性が泣きそうな顔をしていた。
「俺を、忘れちゃったの? 覚えていないの? これから一緒に生きようって、番になって、幸せを一緒に探そうって約束したの、覚えてないの?」
「一緒に、生きる……?」
驚いて、目を見開いた。
目の前の男性は、恐らく人間じゃない。妖怪か、それ以上の存在だ。
そんな生き物と自分が共に生きるなんて、理解が追い付かない。
(いや、それ以前に、僕に生きる未来が、あるの? 戸籍も名前もない僕が、どうやって生きるの?)
そういえば、抱きしめてくれている男性が名前らしきものを呼んでいた。
まさかそれが、自分の名前なんだろうか。
(こんな温かさ、知らないはずなのに、どうしてか懐かしい。この妖怪の腕の中は、とても安心する)
無意識に体を預けて、温もりを感じている。
そんな自分に気が付いて、戸惑う。
「蒼愛、起きた時、ここを何処だと思った?」
赤い瞳の男性の隣にいる、体の大きな男が問うた。
この男もきっと、妖怪だ。
「理研の、実験室だと、思いました。今日は霊元移植の実験の日だから。霊元は僕に、定着したんでしょうか」
答えを聞いた紅い瞳の男性が、驚いた顔をしている。
大きな体躯の男性が顎に手をあてて考える仕草をした。
「霧疾にも診てもらうけど、もしかしたら時空の穴に入った後遺症かもしれないね。自分の記憶を置いてきちゃったのかもしれない」
「利荔さん、治るんですか? どうやって治すんですか? 記憶を見付けてこないといけないんですか?」
紅い瞳の男性が必死に問い掛けている。
「それも含めて、霧疾だね。今すぐ呼んでくるから、紅優は蒼愛から離れないでね」
利荔と呼ばれた男性が部屋から出ていった。
二人きりになり、なんとなく気まずい。
「本当に、何も覚えていない? 俺の屋敷に来た経緯とか、番になって、神様の宮を廻ったりとか、蒼愛の御披露目をしたり、色彩の宝石の祭祀があったり」
首を傾げるしかなかった。
男性の言葉は、わからないことばかりで、上手く頭に入ってこない。
「ごめんなさい、わかりません……。てっきり実験が終わって目覚めたんだと思っていて」
「……そうか。じゃぁ、十歳くらいまで遡っちゃってるんだね」
紅い目の男性が、寂しそうに呟いた。
「今の君は、十五歳でね。幽世に売られて、買った俺と番になって妖怪の国で生きてる。名前は、蒼愛っていうんだよ」
驚き過ぎて言葉が出なかった。
自分を買った妖怪と番というモノになり幽世で生きている上に、名前まである。
情報量が多すぎて処理できない。
「僕に、名前が、あるんですか? 番号じゃ、なくて?」
紅い目の男性が頷いた。
「俺と名前を与え合ったんだ。俺の紅優って名前は、君がくれたんだよ。君の蒼愛って名前は、俺が君にあげたんだ」
「貴方が、僕に、名前をくれた? じゃぁ、貴方が僕のご主人様ですか?」
自分を買って名前を付けるのだから、そういう関係なのだろう。
紅い瞳が悲しそうに俯いた。
「最初に、戻っちゃったね。やっと僕の紅優って言ってくれるようになったのにな」
その呟きに、ドキリとした。
「え? ご主人様に向かって、そんな失礼な発言を? すみません」
恐縮して小さくなる体を、大きな体が抱き包んだ。
「俺たちは番だよ。この国で番は、命を共有して共に生きる唯一無二の存在なんだ。俺はね、蒼愛と番になりたいって、好きになってねって、お願いしたんだ。蒼愛は命令じゃなく、自分の意志で俺を好きになってくれたんだよ」
驚いて言葉が出なかった。
頭は非常に驚いている。自分が誰かを自発的に好きになったり、誰かに好かれたりするなんて、考えもしなかったから。
なのに、心は納得している。
(この温もりを、僕は知ってる。欲しいと思ってる。触れるのが当たり前みたいに、自分の手が伸びる)
頭と感覚の乖離に、戸惑いしかない。
どうしていいかわからないのに、このまま抱きしめていて欲しいと思う。
「貴方の話が全然、分からないのですが、わかるように、努力します」
紅い瞳が俯く。
「名前を、くれて、嬉しい、です。その、僕は貴方を、紅優さん……と、お呼びすれば……」
そこまで言って、違和感があった。
「違う。僕は、貴方を、紅優と、呼んでいた? そんな気が、します」
見上げると、紅い目が輝いて見えた。
「貴方に……、紅優、に、触れると、安心します。もっと、触れたくなります。もしかしたら、好きって、こういう感情、なんでしょうか。感じたことがないので、わからないのですが」
顔が熱くなって、俯く。
紅優が蒼愛の顔を胸に抱いた。
「うん、そうだよ。少しずつ、思い出せばいいよ。失くした記憶は一緒に探しに行こう」
「良いんですか? 僕なんかのために、紅優に迷惑をかけてしまいます」
曲がりなりにも飼い主だ。あまり迷惑もかけられない。
「番だって言ったでしょ。対等な立場だよ。番は二人で一つなんだから」
「そう……、なんですか? そんなに甘えていいんでしょうか」
「甘えていいし、迷惑もかけていい。我儘いっぱい言っていい。言いづらいなら、前と同じように、一日一個、希望やお願いを言うってやつ、またやろうか?」
頭の中に、一瞬、何かが浮かび上がった。
前にも毎日お願いをして、その度に叶えてくれた。なんてことがあった気がする。
「じゃぁ、僕は、もっと貴方を知りたい。僕が貴方をどう思っていたのかを、知りたいです」
紅優の腕が強く体を抱きしめて、唇が重なった。
「俺たちは、こういうことも、もっと深いこともする関係なんだよ」
紅い瞳が妖艶に笑む。
胸がドキドキして鼓動が早い。
(全然わからないのに、どうして嬉しくて、気持ち良いんだろう。胸が、苦しい。こんなの知らないのに、どうして嫌じゃないんだろう)
温かい腕の中で重なる唇を受け取りながら、その熱に酔っていた。
寝ているんだと思った。
遠くで誰かの話声がする。
きっと研究員だと思った。
「蒼愛に埋め込まれていた種は、大蛇とは断定出来なかったよ。ただ、大蛇が好んで使う死の瘴気の残滓があった。術式がはっきりと仕込まれていてね。記憶を改ざんして意識と感情を支配する、現世の呪詛だ。古い妖怪や人間が好んで使う呪術だよ」
聞いたことがある声なのに、思い出せない。
話は聞こえているのに、理解できない。
何の話をしているのか、わからない。
「大蛇の妖気が検出できなくても、八俣が絡んでいると考えた方が妥当ですね。色彩の宝石を取り込んで神になりたいんでしょうか」
また、聞き覚えがある声がする。
どうしてか、胸の奥が疼く。
手を伸ばして抱き付きたい衝動が湧いて、戸惑った。
自分には、そう思うような相手はいないはずなのに。
「土ノ神の座を狙っているんだと思っていたけど、もうそういう次元ではないかもしれないね。瑞穂ノ神に取り入りたいか、成り代わりたいのか」
神という言葉が聞こえて、うんざりした。
(きっとまた千晴だ。強い術者の次は、神様を作りたいのかな。馬鹿みたいだ。神様なんかいないのに)
いないと思う自分の思考に、疑問が湧いた。
(いない……ん、だっけ? 会ったこと、なかったっけ?)
頭の中が混乱する。
(きっと実験の後だからだ。霊元を移植して定着しなければ、死ぬかもしれない。でももし、成功したら。僕にも未来が、あるのかな)
自分の開けた未来を、明るい未来を、知っている。
罵声でも嘲笑でもない、優しい声を知っている。
そんな気がする。
「蒼愛は、起きる気配がないね。時空の穴の中で、寝ちゃったんだっけ?」
「はい……。あの時は疲れて寝てしまったんだと思っていたんですけど。ただ寝ているだけではないのかもしれません」
心配そうな声がして、手に温もりが触れた。
「あの日から毎日、日美子様と月詠見様が蒼愛の全身を浄化してくれています。俺も頭のてっぺんから足の先まで浄化して確認していますが。種のような異物もないし、瘴気も妖力も感じない。何が原因か、わからなくて」
温もりが強く手を握った。
嬉しくて胸が切なく締まる。
(何だろう、この感覚。知らないのに、とても懐かしい。僕に優しくしてくれる人なんか、いないのに)
頭の奥から、誰かの声がする。
聞いたことがある関西訛りだ。
『はよ、起きや! お前を待っとんのや。お前やないと、あかんのや!』
理研でしつこく声を掛けてきた、あの男の名は何だったか。
『名前、教えただろ? もしかして、俺との約束も忘れたのか? 幸せになるの諦めないって、約束しただろ』
彼も理研で見た顔だ。
なのに、名前が思い出せない。
(大切な約束をした。いっぱい助けてもらった。僕は、知っているはずなのに)
声を出したくて、懸命に喉を開こうとする。
けれど、何を発すればいいのか、わからない。
今、声を出さないと、大事なものを総て失ってしまう気がした。
「ぅ……、ぁ……」
絞り出した声は、呻き声になった。
気配が二つ、近付いて、顔を覗き込んだ。
「蒼愛! わかる? 聞こえる? 蒼愛!」
白い髪の、紅い目をした男性が、顔を近づけた。
(綺麗な、紅い瞳。血みたいな赤なのに、宝石みたいで、とても綺麗だ)
口をハクハクとして、懸命に声を出す。
「僕、は……、二十八、番、で、す……。実験は、どう、なりました、か……?」
紅い瞳の男性が、愕然とした表情をした。
「蒼愛……? 蒼愛は二十八番じゃない、蒼愛だよ。ここはもう理研じゃない。蒼愛はもう被験体じゃないんだ」
「理研じゃ、ない……?」
理研じゃないなら、どこなのだろう。
知らぬ間に、どこかに売られたのだろうか。
(だとしたら、実験は失敗したのかな。結局、未来はなかったのか)
ゆっくりと目を閉じる。
目の前が暗くなって、これが現実なんだと思った。
「苦しくなく、痛くなく、食べて、ください。未来なんか、なくていいけど、辛いのはこれ以上、いらない」
大きな手が体を持ち上げた。
抱き締められているのだと気が付くのに、少し時間がかかった。
驚いて、顔を見上げる。
紅い瞳の男性が泣きそうな顔をしていた。
「俺を、忘れちゃったの? 覚えていないの? これから一緒に生きようって、番になって、幸せを一緒に探そうって約束したの、覚えてないの?」
「一緒に、生きる……?」
驚いて、目を見開いた。
目の前の男性は、恐らく人間じゃない。妖怪か、それ以上の存在だ。
そんな生き物と自分が共に生きるなんて、理解が追い付かない。
(いや、それ以前に、僕に生きる未来が、あるの? 戸籍も名前もない僕が、どうやって生きるの?)
そういえば、抱きしめてくれている男性が名前らしきものを呼んでいた。
まさかそれが、自分の名前なんだろうか。
(こんな温かさ、知らないはずなのに、どうしてか懐かしい。この妖怪の腕の中は、とても安心する)
無意識に体を預けて、温もりを感じている。
そんな自分に気が付いて、戸惑う。
「蒼愛、起きた時、ここを何処だと思った?」
赤い瞳の男性の隣にいる、体の大きな男が問うた。
この男もきっと、妖怪だ。
「理研の、実験室だと、思いました。今日は霊元移植の実験の日だから。霊元は僕に、定着したんでしょうか」
答えを聞いた紅い瞳の男性が、驚いた顔をしている。
大きな体躯の男性が顎に手をあてて考える仕草をした。
「霧疾にも診てもらうけど、もしかしたら時空の穴に入った後遺症かもしれないね。自分の記憶を置いてきちゃったのかもしれない」
「利荔さん、治るんですか? どうやって治すんですか? 記憶を見付けてこないといけないんですか?」
紅い瞳の男性が必死に問い掛けている。
「それも含めて、霧疾だね。今すぐ呼んでくるから、紅優は蒼愛から離れないでね」
利荔と呼ばれた男性が部屋から出ていった。
二人きりになり、なんとなく気まずい。
「本当に、何も覚えていない? 俺の屋敷に来た経緯とか、番になって、神様の宮を廻ったりとか、蒼愛の御披露目をしたり、色彩の宝石の祭祀があったり」
首を傾げるしかなかった。
男性の言葉は、わからないことばかりで、上手く頭に入ってこない。
「ごめんなさい、わかりません……。てっきり実験が終わって目覚めたんだと思っていて」
「……そうか。じゃぁ、十歳くらいまで遡っちゃってるんだね」
紅い目の男性が、寂しそうに呟いた。
「今の君は、十五歳でね。幽世に売られて、買った俺と番になって妖怪の国で生きてる。名前は、蒼愛っていうんだよ」
驚き過ぎて言葉が出なかった。
自分を買った妖怪と番というモノになり幽世で生きている上に、名前まである。
情報量が多すぎて処理できない。
「僕に、名前が、あるんですか? 番号じゃ、なくて?」
紅い目の男性が頷いた。
「俺と名前を与え合ったんだ。俺の紅優って名前は、君がくれたんだよ。君の蒼愛って名前は、俺が君にあげたんだ」
「貴方が、僕に、名前をくれた? じゃぁ、貴方が僕のご主人様ですか?」
自分を買って名前を付けるのだから、そういう関係なのだろう。
紅い瞳が悲しそうに俯いた。
「最初に、戻っちゃったね。やっと僕の紅優って言ってくれるようになったのにな」
その呟きに、ドキリとした。
「え? ご主人様に向かって、そんな失礼な発言を? すみません」
恐縮して小さくなる体を、大きな体が抱き包んだ。
「俺たちは番だよ。この国で番は、命を共有して共に生きる唯一無二の存在なんだ。俺はね、蒼愛と番になりたいって、好きになってねって、お願いしたんだ。蒼愛は命令じゃなく、自分の意志で俺を好きになってくれたんだよ」
驚いて言葉が出なかった。
頭は非常に驚いている。自分が誰かを自発的に好きになったり、誰かに好かれたりするなんて、考えもしなかったから。
なのに、心は納得している。
(この温もりを、僕は知ってる。欲しいと思ってる。触れるのが当たり前みたいに、自分の手が伸びる)
頭と感覚の乖離に、戸惑いしかない。
どうしていいかわからないのに、このまま抱きしめていて欲しいと思う。
「貴方の話が全然、分からないのですが、わかるように、努力します」
紅い瞳が俯く。
「名前を、くれて、嬉しい、です。その、僕は貴方を、紅優さん……と、お呼びすれば……」
そこまで言って、違和感があった。
「違う。僕は、貴方を、紅優と、呼んでいた? そんな気が、します」
見上げると、紅い目が輝いて見えた。
「貴方に……、紅優、に、触れると、安心します。もっと、触れたくなります。もしかしたら、好きって、こういう感情、なんでしょうか。感じたことがないので、わからないのですが」
顔が熱くなって、俯く。
紅優が蒼愛の顔を胸に抱いた。
「うん、そうだよ。少しずつ、思い出せばいいよ。失くした記憶は一緒に探しに行こう」
「良いんですか? 僕なんかのために、紅優に迷惑をかけてしまいます」
曲がりなりにも飼い主だ。あまり迷惑もかけられない。
「番だって言ったでしょ。対等な立場だよ。番は二人で一つなんだから」
「そう……、なんですか? そんなに甘えていいんでしょうか」
「甘えていいし、迷惑もかけていい。我儘いっぱい言っていい。言いづらいなら、前と同じように、一日一個、希望やお願いを言うってやつ、またやろうか?」
頭の中に、一瞬、何かが浮かび上がった。
前にも毎日お願いをして、その度に叶えてくれた。なんてことがあった気がする。
「じゃぁ、僕は、もっと貴方を知りたい。僕が貴方をどう思っていたのかを、知りたいです」
紅優の腕が強く体を抱きしめて、唇が重なった。
「俺たちは、こういうことも、もっと深いこともする関係なんだよ」
紅い瞳が妖艶に笑む。
胸がドキドキして鼓動が早い。
(全然わからないのに、どうして嬉しくて、気持ち良いんだろう。胸が、苦しい。こんなの知らないのに、どうして嫌じゃないんだろう)
温かい腕の中で重なる唇を受け取りながら、その熱に酔っていた。
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