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最終章 女子選手のアイデンティティ

83 ようこそ、ここはプロ野球

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「よし、今日も頼むぞ!」

 楓に最初に声をかけたのは新川だった。
 血行障害を患ったことなど忘れているかのような、いつも通りの様子で。

「さあ、あと一つしまっていこう!」
「打たせていこうな! がっちり守るから。」

 マウンドに集まっていた他の内野陣たちも次々に声をかける。
 一通り声をかけた後、全員が戸高の方を見る。
 「お前も最後に何か言え」という無言の圧力を受けて、戸高はプレー再開前からまごついた。

 それから、頭をヘルメット越しに新川のグラブで叩かれると、目を合わせぬまま、

「なんていうか、その――おかえり。」

とだけ言った。

「喧嘩中の彼女かよ!」

 田村が突っ込むと、マウンド上に笑いが起こる。

 思わぬセリフを受けて楓も顔を真っ赤にしながら、

「いや、何それ?! 意味わかんないんですけど!」

と取り繕った後、

「ただいま。」

と静かな、しかししっかりとした口調で言った。

 さすがに談笑しすぎた内野陣に主審が声をかける。
 戸高はばつが悪そうに一礼して謝罪した後、

「いいか、しまっていくぞ!」

と楓にだけ声をかけた。

「おっし、任せろい!」

 楓もはつらつと答える。
 そこにいるのはもう、いつもの二人だった。

 名前が再びコールされると、ゆっくりと篠田が左打席に入る。
 篠田は3年連続首位打者、本塁打も2年連続30本を超える強打者だ。しかもやっかいなことに、苦手なコースというのがない。データ野球を得意とする戸高の分析を持ってしても、ここへ投げておけば大丈夫という“安全パイ”の配球はなかった。

 しかも今の楓はスクリュー・カエデボール2号も新球種の二段大きなシンカー・カエデボール3号も使えない。一歩配球を間違えれば打ち頃のボールを真芯で捉えられてジ・エンドである。

 戸高はちらちらと篠田の顔色をうかがうと、すぐにサインを出した。

(インコースへ、ストライクになるカットボール。)

 左打者の外へ沈むボールはシンカーの大小しかない。
 神経の使う配球だが、楓の心に迷いはなかった。

 サインに頷くと、戸高は両手を大きく拡げる動作をする。

 楓はいつもこれに安心させられてきた。
 「大丈夫。思い切り腕を振ってこい。」といういつものメッセージ。

(マウンドに上がったら、もうどこにも逃げられないからね。信じてるよ、相棒。)

 楓はそう念じたあと、満足そうに唇の端を上げてもう一度頷く。そして、セットポジションからゆっくりと足を上げて第一球を投じた。

 左の下手投げ特有の独特な軌道から、ボールは浮き上がるように篠田の膝元へ向かう。
 篠田は前の足を高々と上げた独特のフォームから、高々と掲げたバットでボールゾーンにさしかかる球を叩きにいった。
 ボールはストライクゾーンに引き寄せられるように、ボール半個分だけ動く。
 そこを篠田のバットがちょうど迎えに行く形になった。

 ボールはバットと接触すると、乾いた音を立ててピンポン球のようにライト方向へ跳ね上がる。そしてドルフィンズファンの悲鳴を嘲笑うかのようにそのままぐんぐん伸びながら、ライト線を上空でなぞるように飛び、ライナー上のボールは一瞬でスタンドに吸い込まれた。

 ボールはライトポールのわずか外側へ吸い込まれ、一塁塁審が大きく両手を拡げる。
 ストライクカウントに「1」の数字が灯った。

 初球に見せられた特大のファウルボールに、場内の空気は一瞬で張り詰めた。
 ドルフィンズファンも、この回に1点取られては試合が決まってしまうことをよく分かっていた。

 楓はボールが落ちた先を見つめながら、帽子を取ってふーっと息を吐くと、ユニフォームの額の汗を拭った。もう9月の肌寒さがあるにもかかわらず、早くも額には大粒の汗が光っている。
 それだけこの勝負は緊張感に満ちているのだ。

 しかし、楓の目にはまったく動揺がない。
 それどころか、心なしか笑っているようにも見える。野球を楽しんでいるというよりは、「打てるもんなら打ってみろ」と言わんばかりの挑戦的で不敵な笑みだ。

 一方の戸高はまったく表情を変えずに、もう一度楓の方に向けて両手を拡げてみせた。
 「このコースは何回打ってもファウルにしかならないから、安心しろ」とでも言わんばかりだった。

 篠田はというと、さすがオーシャンリーグ屈指の強打者である。
 こちらもまったく表情を変えずに打席を一度外すと、平然と素振りをしてから打席に入り直した。
 篠田にとっては、このくらい挑戦的なバッテリーとの対戦も、いつか見た景色といった様子だった。先ほどの大飛球を惜しむそぶりなど微塵も見せず、「次のボールもスタンドにたたき込んでやる」と言わんばかりの視線を楓に送る。

 楓は篠田と一瞬目が合って、背筋にぞくっとするものを覚えた。
 これまでの自分であれば、恐怖していたかもしれない。

 どこに投げても打たれそうな気がする、本物の威圧感。

 それに触れたにもかかわらず、楓はますます頬を上気させた。
 思わず緩みそうになる口元を強く結んでから、戸高のサインを覗き込む。

(アウトコースに、ボールになるカーブ。)

 いったん打ち気を削ぐためのボールではないことはよく分かっていた。
 楓は心の底を見透かされないように、今度は小さく頷いてからボールを投じた。

 楓の指先を離れたボールは、下から風を受けたかのように地面すれすれから舞い上がると、篠田の頭めがけて真っ直ぐ飛んでいく。そこから急速にブレーキが掛かり、アウトローに構えられた戸高のミットに吸い込まれるように急速に落下していった。

 普通の打者ならば、インコースのカットボールを見せられた後では思わず泳ぎながら手を出してしまうか、なんとかこらえても見逃すのが精一杯だろう。

 しかし篠田は、なんとこれも予期していたかのように腕を伸ばして打ちに来ていた。

 天性のバットコントロールから、ボールが落ちてくる地点を予期していたかのように合わせると、今度は三塁線方向に低いライナー上のボールが飛んでいく。
 ボールは楓のアンダースローを彷彿とさせるように、三塁手・田村の前でぐんと浮き上がり、腕を真上に目一杯伸ばす田村を嘲笑うかのように頭上を越えてぽとりと地面に落ちた。

 だが、次の瞬間、再びドルフィンズファンの安堵の声がこだました。

 三塁塁審が両手を大きく拡げ、ファウルボールであることを告げる。
 これでカウントは0-2。結果的に追い込んだ形になった。

 楓がボールの落ちた先から戸高の方へ向き直ると、戸高はもう座って次のサインを出そうとしている。
 楓にはマスク越しに戸高の顔もいくばくか上気しているように見えた。

(そうだよね。こんな面白い勝負、なかなかできない。目一杯楽しまなくちゃ。)

 楓は心の中でそう念じると、戸高は一度頷いた。
 戸高には楓が考えていることが分かったのではない。
 自分も同じ気持ちで、楓に「目一杯楽しもう」と念じていたのだ。

 とはいえ、楓は重大な故障を抱えている。
 戸高の頭の中には、遊び球の三文字はなかった。

(アウトコースへ、ボールになるカエデボール。)

 満を持してこのサインを出した。

 篠田は多少のボール球なら強引に打って本塁打にするだろう。
 ボール球を振らせたからといって決して安心できる相手ではない。

 そして次に勝負球の大きなシンカーを投げることは、誰しもが予想できた。

 投手にとって、打者に球種が分かっている状態で投げることほど恐ろしいものはない。
 それがリーグ屈指の強打者であれば尚更である。

 しかし、楓の心はかつてないほど高揚していた。

 人間は意識が集中し、いわゆる“ゾーン”に入ると、一人だけ周囲とは時間の流れが異なるかのように、高速で思考や動作ができるという。しばしば集中した選手が「ボールが止まって見えた」などというのはこのためだ。

 サインを見た楓の脳内では、これまでの出来事や様々な思いが高速で巡っていった。

 大学卒業と同時に、私の野球人生は終わりを告げるはずだった。
 でも、今私はプロの、あろうことか日本シリーズのマウンドに立っている。
 史上最弱球団と呼ばれた湘南ドルフィンズでも、プロはプロ。
 奏子さんが、ホワイトラン監督が、私に夢の続きを見せてくれた。

 夢みたいな毎日だったけど、この日々が長く続くなんて思ってもみなかった。
 私一人の力だったら、セットアッパーで打ち込まれたあのとき、もう野球人生は終わってたかもしれない。「一軍で待ってる」なんて偉そうなことを言っておいて、希が合流した頃にはプロの世界から姿を消していたかもしれない。

 私を見捨てずに、一人の選手として育ててくれた監督やコーチ。
 たった半年のために契約金を払ったわけじゃないって叱咤してくれた奏子さん。
 どんなときにも最後まで諦めずに、「逆転のドルフィンズ」を創り上げてくれたナインのみんな。

 そして――

 どんなに打たれても、落ち込んでも――このミットに向かって投げれば、まだ頑張れるんじゃないか、もっと投げられるんじゃないかって思わせてくれる、この野球サイコパス。

 「明日から投げれないって言われても、後悔なんてしない」って言ったけど、ごめん、あれやっぱり嘘だ。

 ワンポイントでもいい。
 3日に1回でもいい。

 どんな形でもいいから、戸高くん――君と一日でも長くバッテリーが組みたい。
 そのためには、結果を出さなきゃいけない。
 結果を、出し続けなきゃいけない。

 だって、ここは「プロ野球」だから。
 結果がすべての世界だから。
 明日の仕事があるかどうかも分からない世界。
 同じように、すべてを懸けて立ち向かってくるバッターと戦わなきゃいけない世界。

 先発投手なら5回3失点で上出来。成功の暁には勝利投手。
 クローザーならリードを守れれば万々歳。勝利のご褒美はセーブポイント。

 でも、私の仕事は一人一殺。
 失敗の許されないワンポイント。
 抑えたって、数字には何の成果も表れない。

 だけど、このプロ野球の世界で、私が守るべき場所はここなんだ。
 何でそんなことを頑張れるのかって?

 それはね――

 楓は大きく息を吐くと、ゆっくりと足を上げた。

(一日でも長く、このミットに投げていたいから!)

 楓の念を載せたボールは、空気を切り裂く回転音を残して打者の方へ向かっていく。

 篠田は大きなシンカーを待っていた。
 初対戦同士ではあるが、ビデオで研究してきたのであろう。タイミングはバッチリだった。

 しかし、ビデオで事前に研究していても、なかなか打てないのが楓のシンカー。
 大学時代から「予測よりもボール丸1個分下に沈む」と打者に言わしめるそのボールは、初対戦の篠田のバットから逃れるように、手元で大きく変化して沈み込む。
 誰しもが三振を予期した次の瞬間だった。

 篠田が柔らかいリストから手元の変化にアジャストすると、見事にボールを捉えてみせた。
 乾いた音と共に、ボールがピンポン球のように舞い上がり、一気に右中間へと伸びていく。

 回転が強くかかったボールは、芯で捉えるとより遠くへ飛ぶ。
 キレで勝負するタイプの投手のボールが「軽い」といわれるのもこれが由縁だ。

(やられた!!)

 心の中で叫んだまま、楓は振り返ったまま棒立ちになる。

 しかし、ドルフィンズファンの悲鳴は、一瞬でざわめきとなって消えた。

 フェンスギリギリのところ、あと1メートルというアンツーカーゾーンで、センターの金村がボールをつかんでいた。

「あぶな……。」

 「打てるもんなら打ってみろ」というつもりで投じた渾身の一球だっただけに、楓は思わずマウンドの上にへたり込んだ。

「何やってんだ。チェンジだぞ。」

 それとは対照的に、戸高は至って冷静だった。
 戸高には、篠田の打球がフェンスを越えない核心があった。

「なんでそんなに冷静なのよ。」

 楓は不満げに頬を膨らませる。

「ふん、知りたいか?」

 少しもったいぶってみせる様子から、戸高がすっかりいつもの調子に戻っていることが分かる。

「仕方ないな。」

 といいながら、ベンチに戻る道すがら、戸高は得意げに解説してみせた。

 実は、楓のシンカーは大きくキレが増していたのだ。

 それはプロに入ってからの練習だけではない。
 度重なるワンポイント起用や、スクリュー開発のための合宿を通して、楓の下半身は大きく強化されていた。
 それによって初代カエデボールのキレはさらに増し、いつものコースにミットを構えたとしても、これまでよりもわずかに外れた位置に変化することを戸高は見越していた。
 ビデオで研究しているボールよりもわずかに大きく変化していたため、バットの芯を外していたのだった。

 ビデオで楓のシンカーが研究されていることを見越して仕掛けた、戸高の作戦勝ちだった。

「ひっどー! そういうことは言っといてよね!」

 ベンチでさらにむくれる楓を見て、

「だって、そういうの立花はすぐ顔に出るじゃんか。」

戸高はまるで幼なじみのように笑う。

 ベンチでチームメイトたちもつられて笑っていた。

 しかし、さらに楓が絡みに行こうとしたとき、戸高がまとった雰囲気に思わずたじろいだ。
 戸高は早くも次の回の攻撃に備えて、完全に臨戦態勢に入っているのだった。
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