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最終章 女子選手のアイデンティティ

81 私の大事な相棒の話

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「どうして……? なんでそんなこというの?」

 楓は静かな口調のまま尋ねたが、その声は動揺でかすかに震えていた。
 戸高は喉から絞り出すような声で答える。

「俺のエゴで、一人の投手の未来を潰したんだ。たった1シーズンでだぞ?」

 楓はその言葉を黙って聞いている。
 沈黙に耐えかねるようにして、戸高は次々に自戒の言葉をつないでいった。

「今考えたら、球種を増やしたのも俺だ。ワンポイントで毎日のように投げる状況を提案したのも俺。挙げ句の果てに、血行障害なのが分かってて続投を勧めたのも俺。立花の故障原因は、すべて俺が作り出したようなものだった。」

 こうなると、若干23歳の若者にとって、自分の心に突き立てた刃の止め方はもう分からなかった。

「そもそも、俺一人で1年目から1軍に定着することだって、ましてやスタメン捕手なんて夢のまた夢だ。でも立花と投げることで、立花の捕手は俺でしか務まらないって思わせることで、俺は自分の一軍を手に入れようとしたんだ。結局、俺は自分の野球人生に立花を利用しただけなんだ! それに――」

 何度目かの刃を引き抜き、再び突き立てようとした瞬間、後頭部にそっと何かが触れる感触で戸高は我に返った。

「私の大事な相棒を、そんな風に言わないでよ。」

 楓の吐息で短い後ろ髪が揺らぐ。
 戸高は事態を把握すると、自分の体が硬直するのが分かった。

「ちょっとでいいから、聞いてくれる? 私の大事な相棒の話。」

 楓は戸高の後頭部に額をそっと当てたまま、静かな口調で続ける。

「もともとなかったような野球人生だよ。それをくれたのは、私の大事な相棒なんだ。」

 戸高は身動きがとれずに聞き入ったままだ。

「その人はね、天才のクセして努力の限度を知らない野球バカで、周りからの期待もすごくて……なのに、私みたいな半端者の女子選手なんかにこだわってて。力を貸したばっかりに、一緒に二軍に落ちる羽目になって。バカみたいだよね。でもね――」

 戸高にはその様子は窺い知れなかったが、楓の声が少し鼻にかかって上ずっているような気がした。

「私の野球人生を、誰よりも大切に思ってくれる人なんだ。その人は私の活かし方を全部知ってる。初めて会ったときは、無愛想で、何考えてるか分からなくて、正直『なんだコイツ』って思ったけど。でも、誰よりも投手としての私じゃなくて、野球が大好きでしょうがない私のことを見てくれる。だから私は――」

 楓は戸高から離れると、回り込んで目の前に立ってから言った。

「その人が出すサインには、絶対に首を振らないって決めてるんだ。」

「立花――」

「だから私は、明日から投げられないって言われても、後悔なんてしないよ。」

 顔を上げた戸高と目をしっかり合わせてから、楓は微笑みかけて言う。楓に目にも涙が光っていた。

「始めは『まさか』って思ったよ。あの天才・戸高一平が私みたいな色物ピッチャーのことを覚えてるだけでも奇跡なのに、高校生の時から私の思いに気づいてくれてたなんて。」

「いっ、いや、それは……」

 とっさの告白を復唱されて、戸高は分かりやすく動揺して見せた。

「大丈夫、もう『キモい』なんて言わないから。」

 楓はいたずらっぽく笑うと、もう一度目を合わせてしっかりと言う。

「私に投げる喜びを思い出させてくれて、ありがとう。」

 野球人生最後になるかもしれない日に、楓は清々しいほどの晴れやかな笑顔で戸高に答えた。

◆◇◆

 日本シリーズが始まった。

 オーシャンリーグの覇者・福岡ファルコンズの本拠地であるサハラドームに乗り込んだドルフィンズはここまで2戦を終えて、連敗中。4対5、1対7といい所なく敗れ、早々にあと一歩で日本一へ王手という所まで追い込まれてしまった。
湘南スタジアムでの3連戦を控えて、本日は移動日である。

 楓はマウンドに上がるどころか、一度もブルペンにも呼ばれていない。楓自身もなぜ一軍登録されているのか不思議なくらいだった。

 楓は、あの日から戸高とはほとんど口をきいていないままだ。

 もちろん自分から頭を戸高の後頭部にもたれて、あんな話をしてしまったという恥ずかしさもあったが、それ以上にどんな言葉を交わしていいか分からなかった。ベンチの面々も、楓に対しては腫れ物に触るような態度で、大久保ですらいつものような勢いではじゃれてこない。
それだけ、投手が登板過多で故障するというとことは、プロにとって一大事なのだ。

 不自然な楓の温存に、スポーツ各紙は楓の故障より先に先発を疑った。移動日である今日、スポーツ新聞の一面は、

《ドルフィンズ、切り札・先発立花楓で巻き返しなるか》

の文字が躍っていた。

 だが、ドルフィンズの誰もが楓の先発はないことを知っていた。
 楓は福岡空港の売店に並ぶ自分の写真を見つけると、目深に帽子を被り直して、そそくさとチームの列に追いつく。

「見たか? 試合に出えへんでも一面やなんて、楓ちゃんはやっぱ人気もんやな。」

 大久保のおどけたセリフが明らかに気を遣ってのものだったことは、さすがに楓にも分かった。

「まったく、こんなときくらいゆっくり休ませてほしいもんですよね。」

 楓も大久保の配慮に感謝の意を表して、大げさに返してみせる。

「で、どうなんや?」

 搭乗ゲート近くのベンチに腰を下ろすと、大久保は単刀直入に聞いた。
 あの日から、移動中に楓の隣の席に座って落ち込みそうな気持ちを励ますのは、大久保の役目になっていた。大久保はこれまでの楓の様子の変化から、そろそろ本題を聞いても大丈夫だという確信があった。

「まあ、ボールも握ってないんで。おかげさまで、だいぶよくなってはきてますね。」

「要するに、ワンポイント以外は無理っちゅうこっちゃな。」

 楓なりに目一杯の空元気で言ったつもりだったのだが、打者心理を読むことに定評のある大久保にはお見通しだった。
 楓は小さなため息をつくと、

「まあ、そうですね。」

とだけ言った。

「でも、俺らは楓ちゃんのワンポイントにホンマに助けられてんで。ここぞってときに左のスラッガー迎える恐怖感は、左の俺ですら足がすくむレベルやからな。誰が何と言おうと、まだまだ楓ちゃんの居場所はこの場所にあんで。」
「ありがとうございます。」

 誰が聞いても分かる大久保の気休めに、力なく答える楓。

「かーーっ、なんやそのしょーもない返事は! 男やったらケツどついとるとこやで、まったく。」

 大げさにリアクションを取る大久保の態度に、思わず楓も笑ってしまう。
 こういうときにチームメイトが支えてくれるのは、何よりもありがたかった。

 だが実際、楓のワンポイントが重要な役割であっても、楓自身が意義を見失いかけていたことは事実だった。

 試合を最後まで締めたときの高揚感。
 あの心底力がわいてくるような感覚は、もう味わえないような気がしていた。

「しっかし、ある意味楓ちゃんより重症なんは、あのへっぽこ坊やの方やな。」

 大久保が向けた視線の先には色黒で筋肉質の体型をした、明らかにアスリートと分かる出で立ちがあった。
 他でもない、戸高である。

 戸高は福岡での2連戦で先発マスクを被ったものの、ぱっとしないリードで大量失点を許していた。
 打っても精彩を欠き、2三振1併殺、9打席連続無安打とまったくいい所がなかった。

「何があったんかは知らんけどな、落ち込みすぎやほんまに。あんな浮き沈み表にでるタイプやったか? あいつ。」

 大久保が不思議がるのも無理はない。
 戸高は、今シーズンのリードと打撃で、抜群の安定感を買われて先発マスクに至ったからだ。このまま大きな変化がなければ、ホームゲームの先発マスクはおそらくベテランの谷口だろう。

「そうですね……。」

 楓が、戸高の不振の原因は自分にもあると感じるのも無理はなかった。力なく答えると、うつむいたまま押し黙ってしまった。

「どうした? なんかあったんか?」

 大久保の問いに、楓は話してもよいことか判断する間もなく、思いを口にしてしまう。

「実は戸高くん、私のボールを受けてくれないんです。」

「そらまた、なんでや?」

「私が血行障害になったのは、続投を勧めた自分のせいだって。それで、私のボールを受ける資格がない、って。キャッチボールくらいはできるようになったから、付き合ってほしかったんですけどね。」

 それを聞いた大久保は、大げさに頭を抱えてみせる。

「はーっ、そりゃ難儀なやっちゃなあ。そんなん、楓ちゃんに失礼やろ。投げることを判断したのは楓ちゃんやし、指示したのは監督や。あいつが気に病むことあらへんのになあ。」

「まあ、そうなんですけど……。」

 楓はここまで話して、大久保に打ち明けたことを後悔した。
 相手が大久保だったからではない。

 二人の間にしか分からない“事情”を話すわけにはいかなかったからだ。
 プロとしてしのぎを削る世界で、戸高が高校時代の思いからあのような行動に出たことを話すほど、デリカシーがないわけではなかった。だが、この悩みを一人で抱えることはできないほど、楓にとって頭の中を支配していたのだ。

 楓は考え込むような顔をして、そのまま押し黙ってしまった。

 沈黙のせいか、東京行きの飛行機への登場を呼びかけるアナウンスがよく響いた。

「まっ、落ち込んでてもしゃーないわな。せっかく日本シリーズまで来たんや。楓ちゃんも、まだまだこんなもんで終わったらいかんで!」

 大久保に促されて、楓も「そうですね」と相づちを打ちながら少しだけ微笑むと、話してしまったことを戸高に内心で謝罪しながら、足早に飛行機へ搭乗した。
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