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第4章 夢の続き

53 奇策の価値は

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 この状況で内野5人という奇策に激しく動揺したのは、楓だけではなかった。

「おいおい……いくらなんでも、どうかしてるだろ……。」

 センターから左中間の真ん中あたりに移動しながら、金村もおもむろに口を開く。

 内野5人というのは、無死または1死満塁で、1点も取られたくないときに敷く超ハイリスクの守備シフトだ。

 同点で12回表、2塁ランナーは代走の俊足走者。1安打でも2塁ランナーの本塁突入の危険があるとはいえ、1死1・2塁の状況で内野5人という守備シフトは明らかに常軌を逸していた。

 金村はたまらず遠くに見えるホワイトラン監督に目をやる。
 しかしホワイトラン監督は、淡々と守備位置を指示する戸高サインを見て、帽子のつばを触って「アンサー」の指示を出すだけだ。
 普通、監督-捕手間のやりとりは、監督の指示に対して捕手が「アンサー(了解)」のサインを出すものだ。
 何もかもが常識外れだった。

 だが、このやりとりには訳があった。

◆◇◆◇◆

「それなら、1つ、条件があります。」

 3人の打者と対戦させるという首脳陣の決定に対し、戸高はブルペンで警鐘を鳴らしていた。
 無策のまま3人に投げたら、どこかで必ず打たれる。
 その確信が戸高にはあった。
 しかし、首脳陣に何か特別な策があるとは思えなかった。

 そこで、1つの条件を提示したのだ。

「この回、リードだけじゃなく、守備のシフトの全権限を俺にください。」

「何か策はあるのか?」

「はい。まず最初の細井さんに対しては——」

 頭上から鳴り止まぬ大歓声が響く中、いぶかしげに尋ねる河本コーチとのやりとりを続けるが、それを別の声が遮った。

「立花さん! もう乗ってください! 時間です!」

 それを聞いた河本コーチは、

「まあ、根拠はこれまでの実績で十分か……誰より立花のボール、受けてるもんな。」

というと、今度は楓の方を向いて、

「立花、頼む。俺からはもう、それしか言えん。」

と告げたのだった。

 どうやら楓には自分と戸高のやりとりは聞こえていなかったようだった。
 だが、ホワイトラン監督が立花楓と心中することを決めたように、河本コーチも戸高に任せるしかないと覚悟を決めていた。

「任されました!」

 そう言って元気にリリーフカーに乗り込む華奢な背中は、いつもより少しだけ大きく見えていた。

◆◇◆◇◆

「高橋! もうちょい右……ああ、行き過ぎ、もうちょい左……そう! そこ!」

「ええ?! ここすか?!?!」

 戸高が高橋に指示した守備位置は、2塁ベースとセンターの定位置のちょうど中間だった。
 内野5人シフトの中でも、さらに見かけない超変則守備シフトだ。

 これにはロイヤルズの4番・福本も少し戸惑ったはずだ。
 だが、福本はいつもと同じルーティンをこなすと、力強いフォームと目つきで左打席に入る。
 さすがはメジャーリーグも経験してきたベテランの4番打者。ちょっとやそっとでは動揺などしてくれない。

 楓はおそらく福本よりも動揺した心をなんとか落ち着かせながら、戸高のサインをのぞき込む。

(インコースに、ボールになるスクリュー)

 セオリー外のことだらけで、戸高の意図も詳細は読み取れなかったが、サインを出したあと「低く、低く」とするゼスチャーが見えた。

(絶対ゴロを打たせるリードをして、内野5人で守り切るぞってこと?)

 このメッセージだけでも受信できるのは、おそらく楓だけかもしれない。
 なんとなくは意思を共有できたが、頭の中をいろいろな考えがぐるぐる回る。

 でもゲッツーとるなら、誰がベースに入るんだろう。
 ライト方向に飛んだら、私って5人でもベースカバー入った方がいいのかな?
 3塁側のフォローってこの場合誰なんだっけ?

 こんな時に限って、細かいことが気になるものだ。

「ああ、もう!」

 思わず声を出して、余計な考えを振り切る。

(もうよくわかんないけど、思い切り投げるからね! どうなってもしらないよ!)

 そのままセットポジションに入ると、スクリューを投じる。

 この内野シフトに対して、打者の意識としては当然ながら「外野へ打て」である。
 斜め下方向に変化するスクリューボールを思い切りすくい上げようとするが、ボールゾーンまで変化した球はバットに当たると1塁スタンドへ消えていく。
 ファウルボールでカウントは0-1だ。

 その後も、戸高は徹底して変化球を要求してきた。

 2球目、外角へのスライダー。見逃してボール。1-1。
 3球目、外角へのカーブ。これも見逃してボール。2-1。

 そして投じた4球目。戸高のサインは、「内角のストライクになる小さなシンカー」だった。

 満塁ではないので慎重に投げたつもりだったが、ボール0.5個分内側に入ってしまった。
 それを福本は見逃さずに振り抜くと、ボールは一直線に1塁線に沿って舞い上がる。
 ライト方向には右中間に守っているボルトンのみ。
 フェアになれば無人の外野にボールは転がり、ジ・エンドだ。

「切れろ! 切れろ!」

 為す術もないボールの行方に向けて、ファンと選手たちが一斉に叫ぶ。

 その願いが通じたのか、ボールはファウルゾーンにぽとりと落ち、1塁塁審が両手を大きく広げる。

「助かった……。」

 思わず胸をなで下ろして大きく息を吐いた楓は、動揺したまま戸高の方を見る。

「立花! 追い込んだぞ! バッター勝負!」

 いやいやいやいや。一体何を言っているんだこの人は……。
 今試合決まってたかもしれないんだけど。
 追い込んだじゃないでしょ!
 っていうか、私いま超追い込まれてる気がするんですけど!

 楓はそう思って戸高をにらみつけるが、戸高は楓に向けてミットをばしんと右拳で叩く。

(ちょっとでも策士だと思った私がバカだった……ウルトラスーパー野球バカだ、この人は。)

 しかしその戸高の仕草で、一気に緊張から解き放たれた自分がいた。
 そして戸高はさらに真上を指さしてみせる。

 一瞬何のことか分からなかったが、次のボールのサインで戸高の意図はしっかりと楓に届いていた。

(真ん中低めに、ボールになる、大きなシンカー)

 ああ、そういうことね、戸高くん。
 真上を指さして、「いつものやつをやってみな」って。
 あれちゃんと毎回見られてたのか……何を心の中で言ってるかは分からないと思うけど、見透かされてるみたいでなんか恥ずかしいや。

 楓は戸高が普段いかに自分を見ているかを再認識したあと、天を仰いで大きく深呼吸する。

(大丈夫! 私のシンカーは世界一!)

 セットポジションから小さく間を開けて、右足をあげる。

(これは、お兄ちゃんが私にくれた、大切なおまじない。)

 左足に体重を一瞬かけて、大きく体を沈ませる。

(マウンドで1人で孤独なピッチャーが、心を奮い立たせるための魔法の言葉。)

 あげた左足に体重を移動しながら、そっとつま先を地面につける。

(何度もこの言葉のおかげで、1人でどんなに苦しくても投げてこれた。)

 体を大きく捻って、指先に力を伝えていく。

(だけど……いまは、目の前の野球バカも言ってる。)

 そして、これまでの思いと、背中を守るナインへの感謝と、戸高への信頼を込めて、

(私のシンカーは、世界一だって!)

指先で思い切りボールを弾く。

 真っ直ぐ一見癖のない軌道でホームベースに向かう白球を、福本はじっと見据えて軸足に体重を乗せた。
 このボールを捉えにいこうとしている。

 手元までくると、ボールは急激に失速して福本の内角方向へ曲がって落ちる。

 これに対して、福本は膝を折って変化にアジャストしようとする。

(やっぱり……読まれてる!)

 2-2の平行カウントで決め球のカエデボールを投じることは、誰の目から見ても明らかだった。

(でも……)

 楓には強い信念があった。

 シンカーは私の生命線。
 小谷野監督が私にくれた、大切なボール。
 これが打たれたら、ワンポイントだって、セットアッパーだって、いつか通用しなくなる。
 それが分かっていて、戸高くんはシンカーを要求した。私のシンカーを信頼した。

(だから私は……このシンカーを打たれるわけにはいかないんだ!)

 楓がそう念じた瞬間、福本のバットが捉えたボールを捉える。

 ボールは地を這うようなゴロとなって、楓の真横を抜けていった。
 そのまま2塁ベースの真横をボールが通過していく。

「やられた……!」

 そう楓が観念した瞬間だった。

「おらあああああああああああ!!!」

 叫びながら猛然とダッシュしてきた高橋が、ボールをつかむと、そのまま2塁キャンバスを踏む。

 2アウト。

 そして今度は体を思い切り捻って、1塁へ送球する。
 福本がベースを駆け抜けていくのが、一瞬遅かった。

「アウト!」

 1塁塁審の右手が力強く挙がって、超変則ダブルプレーの完成を告げた。
 12回表を0点に抑えたのだ。

◆試合経過(10月10日火曜日・湘南-大阪25回戦・湘南スタジアム)
大阪 010 201 020 000=6
湘南 100 202 010 00 =6
ドルフィンズの継投 斎藤、伊藤、バワード、山内、神田、須藤、立花-谷口、戸高

「よおっしゃああああああああああ!!」
「ナイスピー! 立花!」
「戸高もナイスリード!」

 口々に選手たちが声を上げながら1塁ベンチに戻ってくる。
 コーチたちもそれをハイタッチで迎え入れる。

「それで、策の根拠を聞いておこうか、トダカ。」

 ハイテンションで湧き上がる中、迫真に迫るような表情で言ったのは、ホワイトラン監督だった。

「君の言うとおり、リードだけでなく一切の守備シフトも一任し、結果的には0点に抑えた。ただ——」

 そういうと、分かりやすくいぶかしげな表情を作って問いただす。

「明確な根拠もなくこの作戦を取ったのなら、私も考えなければならない。」

 ホワイトラン監督の目は本気だった。
 絶体絶命のピンチを切り抜けた立役者に、回答次第では懲罰すら辞さないような物言いだ。

 しかし、これに対して戸高もまったく動揺することなく、ましてや喧嘩を買うかのような目で答える。

「まず、得点圏での福本さんは、ゴロで野手の間を抜くヒットが6割以上です。」

 そして、そのまま淀みなくつらつらと言葉を重ねる。

「しかもシンカーやスクリューの落ちる系の球を、得点圏で長打にする確率は5%以下。内野の間を抜かれる確率を最小化する方が、むしろ合理的です。」

「では、ファウルになった大飛球はどう説明する?」

 すかさずホワイトラン監督も切り返すが、用意していたかのように戸高の口調は変わらない。

「あのコースのシンカーは、福本さんはこれまで1本しか外野に飛ばしていません。それも、メジャーに行ってフォームを変える前の話です。」

 そう言うと、ちらりと楓の方を見る。

「まあ、少し内側に入ったのは計算違いでしたが……」

 楓もぎくりとして反射的にうつむいてしまう。だが、

「立花のコントロールミスの可能性を考慮しても、フェアゾーンに入らないコースと予想した上です。それは、これまでの立花の投球実績を見れば分かるはずです。」

と冷静に答えた。

(戸高くん、全部分かった上でこれをやってたんだ。野球バカどころじゃない。野球サイコパスだ……。)

 感心する楓をよそに、戸高はさらに言葉を続けようとする。

「それに——」

「なんだね?」

「立花で3人行くと言い出したのは監督でしょう。立花の投球実績を誰より、あなたが信じるべきです。」

 今日の戸高はいつもより気性荒く見えた。
 それだけ、自分のリードと楓の実績に自信を持っていたのだろう。

「なるほど。君の言うことはよく分かった。たしかに、タチバナ・カエデと心中すると最初に決めたのは私だ。」

 ホワイトラン監督も殊勝に戸高の言葉を受け入れる。
 そして意外な言葉を続けた。

「それに、タチバナ・カエデのシンカーを、私以上に信じるキャッチャーがいたことを、うれしく思うよ。」

「当然です。それがキャッチャーの役目です。」

 いったん始まった好戦的なやりとりに引っ込みがつかないのか、2人が互いに口の端をあげて笑う様子は、一風変わった師弟関係にすら見えた。
 こう見えて、実はこの2人は見えない絆で力強くつながっている。
 それはベンチの中の誰が見ても明白だった。

 しかし、まだ同点だ。
 このまま同点で終わってしまうと、引き分けが多く勝利数が少ないドルフィンズが4位ということになる。

 次の回に絶対に得点しなければ、CSには進めない。
 ドルフィンズにとって、今シーズンの明暗を懸けた、最終回の攻撃が始まる。
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