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第3章 ワンポイント

35 予期された悪夢

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 ダグアウトに下がった楓は、他の選手がウォーミングアップをする場所にいることもできず、ベンチとロッカールームをつなぐ廊下の奥に座り込んでいた。
 後ろで束ねていたのを解いた髪は、頭の上に無造作にかけたロングタオルの端からはみ出ており、一見すればその容姿は女子選手であるとわかるものだった。入団した頃に肩よりも上に先端があったボブの髪は、半年の月を経て胸の上あたりまで伸びていた。
 7失点──あまりの大量失点に、自分のボールが打たれることのショックも麻痺していた。

「半年か……私の賞味期限。」

 床を見つめたまま、楓は自嘲気味に呟く。

「あなたの何が半年だって?」

 無人のはずの廊下でかけられた声に、驚いて顔を上げる。
 目の前にはすらりとしたグレーのパンツスーツ。見上げると奏子の顔がそこにあった。

「どうして、ここに……」
「どうして? 私はチームのオーナー企業の社長よ。来てはまずい?」
「いえ、そういうわけじゃなくて……」

 ショックな出来事が続いた後にこの態度で接されると、さすがに言葉を返せない。楓は再びうなだれたまま、消え入りそうな声で返す。

「何を投げても、打たれるんです。際どいところに投げても、全部見極められる。」
「だから、半年が賞味期限で、それがすぎたから引退するって?」

 全部聞こえてたのに、あんな聞き方をしたのか。

「まあ、ルーキーとしてのあなたの賞味期限は、半年だってことね。」

 意味深な言葉だが、今の楓にはただ追い討ちをかけるだけだった。

「もう、ダメかもしれません……。」

 絞り出した言葉の最後の方は、もう声にならないほどだった。

「何言ってるの。腐るのは勝手だけど、腐ったところでお払い箱になんてしてあげないわよ。たった半年のために、契約金を払ったつもりはないわ。」
「すみません。」

 限界を一度感じてしまった楓には謝ることしかできなかった。

「あのね、野球もビジネスも同じよ。」

 声が近くなったことに少し驚いてもう一度顔を上げると、左隣に奏子が同じように体育座りの格好で座っていた。
 楓の様子をみて、さっきよりも優しい口調で奏子は続ける。

「ビジネスの世界も同じ。男女平等といっても、女子はマイノリティ。体力も人脈も、すべてビハインドからのスタートが当たり前になってる。でもね──」

 そういうと、奏子は楓の左の手首を持って、手のひらを上に向けさせる。

「一度や二度くらい壁にぶち当たったって、可能性が潰えるわけじゃない。あなたのこの左腕には、まだまだ可能性があるのよ。」
「でも、変化球もコースも、全部投げたんです! 谷口さんだって、いろんなリードを──」

 ここまで言おうとすると、また情けなくて涙が溢れそうになる。
 楓もまだ23歳。去年まで女子大生だ。挫折にも慣れていないのは当然だった。
 楓の隣に座った「女子」の大先輩は、楓の手首を持った指先を優しくさするように動かすと、

「私もね、初めて任されたプロジェクトで、大失敗したのよね。」

唐突に関係のない話を始めた。何のことかわからない楓はそのまま聞き入る。

「アプリの開発費10億。まだスマホ黎明期の開発費としては超異例の予算で作ったアプリを、大コケさせた。『もうクビだろうな』って思ったわよ。クビくらいで責任なんか取りようもないけど。」

 そういうと、奏子は懐かしそうに天井を見上げる。古びた笠井寺球場のダグアウトを照らす蛍光灯は、かすかな点滅を交えながら2人を照らし続ける。

「でもね。会社が私に10億というお金を預けたのは、そのビジネスを成功させるためだけじゃなかった。仮に失敗しても、それだけ大きなお金を動かす経験を糧に、次のビジネスを成功させるための経験値を与えるため。『人』に投資したわけね。」
「でも、私は──」
「でもじゃない。甘えるのもいい加減にしなさい。」

 突然の強い口調にはっとなる楓。奏子の声は大きくはなかったが、いつも出す声よりも低く、何より幾多の修羅場をくぐって来ただけの威圧感があった。思わず背筋が伸びる。

「はっきりいって、あなたが一度全部の球種を見極められて打たれることなんて、監督も私も予想済みなの。むしろよく持ったくらいよ。当初は4月中に一度捕まることを想定してたんだから。
でも──私たちは、そこからあなたが『進化』することも予想してる。だから、4月からセットアッパーとして起用した。その進化をいち早く起こすためには、早めに壁にぶち当たる必要があるからね。」

 奏子はゆっくりと立ち上がると、楓の頭に乗ったロングタオルをぽんぽんと2回叩いた。そしてまた暖かく優しい口調に戻ると、

「だから、考えなさい──自分がなぜ打たれたのか、なぜ見極められたのか。それに──あなたはもうドルフィンズの一員よ。決して孤独じゃないわ。」

 そういうと、奏子はハイヒールの音を鳴らしながら、ベンチとは逆方向へ消えていった。

 2人が話を終えた頃、ようやく8回の裏のロイヤルズの攻撃と、9回表のドルフィンズの攻撃が終わり、試合が終了したようだった。
 当然9回表の攻撃で楓がした7失点を取り返すことはできず、ドルフィンズは手痛い敗戦を喫した。足取り重くぞろぞろと選手が帰ってくるのをみて、楓は逃げるように女子更衣室へ駆け込んだ。
 こういうときに男女で更衣室が分かれていたのは、いま一軍にいるたった1人の女子選手である楓にとっては、不幸中の幸いだったのかもしれない。

 あとで監督室へいって、2軍への降格を志願しようか。
 このまま1軍で投げても糸口が見出せる気がしない。
 思いが交錯する。

 女子更衣室の扉を背にして考えながら、、逃げるように立ち去ってしまったことの背徳感を抑えるように、荒くなった呼吸を整える。

──コンコン。

 と、背中にノックの振動と音を感じた。

「立花──あの……ちょっといいか?」

 声の主は戸高だった。今日の戸高は試合出場がなく、ブルペンで投手のボールを受ける以外はベンチを温めていた。

「なに?」

 楓は扉に背をつけたまま、少し顔を扉側に向けて答える。

「今日はちょっと、1人になりたいんだけど……。」
「これから、ブルペンに来い。」

 相変わらず捕手なのに気遣いができないやつだ。
 さすがに少しイラついて口調が荒くなる。

「わかるでしょ。あんなに打たれて、今日はもう投げたくない。」

 一瞬の静寂の後、

「わかった。じゃあ、落ち着いてちょっとしたらブルペンに来い。準備してるから。」
「ちょっと、人の話聞いて──」

 言いかけて、もうドアの向こうに人の気配がないのを悟る。

 楓は奏子が触れた自分の左手をもう一度見た。
 これまでの様々な思い出が走馬灯のように駆け巡る。

 高3のとき指名されなかったこと、それでも野球は続けようと思ったこと、自分の思いに区切りをつけるためにプロ志望届を出したこと、指名された日のお祭り騒ぎ、厳しかったキャンプ、開幕戦で投げた日の緊張感──そして、奏子に言われた「進化」という言葉。

 勇気を振り絞ってドアを開けるまで1時間以上が経過していた。
 女子更衣室のドアを開けると、もうダグアウトには誰もいなかった。
 時刻は23時を回っていた。

 楓がブルペンに近づいていくと、野球中継の実況の音声と思しき音がかすかに聞こえる。
 ブルペンのドアを開ける。実況の音声が大きくなる。

《さてここまで5失点の立花投手ですが、ベンチは続投を──》

 楓が来たのに気づいて、戸高は慌ててモニターを消した。アナウンサーの言葉が途中で消える。
 こういう気遣いはできるのかと、妙なところに感心しつつ、楓は戸高に問う。

「それで、何?」
「ボールを投げてくれ。」
「ちょっと、私今日すごいたくさん投げて──」
「いいから。」

 ぶっきらぼうにいうと、守備位置について座り、ボールを楓に投げてくる。
 こういうときに押し切られてしまう自分が嫌いだ。
 そういえば大学時代、親友のあかねからは「楓は押しに弱いタイプだから、変な男が近寄らないように私が守る」といっていたのを思い出す。自分には大学内にファンクラブがあるほどだったのに。

 半ば押し切られる形でブルペンのマウンドに立つ。

「じゃあ、真っ直ぐから!」

 戸高が声を張る。
 楓は半ばヤケクソになってボールを投じる。
 ミットが乾いた音を立てて、ボールが収まる。

「よし、ナイスボール!」

 たしかに戸高の言う通りだ。
 こういうときに球が走ってしまうのはなんとも皮肉だ。

 それから、すべての変化球を投げた。投球数は全部で30球ほど。

「うん。なるほど。わかった。」

 最後のボールを捕球すると、戸高は独り言をぶつぶつといって、楓の方に向きなおる。

「だいたいわかった。もう帰っていいよ。」

 なんなんだこいつは。何か親切心でしてくれたのはなんとなくわかるが、それ以外は全くわからない。
 しかし、今日の楓に戸高と言い合う気力は残されていなかった。

 自宅へ持って帰るものが、失点数と情けなさのほかに、不可解さも加えられた。
 プロ生活初のゴールデンウィーク9連線は、何か現実味のない、悪夢を見ているような日々となってしまった。

「そうすると、指先の押し出しが弱いから変化が早まるのか……」

 まだ立ったまま下を向いてぶつぶついっている戸高を無視して、楓は怒りとも悲しみともつかぬ乱れた心を抱えたまま家路についた。
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