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第2章 遅れてきたルーキー

23 進化

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昨日とはうって変わって、マウンドに駆け寄った戸高は饒舌だった。

「高橋の怖いところは、野生の勘で配球を読んでくることだ。」
「そうなの?」
「昨日の夜徹夜して、高橋の高校時代のバッティングをネットで調べてたんだ。みんなのピッチングのことも。」

転んでもただでは起きない戸高の努力に楓は目を丸くするが、徹夜テンションのためかお構いなしに戸高は話し続ける。

「特に、ストライクを取りに来るタイミングを見抜く精度が高い。だから、それを逆手に取ってみようと思う。」

なるほど、それで鈴木さんに初球からフォークを要求したり、グスマンくんに変化球ばかりを要求していたわけか。楓はようやく昨日と違うリードの意味を理解した。

「逆手に取るっていうと、私の場合は?」
「明らかなストライクを取りにいかない。」

奇しくもその作戦は、入団試験で谷口がした提案と同じだった。

「何それ? 歩かせろってこと?」
「そうじゃない。立花さんは球が遅い。だから、明らかにストライクを取りにいけば、予想外の球種やコースでも、プロの選手ならアジャストしてくる。」

改めてはっきりと「球が遅い」と言われるとちょっと傷つく。
だけど、それは事実。受け止めたうえで、私がプロで生き残るための秘策を聞こうじゃないの。

「だから、くさいコースにしか投げない。大学時代の立花さんは、コーナーへのコントロールや投げ分けが抜群に正確だった。だから、ギリギリゾーンをかすめるコースを狙っても、2回に1回はストライクが取れると思う。昨日見た卒業直前の試合でも、投げた7回のうち6回を除いては、そのレベルのコントロールができていた。キャッチャーのミットの動きを見る限りね。」
「戸高くん……そこまで私のVTR分析してくれてたの……?」
「まあ……それなりには……。」
「よし、わかった! なんか準備の仕方がキモいけど、その作戦乗った!」
「ええ……。」

やはり面と向かって「キモい」は誰だって傷つくか。でも、「球が遅い」とおあいこだ。
マウンドで互いのグラブを一度合わせると、戸高は持ち場に戻る。

(アウトローに、ボール球の、スライダー)

でもやっぱり初球はアウトローから入るんかい!

心の中で一度突っ込んだが、これに訳があることも楓は理解していた。

セオリー通り攻めてくる、ギリギリボール球を要求して、バッターの打ち気をそそるんでしょ?

楓がいつもよりさらに慎重な意識でリリースしたボールは、アウトコースの大きく外れたところから打者の手元でストライクゾーンへ近づいていく。
迷わず高橋が大きく踏み込んでバットを出してくる。

(かかった!)

楓が心の中で叫ぶと同時に、ボールはバットの芯から少し外側にあたって、速いゴロで一塁側ファウルグラウンドへ。
狙い通り、打ち気をそそって、しかもファウルを打たせた。カウント0-1。上出来だ。
昨日とまったく違うバッテリーの意思疎通ができる喜びをかみしめながら、楓は再びサインを覗き込む。

(インローに、ストライクになる、カットボール)

これも、「『ギリギリストライクになるといいけど、ゾーンをかすめる程度のカット』を、ボールになってもいいので慎重に放れ。」というメッセージだ。

すっかり板についた地を這うようなアンダースローのフォームから、今度はインコースを狙って投げる。
初速がストレートとほとんど変わらない、一見打ち頃のボールが打者のインローへ向かう。
これには高橋も迷いがないスイングに出る。

そして、手元でボールは少しだけスライドして、ギリギリボールゾーンへ。
意表を突かれた高橋のバットの内側半分にあたり、ボールは自打球となって高橋のすねにあたる。これでカウント0-2。追い込んだ。

「って……!」

脚にレガースを付けていなかった高橋は苦悶の表情を浮かべ、谷口からアイシングスプレーを借りていた。
その苦々しい表情は、決して自打球の痛みだけからくるものではなかった。
初球も2球目も、もらったと思ったのに、思うように捉えられなかった。
打者にとって、「打てそうで打てない」という感覚が一番頭を混乱させるものであることは、戸高自身も大学三冠王として警戒され続ける経験から知っていた。

今回の戸高の楓に対するリードは、「球が遅いゆえに打てそうだが、なぜか打てない投手」がテーマなのだった。

こうなると、完全に戸高が描いたシナリオ・楓劇場の始まりである。
3球目は、ついバットを出したくなる高さの、ボール球のストレート。これを見逃してカウント1-2。
4球目は狙いが外れてボール球になった、インローの小さなシンカー。三振を意識した高橋はこれに手を出して後方にファウルを打った。
そして5球目のサインが出る。

(アウトコースに、ストライクになるストレート)

戸高くん、あなたもたいがい策士だよ。
この時の打者心理は、「追い込まれた後のボール球に手を出してしまった」だろう。だとすれば、もうくさいコースのボール球は振らないはず。しかもさっきはインコースのシンカーなので、打者のインコースに残像が残っている。アウトコースにアンダースローの左投手がボールを投げれば、一番打者から遠いところからボールが出て、打者から見てベースの外側を通る。つまり、必然的に打者からボールは遠く見える。

楓はいつもより力を込めて、スピードを意識したストレートを投げる。
力を入れた分、手元が少し狂って、ボールは内側にボール0.5個分入ってきた。結果的に、アウトローに入る普通のストレートになった。

が、高橋はこれを見逃した。見逃し三振。
ミットに収まった場所を確認すると、高橋は目を白黒させた。

「ほーん。まあまあだな。」

歩み寄ってきた谷口が戸高に声をかける。
戸高は「ざっす」とだけ軽く礼を返すと、プロテクターを外して打席に入る準備を始めた。
さすがに昨日あれだけ説教されて何も思わないわけはないが、これが戸高なりの精神的な抵抗だったのかもしれない。
どうやら「捕手は性格が悪くなければ務まらない」という格言は本当のようだ。

そして、リードが生まれ変わって意気揚々と打席に入った戸高だったが、そこはさすがにベテラン捕手、谷口はさらに上手だった。
リードで裏をかかれてあっさりと凡打を打ってしまった。

それからも、自主トレ期間は毎日、練習の最後にフリーバッティングが行われた。
3日目からはフリーバッティングに須藤も参加し、一層実戦的な練習となった。
これには須藤と谷口の狙いがあった。毎日毎日同じ相手と、手を変え品を変え、配球と癖の読み合いをする。1カード3試合を何度も実施するプロ野球の難しさはそこにある。そう伝えたかったのだ。

自主トレ期間が終わるころには、新人たちはお互いと須藤・谷口の投球やリード、打撃の癖にかなり熟知するようになっていた。

「じゃあ、最後に一本締めで終わろうか。」

最終日の練習につかれた面々に、谷口が声をかける。
野球人の文化は、なぜか練習の区切りを一本締めで決めたがる。
それは学生野球もプロ野球も同じことだった。

「じゃあ――戸高! お前なんかしゃべれ!」

こういうのは苦手そうだが、大学野球部のキャプテンも務めていた戸高。「はい!」と威勢よく返事をして円陣の中央に入ると、野球部仕込みの張った声で叫んだ。

「谷口さん、須藤さんと練習ができて、ようやく自分もプロになったなと実感することが出来ました! まだまだ勉強することは多いですが、一つ一つ身に着けて、早く一軍の試合に出れるよう、頑張っていきましょう! それでは、お手を拝借!」

さすが、慣れたものだ。
戸高「元」キャプテンのおあとがよろしい一本締めで、新人自主トレは幕を閉じた。

いよいよ2月。
楓たちに本格的なプロ野球人生のスタートを告げる、春季キャンプの季節が到来する。
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