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《25》嘘だよ

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 2月の最終金曜日。朝からずっと雨で、掲載誌(COMの広告が載った女性ファッション誌)が大量にあったから、夕方、タクシーで千駄ヶ谷に向かった。
「また言われちゃうんですかね。天見さんに」と俺が言うと、隣の牟礼さんが、
「お足元のお悪い中って」と返す。
 まだ、色覚のことは話せていない。話さなくて済んでるから。
 今月、COMの雑誌広告の校正紙は、あまり届いてなかった。こんなに掲載誌があるのに。7階の第2メデイア局第3雑誌部で修正指示されて、そのまま雑誌社に戻されてたからだ。来週、3月1日月曜日に、7階で修正指示を書き込んでた第3雑誌部の女子社員が、ウチの部に異動してくる。牟礼部長いわく「美大卒でファッションセンス抜群でCOMの大ファンの超優秀な女の子」らしいんだけど。山田マネージャーのリクエストなんだ。何度か雑誌の打合わせで会ってて気に入ってたらしい。俺も何度か会ってるけど、素直で謙虚そうないい子だ。昨日、月曜日にコム・ジャパンに挨拶に行くのに着る桃色のスーツを買ったって言ってた。多分、この掲載誌の広告に載ってるピンクのスーツなんだろうけど。
 コム・ジャパンが入ってるビルを出ると、まだ雨、夜の雨だった。牟礼さんが傘を持ってなかったから、俺の大きな傘を2人でさして、いい感じで、春を告げてるかもしれない潤いの滴の中を、千駄ヶ谷駅の方に歩き出した。なのに、俺のケータイが鳴りやがった。「尾咲」からの電話だった。
「なんだ、晴子かよ。お前、会社……、え? 母ちゃんが?」

 途中の新幹線で、前の方の席に座ったおばあちゃんが、一瞬、母ちゃんに見えた。
「嘘だよ」闇夜を急ぐタクシーで、声に出してしまった。急いだって……、いや、急がなきゃ、母ちゃんが待ってる。
 2階の窓、母ちゃんの部屋だけが明るかった。玄関の鍵は開いていた。母ちゃんが開けて待ってるみたいに。
「晴子」
「あっ、お兄ちゃん」
 2階の部屋に入ると、脱力して座ってた妹が、俺を見上げて言った。
 部屋の隅の小さなテーブルに、作り掛けの五円玉手芸の宝船があった。
 母ちゃんは布団に寝ていた。顔に白いハンカチを被って。
「明日、ヒノキ風呂の工事することになってたの。このお風呂も入り納めねって、昼から長湯してたのね。それで……」
「浴槽で死んでたの? 医者はなんて?」
「だから、急性心不全だって」
 暫く母ちゃんの顔を見ていた。暫く母ちゃんの部屋を見回した。玄関のドアを開けっ放しにしてきたような気がして、1階に下りた。
 ポリ浴槽の栓は抜かれていた。
 車庫、母ちゃんの陶芸工房に、ヒノキ風呂とヒノキの板が搬入されていた。
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