香りの鳥籠 Ωの香水

天埜鳩愛

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番外編 ヒート休暇のお店番 12

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 我が店とはいえ昼間と違って不気味なほどの静寂と自分の足元すら見えづらい程の暗さ。
 壁に手を付き手探りに工房を回りこんで、中庭にでる。始め暗すぎて何がどこにあるかもよくわからなかった。

 しかし目を凝らすと木の椅子に腰を掛け、明るいところではモザイク模様の青のタイルが美しいテーブルに突っぷす小さな後ろ姿が見えた。

「ラン!!」

 呼びかけに応えてむくっと起き上がったランの上半身を、高級なズボンの膝がすりむけるほど素早く走り込んで抱きつく。
 か細い身体がたわむほどの力で、むしろメテオが弟にすがるように抱きしめた。

「おにいちゃん?」

 寝ぼけたような、あどけなく甘えるような口調に胸が引絞られる。

 街中が祭りに浮かれ、みんな家族や仲間と過ごしているこんな夜に、たった一人でこんな暗がりに身を潜めていた。

 申し訳なさ、自分の不甲斐なさ、そしてランを思う愛しい気持ちが溢れて、メテオは涙が滲みそうになった。

「おにいちゃん。会いたかったよ」

 ランは素直に甘えて、冷たくなっていた身体からほっと力を抜き、腕の中で少しだけ震えた。

 真っ暗闇から徐々に目が慣れ無事な顔が目に映る前に、きつく抱きしめた胸から伝う確かな温もりを感じる。

 そしてランのほっそりした首筋から得も言われぬ芳香が立ち昇ってきた。

 甘いだけでない。花畑のような瑞々しい香り。春の園に迷い込んだような甘やかで優しく、切なくなるほど透明感のある優美な香り。
 首筋に唇を当て、噛みつき全て吸い込みできるならば舐め取りたくなるような甘美さ。
 これは間違いなく……

 (オメガのフェロモン……)

 初めて香る。ランのフェロモン。

 俺だけの…… 俺のためにだけ馨しく。

 たまらない。たまらない心地になる香り。
 唇で耳、頬と弄るようにし、探し当てたランの小さな唇に、メテオは優しく接吻した。

 こうでもしなければ興奮を逃せず、本当に噛み付いてしまいたくなったからだ。

 ふふっと吐息で笑い。ランは呟く。

「おかえりなさい」

 自分のいるところが、おかえりなさいの場所。
 そんな嫉妬に駆られた讒言を素直に受け取り、どこまでも凝り固まる兄を溶かす、暖かな心。

「ただいま」

 しかし、ランも離れ難く思ってくれているのか、兄の胸に頬を寄せて自らも腕を背にまわしてきた。

「ラン、こんな暗いところで…… 寂しかっただろう」

「兄さんがきてくれたから、もう平気だよ。色々あって疲れちゃって、少し眠っちゃったみたい」

 すりすりと顔を擦り寄せる小動物のような仕草が可愛らしすぎる。

「本当はね。兄さんにプレゼントを買いたくて、それで市場に行きたかったんだ。買ったらすぐに農園に帰ろうと思ってたのにお店が見つからなくて、ごめんね。それで僕…… ちょっとリアムと喧嘩しちゃったかもしれない」

「それは奇遇だな。俺もさっきリアムと喧嘩したところだ」

「え?」

 びっくりして身を起こしたランを逃さないように再び抱き寄せて、メテオはランの肉付きの薄い背中を、赤子のとき寝かしつけていたようにポンポンとリズムよく叩いた。

「お前に意地悪したみたいだから、ちょっと懲らしめてやったんだ」

 冗談めかす口調の兄に、ランはほうっと、また吐息をついて微笑む気配があった。何だそれが大人びて妙に艶かしく聞こえた。

 もう一度、メテオは衝動的にランの唇を奪っていた。
 片腕は背に回しかき抱き、片手でランの指一本一本を抱くように指を絡める。

 暗がりの中。いつもどおりの慎ましやかでふわっとしたランの唇。

「んっ……」

 息を詰めたランがあえかで妖艶な程鼻にかかった声をあげ、その息すら奪おうと煽られたメテオがわずかに開いた口に舌を差し入れようとする。

 それが先程リアムに傷つけられた傷にあたって、ランはびくっと震えた。
 恐れからの震えと判断し、メテオは顔を離して弟の頭を撫ぜた。

「……ごめん」

「違うの。あの、唇に傷ができちゃって…… ちょっと痛かったから」

「傷?!」

 今度こそガバッと身体を起こし立ち上がると、メテオはポケットから勝手口の鍵を取り出し、輪を指先に掛けた状態で、徐ろに弟を抱き上げた。

「なになに?! 兄さん! 大丈夫だから! 怪我してないから」

 メテオは聞く耳を持たずにズカズカと壁際に進む。住居スペースの扉を大きな音を立てながら解錠して中に入りこむと、すぐに電気をつけた。

「ラン! この傷どうしたんだ!」

「に、兄さんこそ! どうしたの?」

 先程から何故か兄は濡れているような気はしていたが、まさしく顔や胸元など上半身がずぶ濡れの状態で、しかも口元は切れ、頬とともに殴られたようなあざができていた。

「兄さん! 怪我してる!」

 ランは兄の顔を冷やしてやりたくて、ジタバタと床に降りようとするが兄はそれを許さず、
 一旦ランを食卓机の上に下ろすと、そっと指先で下唇に触れようとした。
 傷に触ると不味いと思って咄嗟に指を引っ込めるが、もう一度顔を近づけて目を釣り上げる。

「ラン、リアムに何されたんだ?」

 兄の剣幕が恐ろしくて。言ってはいけない気がしてランは目を泳がせて口をへの字につぐむ。

「言えないようなことなのか?」

 ランは悲しげに首を振り兄の両腕の裾を握りしめて再び胸に顔を填めた。

 シャツが水に濡れて張り付いた兄の胸はそれでも熱く。
 リアムに抱きしめられたときとは感覚がまるで違う。
 リアムからは得られなかったときめきと安心感とを同時に覚える。

「いいんだ。多分リアムが言っていることは本当のことだろうから。だけどね。僕がそれをどう受けとめるかは僕の自由だよね」

 何を意味してることなのかはわからなかったが、ランがリアムとの諍いの中でそういった境地に至る何かがあったのだろう。

「何があったかはわからないが。お前に何か悩みがあって、それでも自分の意思を通していきたいと思うことがあるのなら。俺はいつでも応援するからな」

 ランはその言葉が嬉しくて。兄の胸に甘えるように、鼻先を擦り寄せてその手で胸に触れる。

「あと一つね。リアムが教えてくれたことがあったんだ」

 ランはいたずらっぽく笑うと、小さく舌を出して唇の傷を舐める。またもエロティックな仕草に見えて、メテオは弟の急激な成長に逆にどきどきとさせられてしまう。

「キスはねえ。挨拶だけじゃなくて、好きだって思ったらしていいんだって」

 そういうとランは驚いて目を見開く兄の頭を手繰り寄せ、愛する兄の腕の中に包まれたまま、殆ど掠めるだけのもどかしい口づけをした。

「兄さん大好き。僕ずっとこの店で兄さんと一緒に働きたい。傍にいたい。ね?」

 メテオはもはやどこから喜んでいいやら分からない浮足だった心地になり、完全にランからの下手くそででも甘い口づけにとろとろと心を溶かされてしまった。

 オメガの甘く誘う香りを振りまきながら。
 二人のこれからを想う。

 ランはたとえ兄が番を作ろうとも、発情期には離れ離れになろうとも諦めずに傍にいようと新たな決意をした。

 兄は端からランを番にして生涯ともに過ごそうと考えていたのだが。

 この奇妙にずれた両思いのせいで、数年後番になる直前にハレへの街を丸ごと巻き込んだ大騒動を起こす二人なのだが。

 頬を染めあい互いに見つめ合う二人が今、そのことを知る由もなかった。

 そのまま二人でずっと抱き合っていたかったが、花火の音が聞こえなくなったことをランが指摘するとメテオは急に正気に帰った。

「すまない、ラン。夜会の客のところに戻らないといけないんだ」

 そして手早く濡れて均整のとれた身体に張り付いていたシャツを脱ぎ、テーブルに置き去りにする。

「ここで兄さんたちが帰ってくるのを待ってるね」

 素直になりさらにさらに可愛く見えるランを置いていくことが、どうしてできるだろうか。
 メテオは電球に煌めくラン目を覗き込み手を取ると、気持ちを込めてぎゅっと強く握った。

「いや、一緒に行こう」

 いうが早いか、メテオはランを連れて2階に駆け上がる。そこはこちらの工房に遅くまでいて、店舗に泊まることの多かった父の支度部屋だった。

 メテオはずぶ濡れのヨレヨレの姿だったので、背格好の似た洒落者の父の服の中から色合いが若向きのシャツとズボンに着替える。

 ランは店に出るためそれなりにきちんとした格好をしている。
 なんの変哲もない白いシャツに地味な茶のズボンを履いていたので、そのままでもよかったのだが、メテオは幼い頃のように愛情を込めて髪を梳かして身奇麗にしてやる。涙の痕があった顔は、丁寧に拭ってあげたのだ。

「あ、待ってて」

 ランは一階におりて、店舗の入り口をくぐると、棚の上に恭しく置かれたあの人からもらった、青いリボンのブローチをつけてみた。

「綺麗だな。よく似合ってる。そのまん中の硝子の飾り、ランの瞳の色にそっくりだ」

 二人で店舗にあった姿見の前に立つと、確かにこのビーズは自分の目の色にそっくりだなとランも感じた。

「今日お客様にいただいたんだよ。本当はこれと同じものを兄さんに買いに行きたかったんだけど…… お店がどこだかわからなくって。女神の加護をいただけるんだって。兄さんお仕事忙しいから、いつも元気で安全に家に帰ってきて欲しくて。お守りを渡したかったんだ」

 そういって鏡越しに兄を見つめてはにかむ笑顔が、何よりのお守りだとリアムは感じた。

 いつだってランはメテオを明るく照らす、一筋の日の光。

「さっきのランからのキスで、すごく元気がでたよ」

「そんなことでいいの?」

「好きだと思ったら毎日だってしてくれるんだろ? ……じゃあ俺もしてもいいだろ?」

 返事を聞く前にこの兄にしてはせっかちに。
 鏡の中の二人もチュッと音を立てて口づけし合うのをランは横目でみて、幸せな気持ちになった。なぜならランに口づけをしてくる兄の顔もまたラン同様に幸福げにみえたからだ。



 それから二人は手に手をとって旧領主の館に戻ると、メテオは弟を夜会の人々に紹介しながら堂々と胸を張ってこう言い切った。

「メルト・アスター香水店はもうすぐ代替わりを控えています。今後は私メテオ・アスターならびに、弟のラン・アスターとともに、店を盛り立てて行こうと考えております。なにとぞよろしくお願い申し上げます」

 ランも傍らで畏まり美しくお辞儀をした。
 メテオは満足げに、ソフィアリは聞いていないぞとメルトをやや睨みつけながらも、若い二人の決意を拍手をもって激励したのだった。



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