香りの献身 Ωの香水

天埜鳩愛

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溺愛編

旅する家族の終の住処1

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 大きく開け放たれた窓から爽やかな初夏の風が吹きわたる。
 ロッキングチェアーの置かれたテラスの向こうには小さな畑に真っ赤なトマトが大きく実り、どこかの家の犬がまた脱走して庭を横切っていった。

 執務机の上に開かれた窓から強い風が吹き込んできて、向こうが透ける柔らかな白いカーテンが大きく膨らませると、机の上の写真立てをかたんと倒していった。

「あら、セラフィン先生、大丈夫? 」
「大丈夫。大丈夫」

 白衣を羽織った手が伸びて、写真立てを持ち上げた。この離れにある書斎は小さな畑に面しているせいか、すぐに土ぼこりが舞うのだ。写真立てについた埃をついでハンカチで拭ってカーテンが届かぬ位置にずらして置きなおす。

(大分色が褪せてきたな)

 結婚祝いにジルからプレゼントされた凝った造りの青銅の額に入った、当時は珍しかった極彩色の写真。映っているのはまだ番になる前の若き日の二人だ。セラフィンと見つめあって恥ずかしそうにしている初々しくまだあどけないヴィオと、ヴィオの為になんとかその場に留まってはいたが、どうしていいのか分からず撮影者の言いなりになってやや困った顔をした長髪のセラフィン。

 もう20年近く前のことだ。セラフィン後ろに撫ぜ付けた黒髪にも白いものが混じり始めた。写真の中の妻に微笑みかける。遠い昔の懐かしい思い出だ。

 番になったあの日から本当に沢山のことがあった。

 それまでの人生、全てを達観したような、何もかも分かったような顔で厭世的に生きてきたセラフィンだった。しかしあの日に全てが打ち壊され、文字通り新しい人生が始まった。あの日から番と共に生きる怒涛の日々が始まったのだ。

 山の女神に祝福されたように、初めての発情期で授かった長男を頭に男の子を二人、女の子を一人とありがたいことに三人授かった。

 子どもが幼い頃は中央を中心に暮らし、セラフィンは病院勤めに復帰をし、ジブリールをはじめとするモルス家の面々の助けを借りながらヴィオも子育てと両立しながら進学を果たすことができた。

 子どもたちが大きくなってからは悲願であったドリの里のある地域に初めて常勤の医師のいる診療所を作るため、その立ち上げのために中央と里とを行き来する生活にもなった。バルクの勧めで補助金を得られるように取り計らい、計画は期せずして周囲の期待を一身に背負って大きくなっていき、地域の要となる総合病院を建設するまでに至った。
 それとは別にドリ派が古くから食してきた薬草を使った料理を出す宿や入院している人間を看護する家族が泊まる施設なども周囲に整備していき、病院以外にも雇用が生まれたことで少しずつ里や周囲の街にも人が戻り、活気が生まれてきた。もちろん今はまだその道半ばといったところだ。

 その忙しい最中にも子どもたちを連れてセラフィンが若い頃訪ねて歩いたフェル族の里を再び訪問して、ベラが失った恋人の両親と面談することもできた。

 子どもたちは現在勉学の為に中央に身を置いているが、どういう因果か叔父のラグ、従兄弟のカイにそっくりで力が有り余るやんちゃな次男のシトラスは、かつてはソフィアリの暮らす南国ハレヘで一年間、年の近い従兄弟たちと暮らさせてみたりした。勉強が得意だったソフィアリやセラフィンに似て明晰な頭脳と美貌を併せ持つ長男は寮とモルス家を行き来しながら飛び級で学校に通い、ヴィオたちはドリの里と中央、たまには湖畔地域に暮らしたりと、家族はこれまでてんでばらばらに国中を旅するように生活していた。

『僕の中にはやっぱり気ままな風の民、ソートの血も入ってるね。僕らは旅する家族なんだ。旅して大きくなっていく家族だね』

 そんな風に鷹揚に笑うヴィオだが、セラフィンとは片時も傍を離れなかった。番はいつも一緒にいるのが二人にとって当たり前だったのだ。

 今はドリの里に居を構え、沢山の人の尽力で作られた地域随一の大きさの総合病院に勤めるセラフィンだが、休みの日にはこうしてドリの里の書斎で一日の大半を過ごしている。

 最近肩が上がらなくて困ると半分愚痴をこぼしに来ていた里のおばあちゃんは、よっこらしょと丸椅子から立ちあがって少しだけ目線の上にある写真を指さした。

「その写真もいいけど、こっちのルピィちゃんが赤ちゃんの頃の写真も可愛いわね」

 写真の中ではヴィオに抱かれた産着を着せられた丸々と愛らしい赤ん坊と、それを取り囲む年の離れた兄達や父、祖父等男たちが、ぎゅうぎゅう押し合いへし合いしながら我先にと抱き上げようとしている一幕が瑞々しく切り取られている。
 姉のリアのところも息子ばかりが生まれていたため、初めて親族に誕生した女の子に沸きに沸いていた時の写真だ。祖母の名前を譲り受けた幼いルピナスは、今では里のみんなの人気者。片時もアガが手放さず、父親の子煩悩(?)な一面にはヴィオも驚きを隠せなかった。

「ルピィはこのころから里長が大好きで、泣いていても抱っこされたらご機嫌になって泣き止んだな」

「今でもどこにいくでもアガさんと一緒ね。ほらほら街のみんなとヴィオ先生が駆けっこしてる写真もあるわね。先生の診察室・・・はいつみても見どころ満載だわね」

「ああ、その写真は傑作だ。結局みなで寄ってたかって駆けっこ勝負を挑んだけど誰もヴィオにはかなわなかった。現役の軍人もいたのにな」

 セラフィンも起ちあがると苔色の壁にクリーム色で蔦が描かれた壁に所狭しと並んだ額縁をあらためて眺めなおした。一つ一つが家族の記憶、家族の歴史そのものだ。

「あ~! 先生こんなところにいた!!! 探したんだからね」

 窓からにょきっと顔を出したのはセラフィンの妻で番のヴィオだ。頭の上で一つに括った長い髪を馬のしっぽのように揺らしながら、部屋を外から回り込んでテラスからサンダルを飛ばすようにして上がり込んできた。

「なんで休みの日までここにいるの? あ、ルイザばあちゃんこんにちは」
「別にここは俺の書斎だ。いついてもおかしくないだろう?」

 落ち着き払っているセラフィンにヴィオは不満げな顔をしてぷうっと頬を膨らませると、腕にぶら下がる様に抱き着いて夫を見上げて言い募る。

「里の誰もここが先生の書斎だなって思ってないよ。私設診療室だって思ってるんだからね。あけたら最後次から次に人が来ちゃうでしょ!! せっかくヴィティスたちが友達を連れて中央から帰ってきたのに、リア姉さんたちがご馳走用意してくれたんだから、先生も早く集会所にきてよ」

 進学のためにドリの里から離れていた長男のヴィティスと次男のシトラス。数か月ぶりにそれぞれ友人を連れての里帰りをヴィオは数日前から心待ちにしていて、寝台の上で寝転がってくるくると転がってはわざとセラフィンの上にのしかかってきたりと毎日ご機嫌で大騒ぎをしていた。相変わらず無邪気な番がいくつになっても可愛らしいと愛おしく感じるが、それと対照的にオメガである真面目な長男が初めて友人を連れてくるということがセラフィンを憂鬱な気分にさせていた。

「あらやだ、ヴィオ先生、お邪魔しちゃったわね。やっぱり一日一回はセラフィン先生みたいないい男の顔を見ないとやる気が出なくてね。私も美味しいものもって集会所に後で顔を出すわね」
「待ってますよ~」

 そんなやりとりをしている間にセラフィンは元の椅子にどかっと腰かけて梃でも動かないような様子でそっぽ向いた。

「……それでどうだった?」
「どうってなにが?」

 わざととぼけて上目遣いに「ふふん♪」と微笑むヴィオが子憎たらしく可愛い。

「その友達とやらだ。その、あれか」
「あれって?」
「だからあれだあれ」

 焦らされ、痺れを切らしそうな番の顔をみて、『この人は本当に揶揄いがいがあって可愛いな』などと思ったヴィオはにたりと笑う。

「あー。連れてきた子がアルファだったかってこと? そんなこと自分で確かめにきてください」

 ぐっとつまるセラフィンはとてもヴィオにはかなわない。
 最近はすっかり母親としての貫禄が増してきたヴィオだ。長い時間をかけて粘り強く勉強を続けた結果、教師の資格を取ったのちは子育ての傍ら森の学校の子どもたちの教育にも力を注いできた。そして数年前からは見習い里長としての勉強も始めたのだ。

 番になりたての頃、里長を継いでもいいとアガに一大決心をしていった時には『俺を年寄り扱いするな、お前にほいほいと任せられるようものじゃない』とアガに一蹴されたヴィオも、長い間の大奮闘を認めた父から今では一目置かれるようになっていた。最近では新米里長として父の仕事も手伝っている。

 気力体力漲る若々しい番は、変わらぬ美しい大きな瞳をくりくりさせてセラフィンに向けてにっこり微笑んだ。

「お邪魔して悪かったわねえセラフィン先生。でもねえ。ヴィオ先生? あんまり責めないでやって頂戴よ。セラフィン先生はヴィティー坊やが番になる子を連れてくるのが寂しいんでしょ? じゃああとでね」

 そんな風に言い置いておばあちゃんが出ていくと、その背中を見送った後にセラフィンは憤慨したように声を上げた。

「番だと! 冗談じゃない。まだ学生だぞ、それにヴィティーはまだ成人前だ!」
「でも僕が先生と……。セラと番になった時だって今のヴィティスとあんまり年が変わらなかったよ」
「……」
「こんなことじゃ、ルピィが彼氏を連れてきた時、イライラしすぎて身体が持たなくなるよ」
「ルピィは一生里から出さないからいいんだ」
「またそんなこといって。アガ父さんじゃあるまいし」


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