香りの献身 Ωの香水

天埜鳩愛

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溺愛編

あの山里へ7

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 翌朝、ヴィオがパンの焼ける香ばしい匂いで目を醒ますと、小屋の中には窓からの朝日が眩いほどの差し込み、床の上で目をこすると、セラフィンとアガが穏やかに食事の準備をしているところが目に飛び込んできた。
 起きたばかりのヴィオには昨日小屋についてからの記憶がほぼない。服は新しいものに着替えさせられていていたが、自分で着替えた記憶もまるでなかった。しっかりとした硬さのマットの上に腕を立て、身体をゆっくり起こすと肩からずるずると色々な布が落ちていく。里から運んできた上掛けと共に母のショール、セラフィンの上着、父の上着とあるだけ着せかけられていて驚いた。

 セラ、と声をかけたかったのに、身体が怠く何故か声がかすれて思うように出ない。けんけんと軽く乾いた咳をしていたら、すぐにセラフィンが気が付いてこちらに向かってきてくれた。

「ヴィオ、身体は辛くないか? 少し熱があるようだ」

 外に出て水仕事をしてきたセラフィンの硬く冷たい手が頬にひやっと充てられたが身が縮むよりむしろ心地よい。思わず目を閉じ、嬉し気に摺り寄せていると、セラフィンが当然のようにヴィオを抱き上げようとしたので厳格な父の手前それは困ると、ヴィオは大慌てで手足をばたつかせた。

「だ、大丈夫! 歩けるよ」
「無理はするな。結局昨日は食事も薬もほとんどとらずに眠ってしまったのだよ」

 いつになく強引に抱き上げられた腕の中から恐る恐る父の方を見みやると、こちらに関心がないかのように黙々とストーブの上に乗せた網でパンを炙っている。簡単にパンを温めると今度は真ん中を開いて、里から持ってきた野菜と卵を炒めた物をぎゅうぎゅうに詰め込み皿に乗せると、無言で机の上にそれを置いた。

 平椅子にヴィオを抱いたまま座ったセラフィンが花のように微笑みながらご丁寧に今度は手ずから食べさせてくれようとして差し出してくる。

(これじゃあ、父さんにいつもこうしてセラに甘えていると思われちゃうじゃないか。恥ずかしいよ)

 成人したばかりの男子としての自覚はあり、父親にも格好をつけたくなる年頃だ。実は昨晩寝ぼけたままくたりとセラフィンに全身を預けて、身体を拭かれたり、口元にスープの上澄みだけを運ばれたりそれこそ赤子並みに甲斐甲斐しく世話されていたことをヴィオはまるで覚えていないのだ。おかげでセラフィンはさしつさされつの酒盛りが早めに切り上がったこともあり、今朝はいつもと変わらず怜悧な表情だ。
 父にしてみても今さらといった感じだろうが、呆れているのか何も言わず、少し二人と距離を置いているのか自分は皿をもって外に出ていった。そんな父の姿に流石に傷ついて、ヴィオは温かいパンを両手で受け取ると、口元に持っていった。

「自分で食べられますから」

 そう言ってセラフィンを口では突っぱねながらも、心の中ではひそかにヴィオは落ち込んでいた。

(昨日は大切な夜だったのに、僕が一度も起きないで寝ちゃったから、セラにも父さんに呆れられてるよね。これじゃあ大事な話どころじゃない。どうしよう)

 父の盛り付けが豪快で具がはみ出たそれに一生懸命かじり付きながら、段々と下を向いてしまう。

「ヴィオ、このあとアガさんと俺とで山頂まで道を点検してくるから、お前はここに残って横になっているといい」

 だからこそ、そんな風に言われてヴィオは顔が真っ赤になるほど、憤りってしまったのだ。

「いや! 僕も一緒に行くから! 大丈夫だから!」

 いやいやしながら何故だか知らぬ前に思う通りな動かぬ体が悔しくて、つぎから次に溢れてくる涙が止まらなくなってた。次第に嗚咽すら混じり始めて、パンに涙が降りかかってぐしょぐしょ湿るではないかと思うほど、次から次から零れ落ちてくる。
 それでももぐもぐとパンを頬張って、セラフィンと父に置いて行かれないようにヴィオは必死だ。

「泣くか食べるかどちらかにしなさい」
「絶対に行く、山まで行くから」

 頑固なところは親子でそっくりだとセラフィンは苦笑しながらも、ヴィオの気持ちを尊重してやりたかった。セラフィンと番になる前に、どうしても一族の眠る山に登り、山頂から大空にいる母や失われた一族の皆に挨拶をしたいとヴィオがサンダ達家族と食事をした時に酔いながら話していたのを小耳に挟んでいた。ヴィオは酔っていたので覚えていないかもしれないが、セラフィンの記憶にはしっかりと刻まれていたのだ。

「わかったから、落ち着いて」

(オメガフェロモンがどんどン濃くなっているから、気持ちの不安定さが増長しているのだろう)
 しゃくり上げるヴィオの背中を撫ぜながらセラフィンはそう冷静に分析していた。しかしそれでも愛するヴィオの気持ちをなにより優先してやりたいのが恋に目が眩み判断を誤る人としてのサガだろう。

 セラフィンが差し出した昨日の泉まで彼がヴィオの為に汲みに行った水は柔らかで甘く、ヴィオは頬を赤く染めたままこくこくとコップに口をつけて飲み干した。

 いつの間にか戸口の前で父がこちらを見返していた。窓から差す白っぽい光に対して逆光になって表情が伺いしれない。

「アガさん、俺が責任を持ちますのでヴィオも連れていきましょう。いけるところまでで無理はさせないと約束します」

 アガは応えずに再び小屋の外に出ていったが、セラフィンはそれをリアのように肯定と受け取ることにした。

 腕時計つけるのが億劫になり、鞄の底にしまっているため、正しい時間は分からないが、太陽の位置からまだ午前中の早い時間だとわかる。
 今回は山頂まで行くことを主眼と考え、荷物は最低限にして山小屋につるはしやスコップを置いていくことにした。

「ヴィオ、無理だと感じたらいつでもいいなさい」

 泣きぬれて鼻の頭がまだ赤いままのヴィオは幼げな顔でこっくりと頷いた。重い荷物はセラフィンがうけとり、叔母の作った笹の葉に巻かれた保存のきく餅を小さな袋からぶら下げた子供のお使いのような恰好をして子どもの頃のようにセラフィンの服の裾を握りしめている。

 山小屋から一族の住んでいた元の里のあたりまでは二刻ほどひたすら上り坂だ。途中坂というよりもむしろ崖と呼ぶべき場所も続き、今まで登ってきたような山道が続くと考えていたセラフィンは自分の見通しの甘さを痛感していた。岩肌を白糸のように細い滝が流れる箇所、たまにふらつくヴィオを先に登らせてはらはらしながら何かあった時は身を挺して彼を守るつもりで心してよじ登っていった。
 アガは二人から姿が見えなくなるぎりぎりの位置で距離を取って、しかし二人には構わずに先導していく。まるで群れの長である黒く大きな狼が群れの若い個体の力を試しているかのような、そんな悠然とした佇まいだ。崖の遥か頭上から老いてなお逞しい立ち姿で二人の様子を静かにうかがっていた。

 滝の上まで登りきると、岩場に座り込んで汗をかきはあはあと吐息をついたヴィオだが、山頂まで登ることをまだ諦めてはいないようだ。

「もう少しなの。もう少しで元の里の辺りだから」

 だから一緒に行かせてと赤くなり潤んだ瞳でセラフィンを見上げてきたが、セラフィンには迷いが生まれていた。アガを振り返ると、彼はフラスコに口をつけ水を飲み、短く指示を出した。

「少し休憩する。そのあとヴィオについて山を下りてもいい。ついてきてもいい。お前たちに任せよう」
「僕はいくよ」

 この期に及んでもヴィオは炯炯と輝く黄金の瞳をもって父に意志を示した。暫し休んだのち、ヴィオは滝の水で顔をぴしゃぴしゃと洗うと、若い鹿のようにしなやかで逞しい脚ですくっと立ち上がり、遥か山頂を眺め指さした。

「先生、もう、すぐそこが里のあった場所。山頂はその上」

 うねる黒髪を風に舞わせるその逞しい立ち姿は大地の女神の化身のように美しくもあり、セラフィンをもってしても暫し見蕩れるほどだった。

 その後は石や岩がむき出しに場所も増えてきた。這いつくばるように登る場所も多く、三人は無言でただただ上を目指すことだけに集中していく。

 ある程度登り終えたところで、その壁は唐突に目の前に現れた。
 灰色の岸壁の下に朽ちた梁やごろごろとそこら中に転がり落ちている大岩に言葉を失う。

(この場所が……、ドリの里)

 かつての里は山頂に続いていくところどころ岩肌の露出した緑の尾根の手前にあった。岸壁沿いに自然の岩場と木の柱を組み合わせた一つの巨大な城のような建物であったと、セラフィンは先日サンダから教えられていた。彼が記憶を頼りに図に書いてくれたので、大体の位置を把握していたつもりだが思った以上に景色は変わっているようだ。元々何千年も昔からそこにあった岸壁は、削れ姿を変えながらもただそこに残っている。ぐるりと首を巡らすと、隣の岸壁の麓の方にはまだかろうじて赤い梁や家の形をしたものが残っていた。そのあたりが雪崩を免れた地域であり、まさに幼いヴィオが叔母やリアと共に難を逃れた場所であろうと推測された。

「その岩場沿いに、家々があった。20年も経っていないのに、ほとんど土に還っている」

 そういったアガの目線の先にはセラフィンとヴィオは知りえない、かつての里の姿が目に映っているのだろうか。緑豊かな山々に囲まれているのに、この場所は静寂と寂寥感に包まれていた。
 立派な支柱だったと思わしきものが半分に折れて朽ち、そこからまた植物が生えているのが見える。柱には赤っぽい文字のようなものがまだ見え隠れしていた。見るものが見ればかつて魔除けの詞が掛かれていたものだとわかるだろう。

(ヴィオやラグ・ドリの家族が眠る場所)
































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