香りの献身 Ωの香水

天埜鳩愛

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溺愛編

それぞれの故郷1

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 しかしアガは先祖伝来の土地での再興にこだわった。しかしその心とは裏腹に、山深い彼の地での再興をやり遂げられるような求心力を、最愛の妻を亡くし抜け殻のようになっていたアガは持ち合わせていなかったのだ。

 里の人々にも意識の変化があった。先祖伝来、里に家族を残して出稼ぎに出る生活様式を守ってきたドリの里のものたち。しかし里の外とうちとで離れ離れの間に雪崩で家族を失ったことに絶望してしたものも多かった。運よく家族が生き残った者は家族が二度と離れ離れにならぬよう、手を携え別の土地にに移り住んだ。特に若い者たちは結局里を見限ったと見なされたサンダやゲツトの姿に倣って次々に里を後にしてしまった。今となってはサンダ達兄弟にはその功罪もある。

 ここに至ってセラフィンは彼らの里のこれまでの苦悩に責め立てられる心地になっていた。

(その再興の妨げになった一因は俺の家族にもある……。ひいては俺自身に……。もしも英雄ラグ・ドリが兄さんの番にならずに里に戻っていたら、もしかしたら彼の力をもってすれば里を元の場所に再興することも、一族をまとめ上げることも容易かったのではないだろうか)

 セラフィンにとってはラグ・ドリはソフィアリを間において、けして敵わぬ永遠のライバルのような存在だ。しかし悔しいが男としてもアルファとしても、格が上だと認めざるを得ない。それは番を支え南部の片田舎だったハレへの街を国を代表する観光地へ急成長させた手腕が国の内外に遍く知れ渡っているからだ。

 こんな時、ヴィオと自分の運命を繫ぐ糸はどれほど複雑に絡み合っているのかとその奇妙な縁を狂おしく思わざるを得ない。

 サンダはもう何も残っていない手の内の茶碗に目を落とし黙っていたが、再びゆっくりと口を開いた。

「ヴィオ。俺は里に戻るつもりはない。俺の故郷は今はもうこの湖水地方だ。ゲツトは国にすら戻る気がない。あの日、俺たちの里はこの世から完全に消えて無くなってしまったんだ。俺たちは肝心な時に家族の傍にいなかった。……最愛の母さんも妹も守れなかった俺たちには、土台あの里に戻れる資格なんてないんだよ」

「……そんな」

 その瞳はもう揶揄うような笑みを湛えてはいなかった。表情すら取り繕わない兄の真実の顔は深い喪失感に彩られ、ヴィオは初めて兄が持つ深い悲しみに触れた。

 ヴィオにとっての母は元々この世にいた輪郭さえあやふやなたった一枚の写真の中の存在。いつも身に着けている果実のように赤いショールの色だけが、ヴィオの中の母を鮮やかな存在にしてくれていた。
 しかし兄にとっては、あの日突然命を奪われ、永遠に失われた大切な存在。
 殆どヴィオの年齢と同じ年月が流れたとしても、それは簡単に癒える傷ではないのだろう。姉弟にとって父の前では母の話を未だに出しにくいのと同じなのだろう。ヴィオは兄の古傷を図らずも抉りに来てしまったことに罪悪感でいっぱいになり思わずセラフィンの膝に手を置いた。
 セラフィンは何も言わずにヴィオの手に手を添えて、温みだけを送ってくれる。

「ヴィオ、悪いことは言わない。先細りしていくあの土地に縋って生きることはやめるんだな。お前はその立派な先生と番うのなら、もう里のことを考えるのはやめておけ。自分が幸せになることだけ考えるんだ。お前の中の半分は自由な風の民の血が入ってる。母さんだってあの土地で父さんの親族の中で、たった一人で辛い思いをしてきたことも一度や二度じゃなかったはずだ。もっと自由に幸せに生きる道もあったはずだ。お前は想像すらつかんだろうが、里がまだ栄えていた頃は他所から来た嫁をいびるようなやつも沢山いたんだ。お前は自由に生きればいい。母さんの忘れ形見のお前があんな場所に縛られるな」

 サンダは父と似た瞳を眇めて、ヴィオの向こうに慕わしい母親の面影を追っているようにも見えた。それはとても哀しい表情で、兄の心の傷は未だに癒えていないとヴィオも深く悟った。

 (あんな場所……)

 兄の偽りも誤魔化しもない本心に触れてヴィオの心は再び千々に乱れてしまった。

「兄さんにとってはあそこはもう、里でも何でもないかもしれない。でも僕にとってのドリの里はあの場所だけなんだ。お年寄りばかりだけど、たまによその土地にでた人が帰ってきてくれて、懐かしそうに里のご飯を食べて、山の空気を吸って。それでまたみんな出かけていくんだ。森の学校だって、色々な人と協力して作って……。里から通えるようになった。街の人たちとも仲直りできた。だから……。僕は……」

 故郷を離れてわかったことがある。何でもある中央と違って不便ばかりの山里だ。周囲は自然豊かだかそれしかない。田舎町は退屈極まりない。
 だけど……。



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