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片付いた部屋
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一度マンションのエントランスで別れてそれぞれの家に帰ると、母は寝室の遮光性のあるカーテンをぴっちり閉め、本格的に暗くして眠っていた。年度末で仕事の疲れが出たのだろう。今日も無理して年休をとってくれたのだからそっとしておいてあげたいと思う。声をかけるのもやめてそっと静かに扉を閉めると、急いで部屋に着替えに向かう。
(もうこの制服着ることもないんだ)
新しい制服は紺のブレザーだから、人生でもう学ランに袖を通すことはない。この制服を着て陽仁と校門の前で写真を撮ったのがついこの間の様な気がするのに、紬は慣れ親しんだ制服をちょっと感傷的な気持ちで脱いできちんとハンガーにかけた。
(そういえば……。入試直前からお互いの勉強の邪魔になるからって、母さんたちに部屋に行くの禁止されてたから、陽仁の部屋行くの久々だな)
以前は中間や期末テスト明けで部活のない日は陽仁の部屋でゲームをして、そのまま泊まったりもしていた。卒業式が終わったら春休み中はまたそんな感じのだらだらとした生活もできるかもしれない。
(学校が始まったら、陽仁は陸上続けるだろうし、俺もバイトとか、ダンスも興味あるから始めてみたいし。何だかんだ言って一緒にいる時間短くなるかもしれないから、今のうちにがっつり陽仁と遊んでおこうっと)
それにはまずこの頭痛を止ませるのが先決だ。痛み止めを多めの水で飲んでから上の階にある陽仁の家まで、エレベーターではなく紬の家の扉から近い内階段を昇って向かう。
インターフォンを鳴らしたらすぐに塾に行くときの様なラフなパーカー姿に着替えた陽仁が、黒く重たい前髪をかき上げながらドアを開けて抑えてくれた。
「頭痛いの、大丈夫か?」
「うん……。薬飲んだから多分そのうち効いてくると思う。痛くなってから飲むと効きにくいらしいって母さんが言ってたから時間かかるかもしれないけど」
そっと労わるように頭を撫ぜられ紬はにへらっと笑う。思春期なので外では彩夏ちゃんに接するような仕草を陽仁にされると恥ずかしいが、二人きりなら幼い頃と変わらないごく親しげな距離感も気にならない。むしろ嬉しいとさえ思ってしまう。
「お邪魔します。あー。久々の陽仁んちの匂いだ」
「なんだそれ。じゃあ、俺買い物いってくる」
「ありがとう。母さん寝てたから俺のだけでいいよ。金は? 先渡しとく?」
「いや、いいよ。前に紬のおばさんにラーメン奢ってもらったし」
出ていく陽仁と入れ違いに、紬は靴を脱いで今まで何度も行き来してきた陽仁の家に勝手知ったる感じで入っていった。
同じマンションでも間取りが違うので陽仁の家の方が広い。一人っ子の紬の家と違い、男女の兄弟なので部屋数が多い方の間取りにしたとのことで、入ってすぐ廊下の左側が陽仁の部屋だ。
この間取りのおかげで二人で示し合わせて夜中にこっそり陽仁の手引きで寝巻のまま紬が部屋へと忍び込んだりしていた。家族にバレないようにこそこそ喋ったり一緒にスマホでサブスクの映画を見て夜更かし、朝方帰ったりとちょっとしたイタズラをしているようで楽しかった。そのまま一緒にベッドで寝落ちして、気がついたら朝で部活の朝練に遅れそうになり、慌てて制服に着替えに家に帰ったことも一度や二度ではない。
流石に受験生だったこの1年は真面目な陽仁の申し出でそんなことをしていないが、中二の頃までは頻繁にそんなゼロ距離感の生活をしていたのだ。
「なんか雰囲気違う! すげー片付いてる。偉すぎ」
久々の陽仁の部屋はすっきり片付いて、カーテンの色も今までの子供っぽい明るいブルーから、落ち着いたダークブラウンに変わっていた。
机の上には入学祝に買ってもらったと聞いていたノートPC。今まで本棚に並んでいた塾の参考書が紐をかけた状態で部屋の隅に置いてあった。
(俺の部屋なんてまだ、受験の名残残りまくりだよ……。母さんの言う通り春休み中片付けないとだな)
志望校を余裕をもって選んだ陽仁と違い、むしろ一つアップさせて必死に猛勉強した紬の部屋は合格と同時に燃え尽きてまだ新しい教科書を置く場所がない程、ごちゃごちゃ雑然としたままだ。しかも封印していた好きな漫画本を段ボールから出してしまって読みかけのまま収拾がつかない。
整然とした部屋はそれだけで大人っぽく見え、陽仁が一足先に高校生としての自覚をもって歩み出した気がして紬も負けていられないなと思う。
徐々に薬が効いてきたので、参加しているクラスのSNSを覗き見たら早速浮かれきった写真が次々と投稿されていた。いつも通り木戸が皆に向かって色々発信しているが、逆に卒業したら用なしとばかり早くもクラスのグループから抜けた猛者もいて、すぱっと人間関係を整理できてある意味すごいなと感心する。
そのまま下にスクロールしたら手塚さんと紬の第二ボタンの下りが目に飛び込んできて、『ツムと手塚さん付き合うの?』『どっちが告白?』とか下世話なコメントにもどきりとしてすぐに画面を切ると、ベッドを背もたれにしてぼんやりしていた。
(……クラスの集まり行きたくない。色々詮索されるのかな……。別に告白したわけでもされたわけでもないのに。周りが勝手に面白がって騒いでるだけのネタにされるの、マジ無理……。それに……)
「駄目だ……。ものすごく眠たい」
薬のせいか眼もとろんとしてきて頭にもやがかかってみたいなぼんやり感が広がる。靴下も服も綺麗なものに着替えてきたから、本当に遠慮なく布団に入れさせてもらうと薬が効いてきて少しずつ痛みが遠のく。朝からそれなりに緊張していた気持ちもほぐれ、余計に瞼が重くなった。
(この布団、陽仁んちの匂いがする。なんか高級な感じの洗剤の匂い? おばさんの趣味だろうな。うちと違って陽仁んちっていつもちゃんと片付いてるし、綺麗だもんな。陽仁の匂いもする……。落ち着く)
多分本当にひと時眠ってしまったと思う。暖かな気配を感じてすうっと意識が浮上してくる。
「……つむぎ。紬」
「はると? あれ……ここ?」
何度か呼ばれてようやく目を覚ますと、さっき出ていったはずの陽仁がもう戻ってきていていて、触れそうなほどすぐ間近に端正な顔があったから驚いた。
「寝ぼけてる? 俺の部屋だよ」
少しだけ遠のき陽仁の顔と焦点が合うと、年始に合格祈願の初詣に行った時より大分大人びて引き締まってみえた。部屋の雰囲気もベッドのカバーも変わっていたこともあり、陽仁も含めてなんだか見知らぬ場所で目を覚ましたような感覚になっていた。
「早かったね」
「走ったから」
「通りで早いわけだ」
陽仁は陸上部を引退した後も部活がない代わりに朝、早起きして走り込んでいるらしい。今、ファーストフードのポテトの香りが漂っているから、駅前までひとっ走り往復してきてくれたことになる。バドミントン部を引退して受験シーズンに入ってからは運動から遠ざかっていた紬は痩せてしまって筋力も落ちたから大分差がついてしまった。走ったせいでより乱れた陽仁のもっさりした前髪を紬も今はちょっと長めだから笑えない。
卒業したら髪型が自由になるから入学式までに高校生らしい髪型に二人で一緒に美容室に行って切ってもらう約束になっているのだ。
(高校いって、髪型とかもうちょっとどうにかしたら余計にモテそうだな、陽仁。はっきりした顔立ちだから、ちょっと髪色明るくするのもいいよなあ)
起き上がりもせず、まじまじと幼馴染の顔を見つめて、そんな益体のないことをぼんやり考えていた。
掛け布団をきっちり首までかけていたせいで、少し汗ばんだ額に、ひやっとした陽仁の手が頬を撫ぜてから額に当てられ心地よい。そのまままた頬の感触を味わうようにやんわり摘ままれたり、両手で包まれたり。昔から餅みたいだとかすべすべだとか何かにつけて陽仁に頬を触られてきたが、心地よくて目を瞑ると、今日の触れ方はなんだか壊れ物を触るように余計に優しいのが不思議だ。
「外、雨降ってきた? 少し寒くなった?」
瞳を開けて微笑み、真っすぐに陽仁の黒目が大きく澄んだ瞳を見つめ返したら、陽仁が眦を僅かに赤く染め目を反らし、手はそのままにすっと顔が遠のいた。
まだぼんやりとした心地で頭を起こそうとすると薬が効いている隙間を縫うように少しだけ痛みの芯のようなものが残っている。
「手、冷たくて気持ちい。……? 熱はないよ。俺、寝てた?」
「あ……。ごめん。頭痛平気か?」
「ちょっとまだ痛むけど大分いい。薬効いてきた。ただ、すごく眠たい」
「バーガーセット買ってきた。飲み物の氷が溶ける前に食べよう」
「分かった」
陽仁がベッドと床の隙間から出してきた脚が畳めるタイプの小さな机には、小さな頃二人でぺたぺたと張ったゲームのキャラクターのシールが今でも所狭しと張り付いたままだ。お互い競って張り付けて、綺麗好きのおばさんにこっぴどく怒られたが、のちに諦められ子供部屋専用になっていた。懐かしく思いながら見入っていたらファーストフードの紙袋に一緒に入っていたお手拭きで手早く陽仁がそれを拭いて中身をあれこれ並べてくれる。
「いただきます」
ハンバーガーのセットにさらに単品でお替り用のバーガー、ナゲットや山盛りのポテトも瞬く間に食べ終わると、陽仁は飲み途中の飲み物を残して手早く袋を片付け、台所の方にある大きなごみ箱に捨てに行った。
平日の昼間。普段ならまだ学校にいる時間だが、明日からは少し長めの春休みだ。高校から課題が出ているが、今日のところは手を付ける気は起らない。
春休み中べったり陽仁の家に入り浸る予定だったから、一緒に宿題を進めようと思っていた。SNSでは早くも進学先の高校の仲間を必死に募集して動き出した同級生予定の子たちの姿もあちらこちらにみえるが、進学しても親友がそばに居る紬はのんびりとしたものだ。
薬の影響かベッドを背にしたまま頭を赤ちゃんのようにうつらうつらと頭をぐらつかせる。そのまま床に向かって大きく傾いだところを、隣に座っていた陽仁が肩をグイッと引き寄せもたれかからせる。伝わる暖かな気配に眠気はました。
「眠いならまた寝てていい。風邪ひくから、ちゃんと布団に入って。彩夏のお迎えまで、まだ時間はあるからちゃんと起こすよ」
「本当にどうしたんだろ、すごく、眠い。薬のせいかな……」
「緊張してたからじゃないか。紬、意外と緊張しぃだから。それに雨降りだしそうで……ちょっと肌寒くなった。だから余計に怠くて眠くなるのかもな。動物的だ」
「ふふっ……。動物って。じゃ、スマホでアラームかけて寝るか。お前も眠くない? 隣で寝る?」
「え……」
「なに驚いてるんだよ。いつも泊りに来たら一緒に寝てたじゃん。」
「そうだけど」
「大丈夫だよ。俺寝起きはいいから、ちゃんとお迎え間に合うようにいくから」
「……わかった」
しかしお互いこの半年で特に陽仁がベッドを買い替えなければならない手前ぐらいに身体が大きくなっていたから、並んで横になると陽仁の広い肩がぶつかってぎっちぎちだ。
「せまっ……。眠い……」
窓の方に寝返りを打って、より小さい紬の方が気を使って身を縮めると、陽仁が言う通り雲は鉛色で今にも雨が降り出しそうだ。間髪入れず少しだけ開いたままの窓から強い風が吹き込み、風で飛ばされた水滴がぱたぱたっと次々に窓に降りかかった。
「なあ、陽仁。雨降ってきた」
紬が寝返りを打って振り向いたのとほぼ同じ瞬間に、陽仁の長いがまだぐんぐん成長途中の若木の様な腕にグイっと引き寄せられた。そのままむぎゅっと陽仁のシャツのボタンが顔に食い込み、紬は目を白黒させた。
(え、あ? なに? これどういう状況?? 陽仁寝ぼけてる?)
抱き枕よろしく腕の中に抱きかかえられて、紬と同じく小ざっぱりとした服に着替えたての陽仁の胸は、綺麗な洗剤の香りと混じる、人気の制汗剤の爽やかな香りがした。
子どもの頃ぬくぬくと一緒に布団に入った時はもっと甘いミルクの様な食べ物の香り、あるいは炊き立てのご飯のような香りがしていかにもふくふくとした安心の布団といった感じだったが、今は違う。
(なんだこれ……。なんか、なんか……)
異性を意識して中高生が必死で振りかける爽やかな香りが鼻をくすぐり、自分より逞しい腕の中に抱きかかえられると、逆になにか妙にいやらしく意識せざるを得ない。
ごそごそと布団の中でまさぐるように陽仁に探し出された紬の手は、小さなころと違い大きく骨ばった陽仁の手に握られて、まるでマッサージでもするようにぎゅっと掴まれたり、緩く離されたりを繰り返す。そののち指同士を絡めるいわゆる『恋人つなぎ』をされたから、思いがけぬシチュエーションに紬は耳まで顔が熱くなる。それに顔をぺったりつけているせいで伝わる、陽仁の心音が何故だか先に早鐘を打っていたから、仲良しな相手に釣られるように紬の心音も高鳴り出した。
(なんか、喋らないと、このシチュ。妙な感じになっちゃうじゃないか)
ひねり出したのは呑気風を装った、小さな震え声。
「……陽仁ぉ、俺彩夏ちゃんじゃないよ」
「流石にもう彩夏も小3だから、抱きかかえて眠ったりしない」
「じゃあなんで」
「いいから眠って。寝ないなら……。このまま俺の話聞く? それとも紬が何か話をしてくれる?」
(俺の話ってなんだよ!)
表が暗くなると同時に、部屋の中まですっかり薄暗く、夜ではないが真昼間でもないような静かであやし気な雰囲気が二人っきりの部屋の中に立ち込める。
「……じゃあなにか話をするか。そうだな……中学生活もこれで終わりますが、やり残したことはないですか? 」
「俺はある。紬は?」
やけに力強くきっぱりとした陽仁の声にびくっとし、紬は陽仁に抱きしめられたまま考えるが、頭が上手くまとまらない。
(もうこの制服着ることもないんだ)
新しい制服は紺のブレザーだから、人生でもう学ランに袖を通すことはない。この制服を着て陽仁と校門の前で写真を撮ったのがついこの間の様な気がするのに、紬は慣れ親しんだ制服をちょっと感傷的な気持ちで脱いできちんとハンガーにかけた。
(そういえば……。入試直前からお互いの勉強の邪魔になるからって、母さんたちに部屋に行くの禁止されてたから、陽仁の部屋行くの久々だな)
以前は中間や期末テスト明けで部活のない日は陽仁の部屋でゲームをして、そのまま泊まったりもしていた。卒業式が終わったら春休み中はまたそんな感じのだらだらとした生活もできるかもしれない。
(学校が始まったら、陽仁は陸上続けるだろうし、俺もバイトとか、ダンスも興味あるから始めてみたいし。何だかんだ言って一緒にいる時間短くなるかもしれないから、今のうちにがっつり陽仁と遊んでおこうっと)
それにはまずこの頭痛を止ませるのが先決だ。痛み止めを多めの水で飲んでから上の階にある陽仁の家まで、エレベーターではなく紬の家の扉から近い内階段を昇って向かう。
インターフォンを鳴らしたらすぐに塾に行くときの様なラフなパーカー姿に着替えた陽仁が、黒く重たい前髪をかき上げながらドアを開けて抑えてくれた。
「頭痛いの、大丈夫か?」
「うん……。薬飲んだから多分そのうち効いてくると思う。痛くなってから飲むと効きにくいらしいって母さんが言ってたから時間かかるかもしれないけど」
そっと労わるように頭を撫ぜられ紬はにへらっと笑う。思春期なので外では彩夏ちゃんに接するような仕草を陽仁にされると恥ずかしいが、二人きりなら幼い頃と変わらないごく親しげな距離感も気にならない。むしろ嬉しいとさえ思ってしまう。
「お邪魔します。あー。久々の陽仁んちの匂いだ」
「なんだそれ。じゃあ、俺買い物いってくる」
「ありがとう。母さん寝てたから俺のだけでいいよ。金は? 先渡しとく?」
「いや、いいよ。前に紬のおばさんにラーメン奢ってもらったし」
出ていく陽仁と入れ違いに、紬は靴を脱いで今まで何度も行き来してきた陽仁の家に勝手知ったる感じで入っていった。
同じマンションでも間取りが違うので陽仁の家の方が広い。一人っ子の紬の家と違い、男女の兄弟なので部屋数が多い方の間取りにしたとのことで、入ってすぐ廊下の左側が陽仁の部屋だ。
この間取りのおかげで二人で示し合わせて夜中にこっそり陽仁の手引きで寝巻のまま紬が部屋へと忍び込んだりしていた。家族にバレないようにこそこそ喋ったり一緒にスマホでサブスクの映画を見て夜更かし、朝方帰ったりとちょっとしたイタズラをしているようで楽しかった。そのまま一緒にベッドで寝落ちして、気がついたら朝で部活の朝練に遅れそうになり、慌てて制服に着替えに家に帰ったことも一度や二度ではない。
流石に受験生だったこの1年は真面目な陽仁の申し出でそんなことをしていないが、中二の頃までは頻繁にそんなゼロ距離感の生活をしていたのだ。
「なんか雰囲気違う! すげー片付いてる。偉すぎ」
久々の陽仁の部屋はすっきり片付いて、カーテンの色も今までの子供っぽい明るいブルーから、落ち着いたダークブラウンに変わっていた。
机の上には入学祝に買ってもらったと聞いていたノートPC。今まで本棚に並んでいた塾の参考書が紐をかけた状態で部屋の隅に置いてあった。
(俺の部屋なんてまだ、受験の名残残りまくりだよ……。母さんの言う通り春休み中片付けないとだな)
志望校を余裕をもって選んだ陽仁と違い、むしろ一つアップさせて必死に猛勉強した紬の部屋は合格と同時に燃え尽きてまだ新しい教科書を置く場所がない程、ごちゃごちゃ雑然としたままだ。しかも封印していた好きな漫画本を段ボールから出してしまって読みかけのまま収拾がつかない。
整然とした部屋はそれだけで大人っぽく見え、陽仁が一足先に高校生としての自覚をもって歩み出した気がして紬も負けていられないなと思う。
徐々に薬が効いてきたので、参加しているクラスのSNSを覗き見たら早速浮かれきった写真が次々と投稿されていた。いつも通り木戸が皆に向かって色々発信しているが、逆に卒業したら用なしとばかり早くもクラスのグループから抜けた猛者もいて、すぱっと人間関係を整理できてある意味すごいなと感心する。
そのまま下にスクロールしたら手塚さんと紬の第二ボタンの下りが目に飛び込んできて、『ツムと手塚さん付き合うの?』『どっちが告白?』とか下世話なコメントにもどきりとしてすぐに画面を切ると、ベッドを背もたれにしてぼんやりしていた。
(……クラスの集まり行きたくない。色々詮索されるのかな……。別に告白したわけでもされたわけでもないのに。周りが勝手に面白がって騒いでるだけのネタにされるの、マジ無理……。それに……)
「駄目だ……。ものすごく眠たい」
薬のせいか眼もとろんとしてきて頭にもやがかかってみたいなぼんやり感が広がる。靴下も服も綺麗なものに着替えてきたから、本当に遠慮なく布団に入れさせてもらうと薬が効いてきて少しずつ痛みが遠のく。朝からそれなりに緊張していた気持ちもほぐれ、余計に瞼が重くなった。
(この布団、陽仁んちの匂いがする。なんか高級な感じの洗剤の匂い? おばさんの趣味だろうな。うちと違って陽仁んちっていつもちゃんと片付いてるし、綺麗だもんな。陽仁の匂いもする……。落ち着く)
多分本当にひと時眠ってしまったと思う。暖かな気配を感じてすうっと意識が浮上してくる。
「……つむぎ。紬」
「はると? あれ……ここ?」
何度か呼ばれてようやく目を覚ますと、さっき出ていったはずの陽仁がもう戻ってきていていて、触れそうなほどすぐ間近に端正な顔があったから驚いた。
「寝ぼけてる? 俺の部屋だよ」
少しだけ遠のき陽仁の顔と焦点が合うと、年始に合格祈願の初詣に行った時より大分大人びて引き締まってみえた。部屋の雰囲気もベッドのカバーも変わっていたこともあり、陽仁も含めてなんだか見知らぬ場所で目を覚ましたような感覚になっていた。
「早かったね」
「走ったから」
「通りで早いわけだ」
陽仁は陸上部を引退した後も部活がない代わりに朝、早起きして走り込んでいるらしい。今、ファーストフードのポテトの香りが漂っているから、駅前までひとっ走り往復してきてくれたことになる。バドミントン部を引退して受験シーズンに入ってからは運動から遠ざかっていた紬は痩せてしまって筋力も落ちたから大分差がついてしまった。走ったせいでより乱れた陽仁のもっさりした前髪を紬も今はちょっと長めだから笑えない。
卒業したら髪型が自由になるから入学式までに高校生らしい髪型に二人で一緒に美容室に行って切ってもらう約束になっているのだ。
(高校いって、髪型とかもうちょっとどうにかしたら余計にモテそうだな、陽仁。はっきりした顔立ちだから、ちょっと髪色明るくするのもいいよなあ)
起き上がりもせず、まじまじと幼馴染の顔を見つめて、そんな益体のないことをぼんやり考えていた。
掛け布団をきっちり首までかけていたせいで、少し汗ばんだ額に、ひやっとした陽仁の手が頬を撫ぜてから額に当てられ心地よい。そのまままた頬の感触を味わうようにやんわり摘ままれたり、両手で包まれたり。昔から餅みたいだとかすべすべだとか何かにつけて陽仁に頬を触られてきたが、心地よくて目を瞑ると、今日の触れ方はなんだか壊れ物を触るように余計に優しいのが不思議だ。
「外、雨降ってきた? 少し寒くなった?」
瞳を開けて微笑み、真っすぐに陽仁の黒目が大きく澄んだ瞳を見つめ返したら、陽仁が眦を僅かに赤く染め目を反らし、手はそのままにすっと顔が遠のいた。
まだぼんやりとした心地で頭を起こそうとすると薬が効いている隙間を縫うように少しだけ痛みの芯のようなものが残っている。
「手、冷たくて気持ちい。……? 熱はないよ。俺、寝てた?」
「あ……。ごめん。頭痛平気か?」
「ちょっとまだ痛むけど大分いい。薬効いてきた。ただ、すごく眠たい」
「バーガーセット買ってきた。飲み物の氷が溶ける前に食べよう」
「分かった」
陽仁がベッドと床の隙間から出してきた脚が畳めるタイプの小さな机には、小さな頃二人でぺたぺたと張ったゲームのキャラクターのシールが今でも所狭しと張り付いたままだ。お互い競って張り付けて、綺麗好きのおばさんにこっぴどく怒られたが、のちに諦められ子供部屋専用になっていた。懐かしく思いながら見入っていたらファーストフードの紙袋に一緒に入っていたお手拭きで手早く陽仁がそれを拭いて中身をあれこれ並べてくれる。
「いただきます」
ハンバーガーのセットにさらに単品でお替り用のバーガー、ナゲットや山盛りのポテトも瞬く間に食べ終わると、陽仁は飲み途中の飲み物を残して手早く袋を片付け、台所の方にある大きなごみ箱に捨てに行った。
平日の昼間。普段ならまだ学校にいる時間だが、明日からは少し長めの春休みだ。高校から課題が出ているが、今日のところは手を付ける気は起らない。
春休み中べったり陽仁の家に入り浸る予定だったから、一緒に宿題を進めようと思っていた。SNSでは早くも進学先の高校の仲間を必死に募集して動き出した同級生予定の子たちの姿もあちらこちらにみえるが、進学しても親友がそばに居る紬はのんびりとしたものだ。
薬の影響かベッドを背にしたまま頭を赤ちゃんのようにうつらうつらと頭をぐらつかせる。そのまま床に向かって大きく傾いだところを、隣に座っていた陽仁が肩をグイッと引き寄せもたれかからせる。伝わる暖かな気配に眠気はました。
「眠いならまた寝てていい。風邪ひくから、ちゃんと布団に入って。彩夏のお迎えまで、まだ時間はあるからちゃんと起こすよ」
「本当にどうしたんだろ、すごく、眠い。薬のせいかな……」
「緊張してたからじゃないか。紬、意外と緊張しぃだから。それに雨降りだしそうで……ちょっと肌寒くなった。だから余計に怠くて眠くなるのかもな。動物的だ」
「ふふっ……。動物って。じゃ、スマホでアラームかけて寝るか。お前も眠くない? 隣で寝る?」
「え……」
「なに驚いてるんだよ。いつも泊りに来たら一緒に寝てたじゃん。」
「そうだけど」
「大丈夫だよ。俺寝起きはいいから、ちゃんとお迎え間に合うようにいくから」
「……わかった」
しかしお互いこの半年で特に陽仁がベッドを買い替えなければならない手前ぐらいに身体が大きくなっていたから、並んで横になると陽仁の広い肩がぶつかってぎっちぎちだ。
「せまっ……。眠い……」
窓の方に寝返りを打って、より小さい紬の方が気を使って身を縮めると、陽仁が言う通り雲は鉛色で今にも雨が降り出しそうだ。間髪入れず少しだけ開いたままの窓から強い風が吹き込み、風で飛ばされた水滴がぱたぱたっと次々に窓に降りかかった。
「なあ、陽仁。雨降ってきた」
紬が寝返りを打って振り向いたのとほぼ同じ瞬間に、陽仁の長いがまだぐんぐん成長途中の若木の様な腕にグイっと引き寄せられた。そのままむぎゅっと陽仁のシャツのボタンが顔に食い込み、紬は目を白黒させた。
(え、あ? なに? これどういう状況?? 陽仁寝ぼけてる?)
抱き枕よろしく腕の中に抱きかかえられて、紬と同じく小ざっぱりとした服に着替えたての陽仁の胸は、綺麗な洗剤の香りと混じる、人気の制汗剤の爽やかな香りがした。
子どもの頃ぬくぬくと一緒に布団に入った時はもっと甘いミルクの様な食べ物の香り、あるいは炊き立てのご飯のような香りがしていかにもふくふくとした安心の布団といった感じだったが、今は違う。
(なんだこれ……。なんか、なんか……)
異性を意識して中高生が必死で振りかける爽やかな香りが鼻をくすぐり、自分より逞しい腕の中に抱きかかえられると、逆になにか妙にいやらしく意識せざるを得ない。
ごそごそと布団の中でまさぐるように陽仁に探し出された紬の手は、小さなころと違い大きく骨ばった陽仁の手に握られて、まるでマッサージでもするようにぎゅっと掴まれたり、緩く離されたりを繰り返す。そののち指同士を絡めるいわゆる『恋人つなぎ』をされたから、思いがけぬシチュエーションに紬は耳まで顔が熱くなる。それに顔をぺったりつけているせいで伝わる、陽仁の心音が何故だか先に早鐘を打っていたから、仲良しな相手に釣られるように紬の心音も高鳴り出した。
(なんか、喋らないと、このシチュ。妙な感じになっちゃうじゃないか)
ひねり出したのは呑気風を装った、小さな震え声。
「……陽仁ぉ、俺彩夏ちゃんじゃないよ」
「流石にもう彩夏も小3だから、抱きかかえて眠ったりしない」
「じゃあなんで」
「いいから眠って。寝ないなら……。このまま俺の話聞く? それとも紬が何か話をしてくれる?」
(俺の話ってなんだよ!)
表が暗くなると同時に、部屋の中まですっかり薄暗く、夜ではないが真昼間でもないような静かであやし気な雰囲気が二人っきりの部屋の中に立ち込める。
「……じゃあなにか話をするか。そうだな……中学生活もこれで終わりますが、やり残したことはないですか? 」
「俺はある。紬は?」
やけに力強くきっぱりとした陽仁の声にびくっとし、紬は陽仁に抱きしめられたまま考えるが、頭が上手くまとまらない。
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