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春遠い、バレンタイン

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「優乃、帰ろうね?」
「うん……」

 震えた声は涙に染まっていた。岸が振り向きざま和哉に目線で何かしら訴えてきた。
 岸が浮かべたのは複雑な表情だった。彼女を泣かせた男に対する敵意と、もう一度わが腕に戻せた安堵の愉悦とが入り混じった感情が紐の様に複雑によじれている。
 岸は小さく会釈すると愛する人の薄い肩を抱き寄せ、ぐっと引き寄せて寄り添いながら去っていった。

「カズ……。お前、あんな言い方ってないだろ?」

和哉がすぐさま振り返ると、柚希が元々色白の顔をさらに紙のように白くして玄関に立ち尽くしていた。

(柚兄にだけはそれ、言われたくない)
 
 そう言い返してしまいたくなった。言い返して、周りの目も気にせずに彼をかき抱いて『僕が好きなのは柚希だけなんだよ。他は誰一人興味はない。なのにそんなことを言うのか!』と喚き散らしたくなった。

 だが和哉はぐっとこらえる。柚希を無視しつづけて、電気もつけていない暗い廊下をどんどん自分の部屋に戻っていくと、後ろから兄が追いかけてくる気配がする。

 ついに部屋までたどりつくと、柚希がそのまま部屋の中に一緒に入ってきたので、和哉はくるりと振り返った。柚希は和哉に体当たりするのを避けて、一歩下がってよろけた。

「わわ」
「兄さんは自分が受け取ったから、僕にも受け取れっていうの?」
「え……、そういうわけじゃないけど、あんな言い方、あの子が傷つくだろ?」
「好きじゃないのに受け取るだけ受け取る方が残酷だろう? それともなに? 告白されたら、絶対に付き合わないといけないの? 兄さんみたいに誰にでも優しくして、来るもの拒まずで」
「俺は、告白してくれたなら、俺のことが好きなら、その気持ちに応えてあげたいとは思ってる。それはいけないことなのか?」

 大きな兄の瞳は真っすぐで嘘も衒いもなく和哉をとらえていた。だが和哉は正しく美しく見える兄のそんな顔を、ぐじゃぐじゃにゆがめてしまいたい衝動に駆られる。思わず兄の背後にある扉にどんっと片手をつくという、恫喝めいた真似をした。

 いわゆる壁ドン状態なのだが、身長はまだ高校生の兄より僅かに低い。和哉もかなり背は高い方だが、兄もまだ伸び盛りなのだ。驚いて思わず扉に向かってよろけた兄とは目線と背丈が釣り合って、逃げ出さぬように両手で扉に兄を囲い込んでしまった。

「和哉、危ないだろ」

 兄に小さく睨まれ、視線で咎められた。

「柚にいは、告白されたら絶対に付き合うの?」

 じいっと見つめる眼差しに熱量を込めて囁けば、圧を感じた柚希は口をぱくぱくっとさせて喘ぎ目をつぶる。

「なんだよ、これ。やめろよ」


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