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エンカウント

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「柚希!」
しょう?!」

 いつもは隙の無いスーツ姿の恋人が、ネクタイを緩めジャケットの前をだらしなく開けて着崩した姿で唐突として現れたのだ。いつも綺麗にセットされた前髪が乱れ、それが学生時代の試合中の彼を髣髴とさせた。
 いつでも鷹揚で落ち着いている、年下とは思えぬほど頼りがいのある男とは思えぬ姿だ。
 社会人になってからはこんな必死な彼を見たことがない。柚希はあまりのことに仰天し、やっと絞り出せた言葉は一つだけだった。

「晶……仕事は?」

 すると日頃穏やかな彼が見せたことのない、焦れ怒りに苛まれた表情をしてはあっと大きなため息をつかれた。

「昨日の夜からまるで連絡の取れない恋人のことが心配で、仕事なんて手につかないに決まってるだろ。朝、職場に連絡したら出勤してないし……。午後から休みを何とかとったんだ」
「ごめん。俺……」
「今度発情期を迎える時には俺に相談してくれるっていったよな? どうして無視したりするんだ」

 トイレ前の細い通路の奥に連れ込まれ、すごい剣幕で壁に背を押し付けられて柚希は日頃穏やかな恋人の激しい怒りに触れて震えあがった。
 比喩ではなく、α男性が少しでも乱暴な動きをするとΩ性を持つ者は言い知れぬ恐怖に苛まれてしまうのだ。
 青ざめた柚希に晶ははっとした顔をして、気まずげに目を反らした。

「とりあえず……。場所を移動しよう」

 そう腕を取られて促されたが、柚希は蛇に睨まれた蛙のように竦みきって身体をがくがくと震わせて身動きが取れなくなってしまった。いくら相手が日頃から信頼を寄せいている相手であってもそれは同じこと。  
 
    抑制剤を服用していなかった、Ωの判定を受けていなかったときの柚希のフェロモンにあてられて、父が前後不覚の混乱状態に陥って襲い掛かってきたあの場面。
     日頃思い起こすことは少なくなったが、心も不安定になった今の時期はまた別だ。

「ああ……」

 それがふいに脳裏にフラッシュバックして柚希は膝からがくんっと力が抜けて崩れ落ちた。

「柚希、すまん。ついカッとなってしまった。大丈夫か?」

 晶はとっさに柚希の手首を掴み上げて身体を上へと引っ張り上げながら細腰を抱く。
  掴まれた部分がじわじわとどうしようもないほどの恐れと不快感に近い感情が込み上げてきて、柚希は苦しみからえずきながら口元に手を当てて荒い息を上げた。

「兄さん!」

 和哉の声がした後は数秒もないほどの素早さでどんっと衝撃が走り、ふいうちを食らった晶は突き飛ばされ、同時に崩れた柚希は逞しい腕の中に救い出された。
 顔色をなくした柚希は目の前の逞しく厚い胸板に縋りつき、ふわりと漂う柔らかく甘い香りをすうっと吸い込むと仄かの頬に赤みがさす。

「かず.......」
「心配しないで。僕が話をつけるから」

 弟の腕の中、安寧の表情を浮かべた柚希の顔を認めると、晶は嫉妬を隠そうともせずに和哉を睨みつけた。
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