旅蛙

ハルぢオン

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笛吹く蛙

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 清太せいたは蒸し暑さに目を覚ました。薄い水の膜が肌に張り付いているような暑さである。清太は生まれてこの方この田舎町から出たことがないので、他の夏がどいったものなのかはわからないが、ここの夏というのはとかく蒸し暑い。特に清太の町は周囲を水田に囲まれており、水を引くこの時期になると湿った暑さが日夜問わず続くのであった。それでも昼間はまだいい。遊んでいれば、蒸し暑さのことなど忘れることができる。しかし夜になるとそうもいかない。こんなふうにうっかり目を覚ましてしまうと、肌に張り付く湿っぽさが気になって仕方がない。しまいには蚊さえ周囲を飛ぶようになって、いよいよ寝れなくなってしまうのだ。
 網戸だけ閉めて開け放った窓から風が吹きこむ。清太は風の音に微かに笛の音が混じっているような気がし身を起こした。蚊の鳴く声よりも小さい音である。清太が息も潜めて耳を澄ますと、やはりだれかが笛を吹いているようで、風が吹く度に細い音が清太の耳に届いた。こんな夜中に一体誰がと、薄い布団から這いだしそっと窓に寄ると、先程よりいくらかはっきりと笛の音が聞こえるようになった。どうやら庭の方から聞こえてくるらしい。こんな夜更けに笛を吹く変わり者は一体どんなやつなのかと、暗闇に必死に目を凝らしても、見えるのは物の輪郭ばかりで、人どころか庭に植えている木の一本すらよく見えない。しかし音は絶えず清太の耳に届いていた。清太は庭に出てみようと思い立った。彼は泉のように湧く好奇心のままに行動するだけの勇気を持っていたのだ。

 玄関の戸を開けて裏にある庭を目指す。音の主が清太の足音に気が付いて逃げ出してしまうかも知れなかったので、足音はできるだけ立てないよう、忍び足で近づいた。
 家の裏にある庭は齢十にも満たない清太でも数十秒とかからないで一周できてしまう程小さいものであった。庭には清太の母が趣味で育てている植物が幾つか植えてあり、生垣として植えられている山茶花さざんかに混じり、母の誕生日に清太が父と共に送った紫陽花あじさいが植えられている。万華鏡、という品種で梅雨には中央から外にかけて色の薄くなる薄紫の萼がくが枝一杯に広がっている様が美しかったが、今は時期を過ぎ僅かに残った数個がしおらしく咲いているばかりである。その紫陽花の近くに、大きなかめが置いてある。そこには祭りで掬ってきた金魚が二匹おり、赤く小さい金魚は清太が瓶を覗くといつだって水草の中に隠れてしまうのであった。
 清太は家の影に隠れたまま庭をぐるりと見渡した。しかしそこには清太が想像していた様な人影はなかった。だが、笛の音は確かにここから聞こえてくるのだ。  
 真夜中に誰もいない庭から音だけが聞こえてくるというのは異様な状況ではあったが、不思議と怖いとは感じなかった。調律ができていない音は闇に歪に響いたが、不快でなくむしろもっと聞いていたいとすら思った。そこには堂々とした威厳が感じられた。歪な音はそれで完成していたのだ。

 ふと清太は紫陽花の下に置いてある瓶の縁に、見慣れない影があることに気が付いた。光源が月灯しかないなか目を凝らすと、そこには紫陽花の葉によく似た体の色を持つカエルが腰かけていた。それだけではなかった。カエルは瓶の縁に腰かけ葦に穴を開けて作ったらしい笛を器用に吹いていたのである。どうやら先程から響いている笛の音の主はこのカエルであるらしかった。俄かには信じられない光景に、清太はただそこに呆然と立ちカエルを見つめることしかできなかった。清太があまりにもカエルを凝視したものだったので、カエルはやがて清太の視線に気が付き笛を吹くのをやめ清太の方に向き直った。野生に生きているものの多くは人を恐れると清太は知っていたので、カエルが逃げ出してしまうのではないかと心配したが、カエルはじっと清太を見つめた少し顎を引き「おや、起こしてしまったかな。申し訳ない」と声をかけてきたのだ。
 清太は思わず数歩下がった。カエルが笛を吹いているだけでも信じがたい光景であったというのに、カエルが人の言葉を話したのである。清太はまだ幼かったが、笛を吹き人の言葉を話すカエルがいるなどとは到底思えなかった。呆然として二の句が続かない清太を尻目にカエルは淡々と自己紹介を始めた。
「僕はリョーウィッヒ・ジャン・テンプレムというんだ。君の名前は? 」
 その名前がカエルの容貌にはあまりにも、こう言ってはなんだが不釣り合いであったので、清太は思わず、
「僕の名前は清太。君の名前は随分と立派だけどそれはどんな意味なの? 」
 と聞き返した。するとカエルは些かうんざりしたような面持ちで
「ないよ」
 と一言だけ返した。
「ないだって?そんなわけあるもんか、それだけ立派な名前を付けてもらって、ひょっとしたら君はさぞかし偉いカエルなんじゃないのかい」
「いいや、僕はいたって普通のカエルさ。両親は英語なんて知らなかったからね。ぐろーばるだとか言ってそれっぽい名前を付けただけさ。名前にどんな意味が込められているかより、どう生きるかの方がよっぽど大切なことだと僕は思うんだけど、君もそう思わないかい? 」
 清太はカエルが言っていることの半分も理解できていなかったが、何やら難しいことを話していたことだけは理解し曖昧に一つ頷いた。
 会話に一段落つき、それまで隠れていた家の影からカエルの前までおずおずと歩を進める。そうしてようやくカエルの前までやって来たのはいいが、どちらも口を開くことはなくしばし無言が続く。先程まではカエルの笛の音が響いていたが、その音も止んだ今あたりに響くのは風の音と風に揺れた葉が擦れる音だけである。清太はカエルがまた何か口を開いてくれることを期待したが、一向にその様子はなかったのでカエルに抱いていた疑問をぶつけることにした。
「カエルはみんな人の言葉を話すの? 」
「さあ、実を言うと僕もさっき初めて人の言葉を話せることに気が付いたんだ。しかし今日は満月だからそういうこともあるのかもね」
 確かに今日は雲もなく、空から零れ落ちてしまいそうな程はっきりとした満月であったが、それとカエルが人語を話すのに一体どんな関係があるのか。やはり清太はわからなかったが、そこには人にはわからない何らかの理屈がカエルにはあるようであった。
「君はカエル語を話せないのかい?」
「僕は、話せない」
 カエルは、ふうん と顎に手をあてて何か思案する素振りをしてから、手を叩き
「わからないぞ、ひょっとしたらできるかもしれない。ちょっとやってみよう」
と提案した。清太はまるで話せる自信がなかったのだが、せっかくの提案を無碍にすることもできず、大人しくカエルの提案に便乗することにした。
「人の言葉でこんばんは、はカエル語だとこうだ。ぐぇ」
「ぐえ」
「違う、それじゃあお腹がすいただ。こうだよ ぐぇ 」
 清太は精一杯カエルを真似して鳴いているのだが、どうにも違うようでカエルは眉間に皺を寄せて──清太にはそう見えたのだ──首を傾かしげている。
「もう一度やってごらん」
「ぐぅぇ」
「どうやらカエル語は人には難しいらしい」
 カエルはそれ以上清太にカエル語を教える気はないらしく、片手で葦でできた笛を弄び始める。
「ところで君はこんな夜更けに何をしていたんだい」
「何って笛を吹いていたのさ」
「だから、どうして笛を吹いていたのか聞いているんだよ」
「吹きたいから吹いたのさ」
 そう言われてしまうとそれ以上何を言うこともできなくなる。清太はカエルの脇に、草で編まれた袋のようなものが置いてあることに気が付いた。その袋はカエルの胴程の大きさで、口の部分は紐のようなもので閉じられている。どうやらこのカエルの荷物であるらしい。
「君は普通のカエルにしては随分と荷物持ちのようだけど、旅でもしているのかい」 
「その通り、僕は旅をしているのさ。この袋には大事な旅道具が入っている」
「君は旅でどんなもの見てたきの? 」
「へえ、旅の話に興味があるのかい」
 清太は大きく頷いた。冒頭でも述べたが、清太はこの田舎町から出たことなど殆どなかったのだ。そしてカエルの視点では世界がどのように見えているのか大いに興味があった。彼の好奇心はここでもまた泉のように湧き出したのであった。
「一晩の宿のお礼だ。なんでも話そう。そうだねまずは僕が旅に出て一番最初に出会った鷹の話をしようか」

そうしてカエルは静かに旅の話を始めたのである。
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