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第五章 悪役令嬢もいたかもしれない
24 イレーネの提案
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「ヴェンデルは、錬金術師の先生をやっていたぐらいだから、魔法や神秘学の方面は確実なのよね? 風の毒って知っている?」
ジークヴァルトに促されて、イレーネは早速、その話をし始めた。
折しも、庭で採取したばかりの毒草のかごがそこにある。何なら、自分がやってみせてもいいと思った。
「建物とかを隔てて、遠い場所から、毒のダメージを直接、ターゲットに与えることが出来るのよ。女装してまで、ハニートラップをするぐらいなら、一回試したらどうかしら」
ヴェンデルは、真面目に説明してくれたイレーネに軽く頷いて、自分も真面目に答えた。
「その方法なら既に使いました。お嬢様。<風の毒>系の最高ランクと言われる、<腐敗の風>を、アスランに呪術で当てようとしたところ、奴に与えられている、神秘の加護が硬すぎて、呪詛返しが自動的に発動したのです。それはこちらの呪詛返しで打ち消したのですが、うかつに、奴に呪詛を使うと、こちらの身が危険である事がわかりました」
「神秘の加護……?」
「簡単に言えば、守護霊です。奴の先祖や、ゆかりのある者の愛情や思い入れが、奴を加護している。それだけではなく、アスランはミトラ信仰の騎士でもありますから、神に近いハイレベルの加護の力も感じました。それで、俺が呪詛で手を出していい相手ではないとわかったのです」
ヴェンデルは淡々と自分の失敗を語り、ジークヴァルトとイレーネに報告した。
「ですが、イレーネお嬢様のお気遣いはありがたく……今後も、なお精進して、お役に立てる力を作ります」
そう言ってヴェンデルは頭を下げた。
最初は、女装の侍女に警戒していたイレーネだったが、こう言われると、嫌悪感などは拭い去られ、宗家に仕える優秀な錬金術師に、何か手助けしてやりたいと思った。
父の命令でこんなことになっているのだろうし、呪詛返しを受けて、一度は相当危険な立場にもなっていたらしい。それでもなおかつ、宗家の命令を断行しようという忠誠があるのだから、たいしたものだ。これ以上、危険な目にはあわせずに、目的を遂げさせてやりたいと思った。何とかいい方法はないかと思うが、まずは、ねぎらいの言葉が必要だろう。
イレーネは、毒草の籠を持ってきて、ヴェンデルに手渡した。
「私も、今、<風の毒>の勉強中なの。今日、庭で採取したものだけれど、あなたにあげるわ。ヴェンデル。何かの役に立つといいのだけど。どれも毒ばかりだけど、あなた使い方はわかるわよね?」
イレーネがはっきりした言葉遣いでそういうと、ヴェンデルは驚いて目を瞬いた。だが、すぐに気後れした態度も見せず、素直に籠を両手で受け取った。
「大切に使わせていただきます、お嬢様」
「他に何か、必要な書籍とか、あるかしら。私なら、お父様やお兄様に頼む事が出来るわ。必要な文献があるなら用立ててあげるわよ」
「いえ、そこまでは……」
ヴェンデルはさすがに恐縮した様子で、胸元を押さえながら顔を下げた。
考えようによっては、今日の自分の女装の失敗が、宗家であるザムエルや家督のはずのエックハルトに伝わってしまうのである。イレーネはそこまでは考えていなかっただろうが、やはり、分家の錬金術師としては、知られたくないことなのだ。
「そう?」
イレーネは大して深追いもしなかった。必要なものがあったら、本人から言うだろうと思った。
そのやりとりを面白そうに眺めていたジークヴァルトだったが、ヴェンデルの生真面目な様子と、その忠誠心を買ったらしいイレーネを見比べて、次は自分が、椅子から立ち上がると、懐から小刀を取り出した。
「これをお前に授けよう、ヴェンデル」
「……これは?」
「魔具マグの小刀だ。依り代として、攻撃を3回まで身代わりに受けてくれる性能がある。呪詛も弱いものは無効化してくれるし、強いものでも半減するものだ。これをうまく使って、あのアスランを倒してみせろ」
「は……」
ヴェンデルは、そこは予想していなかったのか、びっくりしてジークヴァルトの端麗な顔を見上げた。ジークヴァルトは、強い眼光を見せて、ヴェンデルに頷きかけた。
「アスランを倒したのなら、お前の孫の代まで、宗家と私の子孫が生活の保障をしよう。アスランは今、イヴ姫と縁談が持ち上がっている……それがどういうことか、お前もわかるだろう? その話がまとまる前に、必ず、アスランを仕留めるんだ」
「はい、わかりました」
この場合は、これしか言う事がないらしい。ヴェンデルは、黙ってそっと、鞘に入った小刀を両手で受け取り、自分の破かれた懐に入れる訳にはいかないので、毒草の籠の中に大切にしまった。
「後は、ジグマリンゲンに近づくきっかけね。そうね、私の方から、ジグマリンゲン家で侍女の募集を出していないかどうか、調べて見るわ。推挙するのでもいいし」
「ありがとうございます」
そこでようやく、イレーネは思いついたようだった。
「そうだわ。ジグマリンゲン家で、新年パーティが十五日にあるのよ。私、そこに招かれているんだけど、ヴェンデル、あなた、綺麗に装ってついていらっしゃい」
「はい!?」
「私の付き人っていうことで、女装してついてきなさいよ。アスランと、顔を繋いであげるわ。そうすれば、アスランを仕留めるチャンスが来るかもしれないし……何より、可能性の幅が広がるわよ。そうしましょう」
「は……はい。よろしくお願いします」
ヴェンデルは明らかにうろたえながらそう答えた。
イレーネの侍女として、メイドの所作を完璧にマスターし、その後、なんとかしてジグマリンゲン家に近づいて……という算段は、ヴェンデルも建てていたが、そんなことより、宗家に一言相談すれば、便宜を図ってもらえる事だったらしい。新年早々の失敗を気にして、自分の考えで進めてみたが、思いも寄らない助力に、ヴェンデルの方が驚くぐらいだった。
「それはいいな、イレーネ。ジグマリンゲン家のパーティで、アスランが新年早々、事故に遭うというのは素晴らしい」
「いきなり暗殺出来ると決まったものではありませんわ。今からでは、準備も着実に進められるかわかりませんし……だけど、チャンスがあれば、仕留めてみたいですわね」
イレーネは自信がない自分を取り繕うように、つんと取り澄ましてそう言った。
「ありがとうございます」
ヴェンデルは礼儀作法に乗っ取った所作で、丁寧に、ジークヴァルトとイレーネに礼をした。
「暗殺、か……」
イレーネは、実は、アスランの事をよくは知らない。
彼女は宗家の長女として、帝城の祝賀の催しなどには頻繁に出入りしているし、そういう際には挨拶はするが、他に何の接点もなかった。シュルナウの貴族であるビンデバルドと、帝国北方の重鎮であるジグマリンゲン家は、よしみを通じてない訳ではないが、それほど頻繁に行き来もない。もしもここにエリーゼがいて、中学生レベルの日本史しか見たことがない着眼点で物を言うならば、ビンデバルド宗家は帝都住まいの貴族の精華家か、譜代大名。それに対して、ジグマリンゲン家は「藤原秀衡」とか外様の「前田利家」「伊達政宗」?? になぞらえて想像するだろう。
ジグマリンゲン家が、奥州藤原氏で現当主ウィンフリートが秀衡だとするのなら、アスランはその子泰衡になるのかもしれないが、夢見る乙女脳のエリーゼとしては、せめて弁慶を連れた義経ぐらいはいってほしいところだろう。
そういうわけなので、季節の折々などに挨拶の贈答品は取り交わしているが、お互いの事はよく知らない付き合い方をしていたのであった。
イレーネは小首を傾げて、虚空を睨んでいたが、やがて、しげしげとヴェンデルの破かれたメイド服などを見直して、不意に言った。
「ヴェンデル、ジグマリンゲン家の新年パーティに行くのなら、女物のドレスが必要よ。あなた、ビンデバルドの名に恥じないちゃんとしたドレス、持っている?」
「母のドレスなら、何着かあります」
「お母様の? それじゃダメよ」
にべもなくイレーネは、却下した。母親の着るドレスといったら、彼女の頭では、当然ながら四十代五十代の妙齢のご婦人の着るものである。アスランにハニートラップを仕掛けられるぐらい華麗でセクシーなドレスを着なければ話にならないのだ。
「……」
困っているヴェンデルに、イレーネはたたみかけた。
「私が、あなたの着るドレスを選んであげる。できるだけ、アスランの目にとまるような、清純だけど華やかなのを見繕うか、仕立ててあげるわ。それから、当日まで後三日あるから、その間に、私と一緒に女磨きよ。肌をつるつるにするだけじゃなく、話し方も、何もかも、最後の調整をするわよ。わかったわね」
そこは、世間知らずの良家の長女らしく、自分の中の傲慢さに気づきもしないで、イレーネはそう言った。
アスランの女の好みがどんなタイプかとか、そういうことを知っている訳ではないのだが、美人に越した事はないだろうと、そんな当てずっぽうな事を考えている。
「…………はい、ありがとうございます……?」
さすがのヴェンデルも、様々な疑問にとりつかれながらも、それを口にしていい立場ではないので、素直にそう答えた。実際、暗殺に手を貸してくれる上に、パーティに付き人としてつれていってくれて、チャンスも作ってくれるという。全く気の利く、素晴らしいお嬢様だと言えば言えない事もない。
だが、ジークヴァルトは、あんまりにも面白すぎるので、その件は言わないでおいた。
何か言いたいのだが決して言えない風情の真面目なヴェンデルに対して、イレーネは何にも気づいていない。むしろ、アスランを仕留めてイヴとの縁談を潰せる事にすっかり乗り気の表情である。
問題はそこではないという事に気づいていない。
(イレーネ、お前が、アスランにハニートラップを仕掛けようとは思わないのか……?)
忠義の錬金術師だって、それを言いたいだろうに、半分涙を我慢したような顔で、メイド服で突っ立っている。そのことについては、可哀相だと言う事にさえ、気づいていないイレーネだったし、それをはっきり言ってやらないジークヴァルトであった。
考えようによっては、イレーネにとって、英雄アスランは「圏外」だったということであろうか……?
同時刻。
帝城--イヴの私室。
イヴは、ケット・シーのマーニを膝の上に乗せて、ブラシで毛を整えてやっていた。
マーニはゴロゴロと気持ちの良さそうな声を立てながら、イヴに身を任せ、見事な黒い毛並みを美しく梳かされる事に満足そうな仕草であった。
イヴは、マーニが嬉しそうに自分の手を舐めてくれたり、満足そうな感想を言ってくれえると、にっこりと微笑んで、マーニの背中や喉を優しく撫でて、彼の日頃の苦労をねぎらってやっていた。ケット・シーのマーニは、イヴが最も身近で召喚する精霊であり、護衛をしてくれるだけではなく相談に乗ってくれたり、遊んでくれたりと身近な存在なのである。その彼の毛並みを綺麗に整えて、いつもありがとうと感謝を伝えているところだった。
マーニは、元々綺麗好きであるから、自分の柔らかく長い毛を、見事な鬣のように綺麗にとかしつけてもらうと、それはやはり嬉しそうだったし、昼下がりにゆっくりとブラッシングしてもらったので、すっかり眠気に誘われて、イヴの部屋のいつものソファの上、暖房も入った空調の中、うとうとと眠りについた。
マーニが眠ってしまうと、イヴはすることがなくなった。
ほう、と溜息をついて、自分の机に向かうが、机に頬杖をついて、最近の悩みについて考え込んだ。イヴは、帝城の外に出るなと皇帝であるアハメド二世に強く言われていた。命令されていたと言っても過言ではない。
本当ならアハメド二世は、部屋から出るなぐらい言いたい所なのだろうが、それはイヴが可哀相でもあり、他の娘達からも猛反発が来るだろうから、こらえているところである。
元から滅多に外に出ない、走る事も出来ない不自由な体のイヴ。思ったよりもストレスはなかったが、実の父と言っていいほど近しい存在の、養父に、そんな命令をされて、怒りを買っている事は、悲しいし辛いし、悩みの種であったのだ。
だが、それでも、他に好きな人がいるのに、アスランと結婚することは出来ない。
(お養父さまは、相手は誰なんだって、毎日問い詰めにいらっしゃるし、侍女達の前で口さがない事は言うし、もう、大嫌い)
まさかそのまま野放しにするアハメド二世ではない。相手は誰なのか、もう何事かあったのかと、しつこく尋ねるのだが、イヴはふくれっ面で黙秘権の一点張りであった。
しかし、アハメド二世は多忙の身の上であり、いつもいつも、問い詰めている訳にもいかない。かといって、他の誰かに任せようにも、イヴの内心を上手に聞き出せるような相手といえば……妻であるサフィヤぐらいだろうが、サフィヤは何故か、今のところ静観を決め込んでいるようだった。
イヴは、そのうち、自分がサフィヤに呼び出されて、色々と説教を受けたり、問いただされたりすることだろうとは知っていて、そのことを考えるのも辛かった。心優しい皇后相手になら、自分がリュウを好きでいる事を、話してもいいような気がしたが、皇后は、それをどうしたって、アハメド二世に話さない訳にはいかない立場なのである。
アハメド二世がそれを知ってしまったらどうするかというと、………………。
もしかしたら、リュウの、城に出入りする権利を奪い取って、彼に恥をかかせて辛い目に遭わせるかもしれない…………。
全くありえないことではなかった。
そしてそのまま、一生、自分はリュウと離ればなれにされてしまうかも。彼が神聖バハムート帝国の貴族ではなく、華帝国の庶民の出身だというだけの理由で。そのことを、イヴは散々、様々な角度から考えたが、全くもって、意味不明の制度だとしか思えなかった。だが、同時に、読書家である彼女は、それが意味不明の制度だと、皇女一人で主張しまくったところで、国の制度やならわしが、一回でコロッと変わってしまうことなどありえないことを、知っていた。
そのため、一人で鬱鬱と抱え込み、浮かない顔で、頬杖をついている。
この状況が長引けば長引くほど、双方にとって不利なのだが、どうやって打開したらいいのかと、それも気になった。双子の姉と言ってもいい、聡明なヴィーでさえ、名案が浮かばないようである。
リマはというと、毎日のように心配して姉の部屋には来てくれるが、やはり、皇帝の権力もあるが、制度なんて簡単に変わらないということは彼女もわかっていて、結局、姉を優しく慰めるにとどまっていた。
(逆に……私が、リュウと……なんてきっかけが出来れば、リマが志ゆきとまた、仲良く、パーティをしたり元気に走り回ったりする事が出来るのに……なんでなのかしら)
だが、その、なんで、なんでを考えたってどうにもならないことはわかっている。
イヴは、また一つ溜息をつくと、外の空気を吸いたくなって、机の前の窓を大きく開け放った。
冷たい凜とした空気が吹き込んでくる。ぼんやりしていた頭が冴え渡って、本当の意味で目が覚めるような、冷ややかな空気。それを胸いっぱいに吸い込んで、イヴは、鬱鬱とした気分を追い払おうとした。
そのときだった。
「危ない!!」
鋭い男の声が飛んだ。条件反射で、イヴは、頭を下げて机の上に突っ伏した。彼女も、魔大戦をかいくぐった姫なのである。
部屋の中に、何か小さな礫のようなものが飛来して、床に突き刺さった。その音と気配で、ソファの上のマーニが跳ね起きた。
イヴは、咄嗟に召喚魔法を唱えた。風の精霊を読んで自分の周りに風の障壁を作る。続いて、召喚魔法を唱えながら、窓の外に飛び降りた。イヴの部屋は高層階であるが、彼女が地面に叩きつけられる前に、一角獣が飛来して、イヴの細く柔らかい体を受け止めた。
一角獣に騎乗しつつ、イヴは、礫が飛んできた方角--男の声が飛んだ方角を目で確認した。
皇女宮の南向きの中庭の真ん中。
案の定、甲きのえだった。甲きのえが、複数……よくみると二人の黒装束の男と、小刀でやりあっている。黒づくめの男二人はそっくりで、どちらがどっちかわからない。
イヴは、一角獣の首を軽く叩いて促した。知性の高い一角獣はそれだけで命令を理解し、まっしぐらに甲きのえを救援に走り出した。
甲きのえは、小刀を二刀流にしてうまく使い回し、二人がかりの攻撃をいなしているが、相手の方がどうしても手数が多く、こちらかの攻撃のチャンスを潰されているようだった。
それを見て取ると、イヴは、一瞬、頭がかっとなるのを感じた。だが、戦闘中に、そういう感情に駆られるから、「幻獣から落っこちたりするんだ」とヴィーに散々言われた事を思い出し、即座に冷静を取り戻そうとした。
イヴは一角獣を操って、甲きのえの横の方に回り込んでいく。一角獣は蹄をかき鳴らしながらまっすぐに進み--二人の男を、その蹄の下に蹴散らしていった。イヴは、男二人を幻獣でいきなり轢いた。
複数の召喚獣を同時に操ってもいいのだが、それだと魔力の消費が激しく、指示を出すのも忙しくなる。
それよりは、単純な刺客には、大胆で単純な攻撃が、一番効果が高い事もある。
呆然としたのも一瞬、甲きのえは、轢かれたダメージで地面にうずくまっている男達に、飛び縄をかけようとした。一人の男が気丈にも立ち上がり、その飛び縄を刀で切ったが、甲きのえは怯まずに、もう一本の縄を旋回させて、巧みにその体をくくり上げた。もう一人が、這々の体で逃げ出そうとする。
「そうは、させない。我ら、ケット・シーの力、思い知れ!!」
そのときになって、追いついた、ケット・シーのマーニとその仲間のケット・シー。マーニの号令で、猫の精霊達は一斉に、逃げようとした男に襲いかかり、その爪と牙の犠牲にしてしまったのであった。
一角獣で勢いよく走り去ったイヴは、そのまま一角獣に乗って戻ってきた。
「この黒子たち……何者なの?」
「わかりません。それは、これから取り調べます」
甲きのえは、イヴの声を聞きながら、丁寧に、二人の男を忍具の縄で縛り上げた。マーニは猫の手ながら、その手伝いをした。
「もしかして、最近、こういう人の出入りが多かったりする?」
「はい」
甲きのえは素直にそう答え、イヴは思わず顔を赤らめた。
要するに、どこぞの貴族達の、間諜なのだろう。自分が大声を立てて、アハメド二世と大喧嘩したりしたからだ。皆、噂の出所を確認しようとしたり、イヴの縁談の行方を知ろうとしたりして、こういう者が……。
「でも、どうして、私、礫をぶつけられそうになったのかしら?」
「……言いたくありませんが、地獣人フルフィをよく思わない貴族の者なのでしょうね」
「……そうね。そういうこともあるわね」
イヴの母、ティシャ姫は、地獣人フルフィの姫というだけで、辛酸を舐め尽くしたあげくに死んでいる。それはそれで、現実であった。イヴはそのことを思いだしたが、口に出すことはしなかった。
「いえ……」
言葉数の少ない甲きのえは、イヴの努めて平静を装っている表情から、何かを感じ取ったようだった。
「姫」
「……何?」
「俺も、常人オルディナです」
甲きのえはそれ以上何も言う事はせず、テキパキと賊を縛り上げると、マーニとともに、警備兵の詰め所へ向かって歩き出した。
「……そうね。ありがとう」
イヴはその背中に、優しい笑顔でそう言った。
賊は無事に、帝城を守る衛門兵達に取り調べられる事になり、甲きのえはすぐに解放された。
イヴは、その彼を部屋に呼んでもてなすことにした。本来は、姫と護衛の忍びという距離のある二人だったが、こういうときに、日頃の働きに表だって報いる事は何も悪い事ではない。少なくとも、イヴの周りではそうだった。
「甲きのえ、日頃から、私の事を守ってくれてありがとう。今日も、危険をおかして戦ってくれて、びっくりしたけれど、おかげで助かったわ。本当に、ありがとう」
「いえ、なんでもありません」
心づくしのお菓子とお茶を用意して、手放しに褒め称えるイヴに対して、甲きのえは無骨とも言える、淡泊な態度だった。だが、嬉しくない訳ではないらしく、イヴの正面の椅子に座って、口元をかすかに緩めている。
彼が、弟分の志ゆき以外に、そんな表情を見せる事はなかった。
「甲きのえって、甘い物は嫌いじゃなかったわよね。そういえば、お茶はどこの地方のものが好き? それとも、コーヒーとかカフェオレの方だったかしら?」
侍女もつけずに、自分でテキパキと働きながら、イヴはそんなことを聞いている。
「……お茶なら東洋の茶なら、何でも……」
「あ、紅茶、苦手??」
「いえ。嫌いではないですが、好みを言っていいのなら」
甲きのえは、控えめながらも聞かれた事には素直に答えているようだった。
幸い、イヴは、華帝国のルートも持っていたため、そこから入ってきた「玉露」というものを、甲きのえに出す事が出来た。そうはいっても、日本風の湯飲みは持っていないため、ティーカップに入れる事になったが。
「甲きのえって、東洋の、漢字の名前だけれど、出身は、リュウと同じシャン大陸でよかったの?」
滅多に自分の話はしたがらないのが、甲きのえで、イヴは、子どもの頃から、忍びなどというものはそういうものだと言われていたため、あまり立ち入った事を聞いた事はなかった。
氏素性を聞いてはならないという建前で、最初、衛門府が雇ったのが甲きのえである。衛門府は、帝城と帝都の門をその名の通り護衛するという軍隊だ。衛門府を通して、甲きのえがイヴ付きの忍びとなったのが五年前。そのとき、彼は二十歳という情報だった。嘘かもしれないが。
その後、甲きのえの忍びとしてのあまりに高精度な腕を知ったイヴは、自分が直接彼を雇うようになった。いわば、甲きのえはイヴだけの私兵なのである。どうしてそうしたのかというと、イヴは、自分より地獣人フルフィの血が濃いリマが、皇太子として、危険な立場であることを知っていた。そのため、魔大戦中、リマの立場が不安定な時、彼女の手柄にするために、魔王城の地図を探索させたかったのである。……凄腕の忍びに。それが、甲きのえで、彼は様々なトラブルに巻き込まれつつも見事、地図を手に入れて、それがあったから、皆で力を合わせて魔王を倒す事が出来たのだった。
だから、イヴは、結果的に、甲きのえを自分だけの忍びにしてよかったと思っている。だが、それはさておき、彼の忍びの腕の事以外は、ほとんど何も知らないのだった。何しろ無口だし、聞いてはならないとあらかじめ言い含められていた事もあったし。
「シャン大陸ではありません」
「え、それじゃ……どこ?」
「俺の母親が、オノゴロ島の人間なんです」
「…………オノゴロ島」
イヴはびっくりしてしまった。
「はい。アスランの母も、オノゴロ島の出ですが、無関係です。偶然の一致です」
「そ、そうなの」
アスランと甲きのえは一頃、ライバル同士という事で、激しくいがみ合っていた。その事を思い出したので、イヴは一瞬、固まってしまったのである。
だがーー
(お母様が同じ島国の出身なら、仲良くしてもいいようなものなのに。お母様って、よいものよね)
幼くして母を亡くし、心細い思いもしてきたイヴは、単純にそう考えた。
「甲きのえ。私が子どもの頃に、忍びの氏素性を聞いてはならないと、衛門府から言われていたけれど、今でもそうなの? 忍びってみんな、家の話や趣味の話や……普通の話、何もしてはいけないの?」
たまたま、不安で寂しい日々を送っていたイヴは、甲きのえに向かって、率直にそんなことを言ってしまった。
「いえ。そういうわけでは、ありませんが」
「それなら、どうして」
「……忍びと、姫では釣り合いが取れないからです。あまり、俺のような者と、皇統の血を引く御方が、親しく話すものではないと、思いますので」
考え深げに、甲きのえはそう言った。
「でも、あなた、今は国を救った英雄だわ」
「……」
「そういうことは、理由にならないの?」
「確かに。ですが……俺は、あまり……」
「わかったわ。甲きのえ。私、あなたが、話したくないって言った事は、無理には聞かないわ。だけど、あなたが自分から話したいことや、話してもいいって思うことは、何でも聞いていいわよね」
「……」
「本当に話したいって思う事は、何でも言って。黙っていて欲しい事はそう言って。私、あなたと話してみたいの」
実際、五年の月日をともにしたのに、出身の国の事も知らないのだ。魔大戦の任務での事なら、相棒として何でも話したが、それ以外に、彼の事はほとんど知らない。帝城に軟禁されて悲しんでいたイヴは、甲きのえと色々な事を話してみたいと強く願ってしまったのだった。
「……はい、そうですね。姫」
ティーカップの玉露の、安心する味にほだされながら、甲きのえはそう答えた。
ジークヴァルトに促されて、イレーネは早速、その話をし始めた。
折しも、庭で採取したばかりの毒草のかごがそこにある。何なら、自分がやってみせてもいいと思った。
「建物とかを隔てて、遠い場所から、毒のダメージを直接、ターゲットに与えることが出来るのよ。女装してまで、ハニートラップをするぐらいなら、一回試したらどうかしら」
ヴェンデルは、真面目に説明してくれたイレーネに軽く頷いて、自分も真面目に答えた。
「その方法なら既に使いました。お嬢様。<風の毒>系の最高ランクと言われる、<腐敗の風>を、アスランに呪術で当てようとしたところ、奴に与えられている、神秘の加護が硬すぎて、呪詛返しが自動的に発動したのです。それはこちらの呪詛返しで打ち消したのですが、うかつに、奴に呪詛を使うと、こちらの身が危険である事がわかりました」
「神秘の加護……?」
「簡単に言えば、守護霊です。奴の先祖や、ゆかりのある者の愛情や思い入れが、奴を加護している。それだけではなく、アスランはミトラ信仰の騎士でもありますから、神に近いハイレベルの加護の力も感じました。それで、俺が呪詛で手を出していい相手ではないとわかったのです」
ヴェンデルは淡々と自分の失敗を語り、ジークヴァルトとイレーネに報告した。
「ですが、イレーネお嬢様のお気遣いはありがたく……今後も、なお精進して、お役に立てる力を作ります」
そう言ってヴェンデルは頭を下げた。
最初は、女装の侍女に警戒していたイレーネだったが、こう言われると、嫌悪感などは拭い去られ、宗家に仕える優秀な錬金術師に、何か手助けしてやりたいと思った。
父の命令でこんなことになっているのだろうし、呪詛返しを受けて、一度は相当危険な立場にもなっていたらしい。それでもなおかつ、宗家の命令を断行しようという忠誠があるのだから、たいしたものだ。これ以上、危険な目にはあわせずに、目的を遂げさせてやりたいと思った。何とかいい方法はないかと思うが、まずは、ねぎらいの言葉が必要だろう。
イレーネは、毒草の籠を持ってきて、ヴェンデルに手渡した。
「私も、今、<風の毒>の勉強中なの。今日、庭で採取したものだけれど、あなたにあげるわ。ヴェンデル。何かの役に立つといいのだけど。どれも毒ばかりだけど、あなた使い方はわかるわよね?」
イレーネがはっきりした言葉遣いでそういうと、ヴェンデルは驚いて目を瞬いた。だが、すぐに気後れした態度も見せず、素直に籠を両手で受け取った。
「大切に使わせていただきます、お嬢様」
「他に何か、必要な書籍とか、あるかしら。私なら、お父様やお兄様に頼む事が出来るわ。必要な文献があるなら用立ててあげるわよ」
「いえ、そこまでは……」
ヴェンデルはさすがに恐縮した様子で、胸元を押さえながら顔を下げた。
考えようによっては、今日の自分の女装の失敗が、宗家であるザムエルや家督のはずのエックハルトに伝わってしまうのである。イレーネはそこまでは考えていなかっただろうが、やはり、分家の錬金術師としては、知られたくないことなのだ。
「そう?」
イレーネは大して深追いもしなかった。必要なものがあったら、本人から言うだろうと思った。
そのやりとりを面白そうに眺めていたジークヴァルトだったが、ヴェンデルの生真面目な様子と、その忠誠心を買ったらしいイレーネを見比べて、次は自分が、椅子から立ち上がると、懐から小刀を取り出した。
「これをお前に授けよう、ヴェンデル」
「……これは?」
「魔具マグの小刀だ。依り代として、攻撃を3回まで身代わりに受けてくれる性能がある。呪詛も弱いものは無効化してくれるし、強いものでも半減するものだ。これをうまく使って、あのアスランを倒してみせろ」
「は……」
ヴェンデルは、そこは予想していなかったのか、びっくりしてジークヴァルトの端麗な顔を見上げた。ジークヴァルトは、強い眼光を見せて、ヴェンデルに頷きかけた。
「アスランを倒したのなら、お前の孫の代まで、宗家と私の子孫が生活の保障をしよう。アスランは今、イヴ姫と縁談が持ち上がっている……それがどういうことか、お前もわかるだろう? その話がまとまる前に、必ず、アスランを仕留めるんだ」
「はい、わかりました」
この場合は、これしか言う事がないらしい。ヴェンデルは、黙ってそっと、鞘に入った小刀を両手で受け取り、自分の破かれた懐に入れる訳にはいかないので、毒草の籠の中に大切にしまった。
「後は、ジグマリンゲンに近づくきっかけね。そうね、私の方から、ジグマリンゲン家で侍女の募集を出していないかどうか、調べて見るわ。推挙するのでもいいし」
「ありがとうございます」
そこでようやく、イレーネは思いついたようだった。
「そうだわ。ジグマリンゲン家で、新年パーティが十五日にあるのよ。私、そこに招かれているんだけど、ヴェンデル、あなた、綺麗に装ってついていらっしゃい」
「はい!?」
「私の付き人っていうことで、女装してついてきなさいよ。アスランと、顔を繋いであげるわ。そうすれば、アスランを仕留めるチャンスが来るかもしれないし……何より、可能性の幅が広がるわよ。そうしましょう」
「は……はい。よろしくお願いします」
ヴェンデルは明らかにうろたえながらそう答えた。
イレーネの侍女として、メイドの所作を完璧にマスターし、その後、なんとかしてジグマリンゲン家に近づいて……という算段は、ヴェンデルも建てていたが、そんなことより、宗家に一言相談すれば、便宜を図ってもらえる事だったらしい。新年早々の失敗を気にして、自分の考えで進めてみたが、思いも寄らない助力に、ヴェンデルの方が驚くぐらいだった。
「それはいいな、イレーネ。ジグマリンゲン家のパーティで、アスランが新年早々、事故に遭うというのは素晴らしい」
「いきなり暗殺出来ると決まったものではありませんわ。今からでは、準備も着実に進められるかわかりませんし……だけど、チャンスがあれば、仕留めてみたいですわね」
イレーネは自信がない自分を取り繕うように、つんと取り澄ましてそう言った。
「ありがとうございます」
ヴェンデルは礼儀作法に乗っ取った所作で、丁寧に、ジークヴァルトとイレーネに礼をした。
「暗殺、か……」
イレーネは、実は、アスランの事をよくは知らない。
彼女は宗家の長女として、帝城の祝賀の催しなどには頻繁に出入りしているし、そういう際には挨拶はするが、他に何の接点もなかった。シュルナウの貴族であるビンデバルドと、帝国北方の重鎮であるジグマリンゲン家は、よしみを通じてない訳ではないが、それほど頻繁に行き来もない。もしもここにエリーゼがいて、中学生レベルの日本史しか見たことがない着眼点で物を言うならば、ビンデバルド宗家は帝都住まいの貴族の精華家か、譜代大名。それに対して、ジグマリンゲン家は「藤原秀衡」とか外様の「前田利家」「伊達政宗」?? になぞらえて想像するだろう。
ジグマリンゲン家が、奥州藤原氏で現当主ウィンフリートが秀衡だとするのなら、アスランはその子泰衡になるのかもしれないが、夢見る乙女脳のエリーゼとしては、せめて弁慶を連れた義経ぐらいはいってほしいところだろう。
そういうわけなので、季節の折々などに挨拶の贈答品は取り交わしているが、お互いの事はよく知らない付き合い方をしていたのであった。
イレーネは小首を傾げて、虚空を睨んでいたが、やがて、しげしげとヴェンデルの破かれたメイド服などを見直して、不意に言った。
「ヴェンデル、ジグマリンゲン家の新年パーティに行くのなら、女物のドレスが必要よ。あなた、ビンデバルドの名に恥じないちゃんとしたドレス、持っている?」
「母のドレスなら、何着かあります」
「お母様の? それじゃダメよ」
にべもなくイレーネは、却下した。母親の着るドレスといったら、彼女の頭では、当然ながら四十代五十代の妙齢のご婦人の着るものである。アスランにハニートラップを仕掛けられるぐらい華麗でセクシーなドレスを着なければ話にならないのだ。
「……」
困っているヴェンデルに、イレーネはたたみかけた。
「私が、あなたの着るドレスを選んであげる。できるだけ、アスランの目にとまるような、清純だけど華やかなのを見繕うか、仕立ててあげるわ。それから、当日まで後三日あるから、その間に、私と一緒に女磨きよ。肌をつるつるにするだけじゃなく、話し方も、何もかも、最後の調整をするわよ。わかったわね」
そこは、世間知らずの良家の長女らしく、自分の中の傲慢さに気づきもしないで、イレーネはそう言った。
アスランの女の好みがどんなタイプかとか、そういうことを知っている訳ではないのだが、美人に越した事はないだろうと、そんな当てずっぽうな事を考えている。
「…………はい、ありがとうございます……?」
さすがのヴェンデルも、様々な疑問にとりつかれながらも、それを口にしていい立場ではないので、素直にそう答えた。実際、暗殺に手を貸してくれる上に、パーティに付き人としてつれていってくれて、チャンスも作ってくれるという。全く気の利く、素晴らしいお嬢様だと言えば言えない事もない。
だが、ジークヴァルトは、あんまりにも面白すぎるので、その件は言わないでおいた。
何か言いたいのだが決して言えない風情の真面目なヴェンデルに対して、イレーネは何にも気づいていない。むしろ、アスランを仕留めてイヴとの縁談を潰せる事にすっかり乗り気の表情である。
問題はそこではないという事に気づいていない。
(イレーネ、お前が、アスランにハニートラップを仕掛けようとは思わないのか……?)
忠義の錬金術師だって、それを言いたいだろうに、半分涙を我慢したような顔で、メイド服で突っ立っている。そのことについては、可哀相だと言う事にさえ、気づいていないイレーネだったし、それをはっきり言ってやらないジークヴァルトであった。
考えようによっては、イレーネにとって、英雄アスランは「圏外」だったということであろうか……?
同時刻。
帝城--イヴの私室。
イヴは、ケット・シーのマーニを膝の上に乗せて、ブラシで毛を整えてやっていた。
マーニはゴロゴロと気持ちの良さそうな声を立てながら、イヴに身を任せ、見事な黒い毛並みを美しく梳かされる事に満足そうな仕草であった。
イヴは、マーニが嬉しそうに自分の手を舐めてくれたり、満足そうな感想を言ってくれえると、にっこりと微笑んで、マーニの背中や喉を優しく撫でて、彼の日頃の苦労をねぎらってやっていた。ケット・シーのマーニは、イヴが最も身近で召喚する精霊であり、護衛をしてくれるだけではなく相談に乗ってくれたり、遊んでくれたりと身近な存在なのである。その彼の毛並みを綺麗に整えて、いつもありがとうと感謝を伝えているところだった。
マーニは、元々綺麗好きであるから、自分の柔らかく長い毛を、見事な鬣のように綺麗にとかしつけてもらうと、それはやはり嬉しそうだったし、昼下がりにゆっくりとブラッシングしてもらったので、すっかり眠気に誘われて、イヴの部屋のいつものソファの上、暖房も入った空調の中、うとうとと眠りについた。
マーニが眠ってしまうと、イヴはすることがなくなった。
ほう、と溜息をついて、自分の机に向かうが、机に頬杖をついて、最近の悩みについて考え込んだ。イヴは、帝城の外に出るなと皇帝であるアハメド二世に強く言われていた。命令されていたと言っても過言ではない。
本当ならアハメド二世は、部屋から出るなぐらい言いたい所なのだろうが、それはイヴが可哀相でもあり、他の娘達からも猛反発が来るだろうから、こらえているところである。
元から滅多に外に出ない、走る事も出来ない不自由な体のイヴ。思ったよりもストレスはなかったが、実の父と言っていいほど近しい存在の、養父に、そんな命令をされて、怒りを買っている事は、悲しいし辛いし、悩みの種であったのだ。
だが、それでも、他に好きな人がいるのに、アスランと結婚することは出来ない。
(お養父さまは、相手は誰なんだって、毎日問い詰めにいらっしゃるし、侍女達の前で口さがない事は言うし、もう、大嫌い)
まさかそのまま野放しにするアハメド二世ではない。相手は誰なのか、もう何事かあったのかと、しつこく尋ねるのだが、イヴはふくれっ面で黙秘権の一点張りであった。
しかし、アハメド二世は多忙の身の上であり、いつもいつも、問い詰めている訳にもいかない。かといって、他の誰かに任せようにも、イヴの内心を上手に聞き出せるような相手といえば……妻であるサフィヤぐらいだろうが、サフィヤは何故か、今のところ静観を決め込んでいるようだった。
イヴは、そのうち、自分がサフィヤに呼び出されて、色々と説教を受けたり、問いただされたりすることだろうとは知っていて、そのことを考えるのも辛かった。心優しい皇后相手になら、自分がリュウを好きでいる事を、話してもいいような気がしたが、皇后は、それをどうしたって、アハメド二世に話さない訳にはいかない立場なのである。
アハメド二世がそれを知ってしまったらどうするかというと、………………。
もしかしたら、リュウの、城に出入りする権利を奪い取って、彼に恥をかかせて辛い目に遭わせるかもしれない…………。
全くありえないことではなかった。
そしてそのまま、一生、自分はリュウと離ればなれにされてしまうかも。彼が神聖バハムート帝国の貴族ではなく、華帝国の庶民の出身だというだけの理由で。そのことを、イヴは散々、様々な角度から考えたが、全くもって、意味不明の制度だとしか思えなかった。だが、同時に、読書家である彼女は、それが意味不明の制度だと、皇女一人で主張しまくったところで、国の制度やならわしが、一回でコロッと変わってしまうことなどありえないことを、知っていた。
そのため、一人で鬱鬱と抱え込み、浮かない顔で、頬杖をついている。
この状況が長引けば長引くほど、双方にとって不利なのだが、どうやって打開したらいいのかと、それも気になった。双子の姉と言ってもいい、聡明なヴィーでさえ、名案が浮かばないようである。
リマはというと、毎日のように心配して姉の部屋には来てくれるが、やはり、皇帝の権力もあるが、制度なんて簡単に変わらないということは彼女もわかっていて、結局、姉を優しく慰めるにとどまっていた。
(逆に……私が、リュウと……なんてきっかけが出来れば、リマが志ゆきとまた、仲良く、パーティをしたり元気に走り回ったりする事が出来るのに……なんでなのかしら)
だが、その、なんで、なんでを考えたってどうにもならないことはわかっている。
イヴは、また一つ溜息をつくと、外の空気を吸いたくなって、机の前の窓を大きく開け放った。
冷たい凜とした空気が吹き込んでくる。ぼんやりしていた頭が冴え渡って、本当の意味で目が覚めるような、冷ややかな空気。それを胸いっぱいに吸い込んで、イヴは、鬱鬱とした気分を追い払おうとした。
そのときだった。
「危ない!!」
鋭い男の声が飛んだ。条件反射で、イヴは、頭を下げて机の上に突っ伏した。彼女も、魔大戦をかいくぐった姫なのである。
部屋の中に、何か小さな礫のようなものが飛来して、床に突き刺さった。その音と気配で、ソファの上のマーニが跳ね起きた。
イヴは、咄嗟に召喚魔法を唱えた。風の精霊を読んで自分の周りに風の障壁を作る。続いて、召喚魔法を唱えながら、窓の外に飛び降りた。イヴの部屋は高層階であるが、彼女が地面に叩きつけられる前に、一角獣が飛来して、イヴの細く柔らかい体を受け止めた。
一角獣に騎乗しつつ、イヴは、礫が飛んできた方角--男の声が飛んだ方角を目で確認した。
皇女宮の南向きの中庭の真ん中。
案の定、甲きのえだった。甲きのえが、複数……よくみると二人の黒装束の男と、小刀でやりあっている。黒づくめの男二人はそっくりで、どちらがどっちかわからない。
イヴは、一角獣の首を軽く叩いて促した。知性の高い一角獣はそれだけで命令を理解し、まっしぐらに甲きのえを救援に走り出した。
甲きのえは、小刀を二刀流にしてうまく使い回し、二人がかりの攻撃をいなしているが、相手の方がどうしても手数が多く、こちらかの攻撃のチャンスを潰されているようだった。
それを見て取ると、イヴは、一瞬、頭がかっとなるのを感じた。だが、戦闘中に、そういう感情に駆られるから、「幻獣から落っこちたりするんだ」とヴィーに散々言われた事を思い出し、即座に冷静を取り戻そうとした。
イヴは一角獣を操って、甲きのえの横の方に回り込んでいく。一角獣は蹄をかき鳴らしながらまっすぐに進み--二人の男を、その蹄の下に蹴散らしていった。イヴは、男二人を幻獣でいきなり轢いた。
複数の召喚獣を同時に操ってもいいのだが、それだと魔力の消費が激しく、指示を出すのも忙しくなる。
それよりは、単純な刺客には、大胆で単純な攻撃が、一番効果が高い事もある。
呆然としたのも一瞬、甲きのえは、轢かれたダメージで地面にうずくまっている男達に、飛び縄をかけようとした。一人の男が気丈にも立ち上がり、その飛び縄を刀で切ったが、甲きのえは怯まずに、もう一本の縄を旋回させて、巧みにその体をくくり上げた。もう一人が、這々の体で逃げ出そうとする。
「そうは、させない。我ら、ケット・シーの力、思い知れ!!」
そのときになって、追いついた、ケット・シーのマーニとその仲間のケット・シー。マーニの号令で、猫の精霊達は一斉に、逃げようとした男に襲いかかり、その爪と牙の犠牲にしてしまったのであった。
一角獣で勢いよく走り去ったイヴは、そのまま一角獣に乗って戻ってきた。
「この黒子たち……何者なの?」
「わかりません。それは、これから取り調べます」
甲きのえは、イヴの声を聞きながら、丁寧に、二人の男を忍具の縄で縛り上げた。マーニは猫の手ながら、その手伝いをした。
「もしかして、最近、こういう人の出入りが多かったりする?」
「はい」
甲きのえは素直にそう答え、イヴは思わず顔を赤らめた。
要するに、どこぞの貴族達の、間諜なのだろう。自分が大声を立てて、アハメド二世と大喧嘩したりしたからだ。皆、噂の出所を確認しようとしたり、イヴの縁談の行方を知ろうとしたりして、こういう者が……。
「でも、どうして、私、礫をぶつけられそうになったのかしら?」
「……言いたくありませんが、地獣人フルフィをよく思わない貴族の者なのでしょうね」
「……そうね。そういうこともあるわね」
イヴの母、ティシャ姫は、地獣人フルフィの姫というだけで、辛酸を舐め尽くしたあげくに死んでいる。それはそれで、現実であった。イヴはそのことを思いだしたが、口に出すことはしなかった。
「いえ……」
言葉数の少ない甲きのえは、イヴの努めて平静を装っている表情から、何かを感じ取ったようだった。
「姫」
「……何?」
「俺も、常人オルディナです」
甲きのえはそれ以上何も言う事はせず、テキパキと賊を縛り上げると、マーニとともに、警備兵の詰め所へ向かって歩き出した。
「……そうね。ありがとう」
イヴはその背中に、優しい笑顔でそう言った。
賊は無事に、帝城を守る衛門兵達に取り調べられる事になり、甲きのえはすぐに解放された。
イヴは、その彼を部屋に呼んでもてなすことにした。本来は、姫と護衛の忍びという距離のある二人だったが、こういうときに、日頃の働きに表だって報いる事は何も悪い事ではない。少なくとも、イヴの周りではそうだった。
「甲きのえ、日頃から、私の事を守ってくれてありがとう。今日も、危険をおかして戦ってくれて、びっくりしたけれど、おかげで助かったわ。本当に、ありがとう」
「いえ、なんでもありません」
心づくしのお菓子とお茶を用意して、手放しに褒め称えるイヴに対して、甲きのえは無骨とも言える、淡泊な態度だった。だが、嬉しくない訳ではないらしく、イヴの正面の椅子に座って、口元をかすかに緩めている。
彼が、弟分の志ゆき以外に、そんな表情を見せる事はなかった。
「甲きのえって、甘い物は嫌いじゃなかったわよね。そういえば、お茶はどこの地方のものが好き? それとも、コーヒーとかカフェオレの方だったかしら?」
侍女もつけずに、自分でテキパキと働きながら、イヴはそんなことを聞いている。
「……お茶なら東洋の茶なら、何でも……」
「あ、紅茶、苦手??」
「いえ。嫌いではないですが、好みを言っていいのなら」
甲きのえは、控えめながらも聞かれた事には素直に答えているようだった。
幸い、イヴは、華帝国のルートも持っていたため、そこから入ってきた「玉露」というものを、甲きのえに出す事が出来た。そうはいっても、日本風の湯飲みは持っていないため、ティーカップに入れる事になったが。
「甲きのえって、東洋の、漢字の名前だけれど、出身は、リュウと同じシャン大陸でよかったの?」
滅多に自分の話はしたがらないのが、甲きのえで、イヴは、子どもの頃から、忍びなどというものはそういうものだと言われていたため、あまり立ち入った事を聞いた事はなかった。
氏素性を聞いてはならないという建前で、最初、衛門府が雇ったのが甲きのえである。衛門府は、帝城と帝都の門をその名の通り護衛するという軍隊だ。衛門府を通して、甲きのえがイヴ付きの忍びとなったのが五年前。そのとき、彼は二十歳という情報だった。嘘かもしれないが。
その後、甲きのえの忍びとしてのあまりに高精度な腕を知ったイヴは、自分が直接彼を雇うようになった。いわば、甲きのえはイヴだけの私兵なのである。どうしてそうしたのかというと、イヴは、自分より地獣人フルフィの血が濃いリマが、皇太子として、危険な立場であることを知っていた。そのため、魔大戦中、リマの立場が不安定な時、彼女の手柄にするために、魔王城の地図を探索させたかったのである。……凄腕の忍びに。それが、甲きのえで、彼は様々なトラブルに巻き込まれつつも見事、地図を手に入れて、それがあったから、皆で力を合わせて魔王を倒す事が出来たのだった。
だから、イヴは、結果的に、甲きのえを自分だけの忍びにしてよかったと思っている。だが、それはさておき、彼の忍びの腕の事以外は、ほとんど何も知らないのだった。何しろ無口だし、聞いてはならないとあらかじめ言い含められていた事もあったし。
「シャン大陸ではありません」
「え、それじゃ……どこ?」
「俺の母親が、オノゴロ島の人間なんです」
「…………オノゴロ島」
イヴはびっくりしてしまった。
「はい。アスランの母も、オノゴロ島の出ですが、無関係です。偶然の一致です」
「そ、そうなの」
アスランと甲きのえは一頃、ライバル同士という事で、激しくいがみ合っていた。その事を思い出したので、イヴは一瞬、固まってしまったのである。
だがーー
(お母様が同じ島国の出身なら、仲良くしてもいいようなものなのに。お母様って、よいものよね)
幼くして母を亡くし、心細い思いもしてきたイヴは、単純にそう考えた。
「甲きのえ。私が子どもの頃に、忍びの氏素性を聞いてはならないと、衛門府から言われていたけれど、今でもそうなの? 忍びってみんな、家の話や趣味の話や……普通の話、何もしてはいけないの?」
たまたま、不安で寂しい日々を送っていたイヴは、甲きのえに向かって、率直にそんなことを言ってしまった。
「いえ。そういうわけでは、ありませんが」
「それなら、どうして」
「……忍びと、姫では釣り合いが取れないからです。あまり、俺のような者と、皇統の血を引く御方が、親しく話すものではないと、思いますので」
考え深げに、甲きのえはそう言った。
「でも、あなた、今は国を救った英雄だわ」
「……」
「そういうことは、理由にならないの?」
「確かに。ですが……俺は、あまり……」
「わかったわ。甲きのえ。私、あなたが、話したくないって言った事は、無理には聞かないわ。だけど、あなたが自分から話したいことや、話してもいいって思うことは、何でも聞いていいわよね」
「……」
「本当に話したいって思う事は、何でも言って。黙っていて欲しい事はそう言って。私、あなたと話してみたいの」
実際、五年の月日をともにしたのに、出身の国の事も知らないのだ。魔大戦の任務での事なら、相棒として何でも話したが、それ以外に、彼の事はほとんど知らない。帝城に軟禁されて悲しんでいたイヴは、甲きのえと色々な事を話してみたいと強く願ってしまったのだった。
「……はい、そうですね。姫」
ティーカップの玉露の、安心する味にほだされながら、甲きのえはそう答えた。
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