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第四章 アスランの縁談
16 親子喧嘩でゴーレム
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ところで--。
このとき、甲きのえは意外にも”紺の旗の街”マリーネブラウフラグの借家に帰宅していた。基本的に、甲きのえは、イヴから離れることはない。勤務時間だろうとそうでなかろうと、甲きのえは見えない位置からイヴを見守り、あらゆる危険を姫の周りから排除する生活をしている。それが当然だと思っている節がある。
その甲きのえが、今日に限ってなぜ、定時で帰ったのかと言うと、問題はイヴにある。
答えは非常に簡単で、甲きのえはイヴからケーキをたくさんバスケットごともらったので、弟の志ゆきにも食べさせたくなったのだ。それで、彼にしては珍しく、定時きっかりに城から帰ってしまったのだ。
志ゆきは志ゆきで、冒険者ギルドから仕事の依頼をもらってそれを片付ける暮らしをしており、今はとにかく冒険者のランクをあげることに必死であった。
何しろ、仲間のリュウがSSSランク冒険者として、城に自由に行き来できる権利を得ているので、それが良い刺激になっており、正月そうそうギルドに通い詰めて多少背伸びした依頼を片っ端から引き受けて、まずまずよい成績を残している。
そんなわけで、イヴが大声で「嫌です!!」などと叫んだら相手が皇帝だろうと魔王だろうと真っ先に飛び込んでくるはずの護衛の忍びが、この場面にいないのである。
彼はないとなう! の中でも不世出の忍びであり、同時にイヴ姫命の描写が多かったのだが、どうやら、結構なブラコンでもあったようである……。
いずれにしろ、甲きのえがいればそんなことにはならなかったのだろうが、イヴは甲きのえがいないことにも気づかずに、大声でさらに叫んだ。
「おとうさまの言いつけと言われても、聞けないことがあります。私、アスランと結婚はできません!」
「なぜだ!?」
皇帝であるアハメド二世は大いに驚いてイヴに負けずに声をあげた。全く、人払いをしていて正解の状況であった。もっとも、人払いをしていたとしても彼らの身分が身分なのだから、聞いている人間は聞いていただろうが。
「なぜ、アスランがだめなんだ。イヴ。さっきは彼をとても褒めていただろう、アスランがだめな理由を言いなさい!」
「そ、それは……」
そう返されるとイヴも弱い。
養父で男親のアハメド二世に、いきなりリュウのことを言うのは憚られた。何しろリュウは、アスランと違って他国の庶民出身である。実力は申し分がないといたって、バハムート帝国の貴族じゃないことは本当なんだから。
ここで勝手なことは言えなかった。
「言いなさい。イヴ。相手はジグマリンゲン侯の次男のアスランだぞ。あの英雄の! お前のよき友よき仲間でもあるアスランだ。何が問題があるんだ。言いなさい」
アハメド二世が一言言うごとに、だんだんとイヴはうなだれてくる。リュウのどこに問題があるといったら、イヴにとっては全然ない。だが、今そこで、アハメド二世がいったことそのものが、問題であった。
要するに、リュウがジグマリンゲン侯爵の血を引いていれば何も問題がなかったのだ。それを知らずに、アハメド二世が言っちゃったものだから、イヴはクリティカルダメージを食らってしまい、とっさに言い返すことができなかったのだった。
「顔も悪くないし実力は申し分ないし、性格も明るくて華やかで男らしい、イヴだってそう思うだろう。それにな、彼は妬まれて暗殺の憂き目にあいそうなんだ。それを、皇帝家の力で守ってやることができるのはお前なんだぞ」
「たしかに、アスランが暗殺未遂というのは事件です。おとうさま。だけど、それでなんで私が、アスランと……」
それを言うなら、ヴィーだってリマだっていいではないか。そうは思うが、迂闊に口に出せない。
イヴ同様、皆、年頃の娘たちであり、意中の男性がいてもおかしくないのだ。ヴィーも、リマも。実は、ひそかにそういう情報交換をしたことだってある。そのことを考えると、女の恩義に背く事もできないので、他のいとこの方に水を向ける事も出来ない。
だがアスランは大事な仲間なので安否が心配で、ついそんなことを言ってしまう。アスランはアスランで、本当に気にしているし心配しているのだ。だが、結婚相手として考えたことがあるかというと、それは違う。
「だから、なぜ、アスランがだめなのか言いなさい」
その問題を握りつぶしてやる。そういうつもりで、アハメド二世はイヴに迫った。
恐い顔でイヴに近づいてきたので、マーニが威嚇の声を立てて背中の毛を逆立てた。
するとわずかに怯むが、アハメド二世は簡単に立ち去ろうとはしなかった。
マーニは甲きのえがいないことに感づいており、イヴを守るために彼女の膝の上から立ち上がってアハメド二世の方を向いている。
「アスランが嫌いなわけじゃないんだろう」
「もちろん、彼のことは嫌いじゃありません、けど」
「嫌いじゃないんだし、これだけ条件がそろっているんだからアスランでいいだろう。皇帝家としてもな、イヴ、わかっているんだろう??」
「嫌いじゃないから結婚できるわけじゃありません!」
それにそもそも、結婚は条件ですることではないのだが、政略結婚が当然の皇女の身分となるとそうとも言い切れないのだ。
「嫌いじゃないならいいだろう! 仲間結婚、友達結婚、大いにけっこうじゃないか!」
「だから違うんですってば!」
「何が違うんだ、イヴ。理由があるのならちゃんと言いなさい!!」
そこは養い親の威厳、皇帝の威厳で、アハメド二世はそういいきった。
マーニがなにか一声あげたが、今度はイヴが怯んだ。
イヴはさすがに、ここはごまかしきれないと思った。嫌だから嫌では通じない相手らしい。
「わ、私……」
イヴは、ひるみながらも皇帝から目をそらずに’言った。言ってしまった。
「他に好きな人がいるんです、おとうさま」
「ッ!」
思いもよらない言葉にアハメド二世は息を飲んだ。
たしかに、イヴは美女であるし、性格も悪くなく、趣味も品もよい。フルフィの差別問題さえなければ、とっくに良縁に恵まれていた事ぐらいわかっている。だが、いくらなんでもこの場面でこれはないだろう。
「それは、誰だ。イヴ’」
その相手が気になる。事と次第によっては、いささか乱暴だが、皇帝の強権を発動をする必要があるかもしれない。それこそ、内大臣の息子から近衛府の親衛隊の若者の顔ぶれまで走馬灯のように思い出しながら、アハメド二世はイヴに向かった。
「----言えません」
だが、イヴはそう答えるしかなかった。
「親に言えない相手なのか!」
瞬間的にアハメド二世は激昂した。
普段は常に機嫌の良いアハメド二世だったが、このときばかりは違った。
彼の三人の娘の中でいちばん’素直でおとなしいイヴ。その彼女が親に話せない相手とと思っただけでもうたまらなかった。
「冗談じゃない、イヴ。お前が、親に言えないような相手だと!? それこそ結婚させるわけにはいかない。誰なんだ、言いなさい!」
「…………」
だがイヴは唇をかみしめて目を伏せて、何も言わなかった。
とてもじゃないが、言えるような状況ではない。
マーニが心配そうに彼女の方を振り返るが、それでも一言も発せなかった。
「イヴ、まさか、親に言えないような相手と、なにかあったわけじゃないだろうな!?」
男親にしてみれば、当然の質問であった。それだけ重大な問題だし、イヴが黙っていて答えないので、よほど言えないようなことがあったのかもしれないと思ったのだ。
瞬間的にイヴは真っ赤になった。彼女だって、二十歳の大人なのだから、アハメドが何を想像したのかぐらいわかっている。それが本当に重大な問題であることもわかっている。
だが、全く見に覚えがないこともあったし、何よりそんなことを想像されたということだけでも腹がたった。
「おとうさまなんて、大っきらい!!」
イヴはそう叫ぶが早いか、アハメド二世の前に立ち上がり、呪文を唱え始めた。
恐ろしい早口だったが、それはさながら鳥の歌声のようにも聞こえた。イヴが司るのは聖なる獣。異界に住まう高位の生き物たちである。
イヴは、その鳥の歌声のような言葉で、聖獣を呼び出そうとしたのだ。
「ま、待て、イヴ、それは……!!」
娘の能力の事は知っている。何しろ彼女は、その聖獣を召喚して自由自在に操る能力で、魔王との決戦に生き残ったほどなのである。同じ戦いの中で、リュウと志ゆきが戦闘不能になっていたのに、彼女は聖獣に騎乗したまま最後までピンピンとしていたのだ。
「イヴ、よしなさいッ!!」
アハメド二世が慌てふためいて制止しようとするが、それを聞いている場合ではない。イヴは、その場に、小型のゴーレムを呼び出した。土の精霊ゴーレム……アハメド二世よりも二回りほど大きいだろうか。巨大な人型の岩の塊が、イヴとアハメド二世の間に立ちはだかる。
「ゴーレム! おとうさまを部屋から追い出して!!」
「イヴ!!」
皇帝で、養父であるアハメド二世を部屋から追い出すのにゴーレムを使う。なんということだろう。アハメド二世はそれを教え諭そうとするが、イヴは真っ赤になって叫んだ。
「もうたくさんです、おとうさま。私は潔白です。娘の貞操も信じられないような人だなんて、知らなかった。今夜のところは出て行ってください!!」
「イヴ、お前が潔白だと、どうやってわかるというんだ!!」
一瞬の沈黙が落ちた。
「どうやって調べる気なんですかおとうさま!? もう、本当に大っ嫌い、出て行って! ゴーレム、おとうさまにお帰りいただいて!!」
イヴが一体何を想像したのかわからない。
アハメド二世も色々な事を想像し、それがどれだけ養女に失礼であるかも考えて、その場で黙りこくって棒立ちになってしまった。
顔のないのっぺらぼうのゴーレムは無言で、その巨大な手で、アハメド二世を部屋からつまみ出そうとした。本当に、その岩石で出来た手でアハメド二世の肩をつかんで、つまんで、部屋の出口の方に持って行く。
「ま、待て、待たんかコラ、それが、一国の皇帝に対する仕打ちか!」
アハメド二世は慌てて岩の手を振りほどこうとするが、ゴーレムの怪力の前にはなすすべもない。
「イヴ! 冷静に考えなさい。どこの馬の骨だか知らんが、お前はだまされているんだ。余の言うことをよく聞いて、アスランと結婚しなさい、アスランにしなさい!!」
「嫌です!!」
この状況でも必死に娘にアスランをすすめるアハメド二世。
娘がこれだけ怒っているのだから、当然、男親は色々な事を想像し、アスランで決着をつけようとしたのだ。
ケット・シーのマーニはあきれてこの養父と養女を眺めるばかり。イヴの怒りもわかるが、アハメド二世の言い分もわかり、どっちつかずになっている。
「アスランにしなさい、イヴ、冷静に父親の言うことを聞くんだ。余はお前の事を思って……!」
だがその思いやりは当たり前だが、イヴの火に油を注ぐ結果にしかならない。イヴは真っ赤になって、涙目になりつつ叫んだ。
「おとうさまとは、もう口をききたくありません! ゴーレム、おとうさまを!!」
ゴーレムは一回だけ、イヴの方を振り返り、本当に、皇帝であるアハメド二世を部屋の出口から追い出して、ドアをぱったりと閉めてしまった。
「イヴ!!」
こんな仕打ちを受ければ、アハメド二世だって皇帝だ。それより以前に彼女の父親のつもりだ。到底許せる訳がない。
「イヴ! 考え直しなさい!」
「……」
しかし、帰ってきたのは冷たい沈黙だけである。
アハメド二世は、日頃の人の良さをすべてかなぐり捨てて叫んだ。
「なんだその態度は。お前なんか、尼にするぞ! 意中の男が、どこの馬の骨だか白状しないなら、尼にしてしまうからな!!」
「おとうさまなんか嫌いよ!」
返事はその一回きりであった……。
アハメド二世は引き下がるしかなかった。彼は、再三、お前なんか尼にしてやるということと、修道院の尼僧生活の悲惨さを告げて、廊下の奥に消えていった。おそらく、サフィヤ皇后のところに相談に行くのだろう……。
アハメド二世は、まさか、イヴの意中の彼が、ちまたで人気絶頂の、アスランと大人気の頂上決戦しないばかりの英雄、リュウだとは知らなかったのである。
その話は電光石火の勢いで、帝城を揺るがした。
何しろ、おとなしくて優しいという評判のイヴが、養父である皇帝をゴーレムで部屋からつまみ出したのである。
これが、日頃から元気がいいことで有名な従妹のリマならそれほど意外ではなかったかもしれないが、イヴだから大問題だった。ましてお互いの大声の内容から、イヴにどうやら好きな男がいるらしいということまで漏れ聞こえ、帝城に務める宮廷スズメの侍女や使用人たちはヒートアップ、あっという間に帝城中に無責任な噂も含めて、話が広まってしまったのである。
イヴはもちろん、長年、帝城で生活しているわけだから、我に返ればそのことがわかった。別に噂を確認しなくても、そうなるであろうことぐらい気がついてしまう。
それもあって、イヴは、マーニのソファに泣き伏した。自分が冷静さに欠けて、大声でとんでもないことを叫び、ゴーレムで父親を部屋から追い出した事が悪かった事はわかっていた。だが、同時に、いきなり夜中にやってきて、アスランと結婚しろというアハメド二世の気持ちもわからず、ショックと混乱と、噂になっているだろう恥ずかしさで、泣くしかなかったのである。
これまた、ここに甲きのえがいたのなら、すかさず現れて、泣き伏すイヴを優しくなだめ、お菓子のお礼の一つや二つしてくれたのだろうが、あいにく、甲きのえはここにはいない。志ゆきと仲良くケーキ食べているだけである。
マーニだけがしきりに彼女の白い柔らかな手をペロペロ舐めたり、片言の人語で話しかけたりしてしきりに泣き止ませようとするが、イヴはその優しさが辛くて、余計に泣いてしまうようだった。
そうしていると、先触れがあったのかなかったのか、ヴィーとリマが、連れだってイヴの部屋に駆け込んできた。
本当に、走ってきたのかというような素早い勢いで、二人はイヴの前に現れた。
「イヴ、大丈夫!?」
泣きじゃくっていたイヴは、突如現れた従姉妹達に驚き、ソファに突っ伏すのをやめて身を起こした。
「ヴィー。それに、リマも……来てくれたの? こんな夜更けに、悪いわ。二人とも明日仕事があるでしょう、私の事は気にしなくてもいいのよ」
イヴは気まずさと、本心からそう言った。実際問題、イヴと違って健康体のヴィーは、皇族の仕事が忙しい身分である。リマだって帝国学院の学生だ。勉強をおそろかにしていい立場でもない。
「そんなことはいいの!」
ヴィーは断固として言い切った。
「イヴねえさま、話を聞いたわよ。おとうさまが、何か強引な事を言ったって……。どういうこと!?」
続いてリマがイヴにそれを尋ねた。
それを聞いた途端、イヴはまた嗚咽をあげてしまった。
「おとうさまが……尼にするって……私のこと」
一国の皇帝が、皇女に向かって尼にしてやると怒鳴ったのである。その事実がじわじわと聞いてきて、イヴはそれもまた心配なのであった。無論、脅しだけなのだろうが、冗談でも言っていいことではない。(だが、イヴのような立場の皇女が、アハメド二世の想像した通りの馬の骨と不始末があったら、それは、尼にするしかないだろう)
「だから、どうしてよ。イヴ、まさか、リュウの事を話しちゃったの!?」
ヴィーは真っ先にそれを確認した。
するとイヴはすすり泣きながら首を左右に振った。仲のよい従姉妹達とは、恋愛トークをすることも多く、お互いに好きな異性のタイプや本人の話を情報交換していたのである。
ヴィーやリマは、イヴがリュウに熱を上げるのは無理もないと思っていたし、アスランは従姉妹どうしで応援している空気を感じ取っていて、それで茶話会でもリュウとイヴをくっつけようとからかっていたのだ。
「おとうさまはあれで皇帝よ。今、リュウの事を話してしまったら、尼僧にされても仕方ないわよ。黙っていればよかったのに」
「リュウの事は言わなかったわ、おとうさまが、私に結婚しろって……そう仰ったのを断っただけよ」
イヴはしくしく泣きながら、途絶え途絶えにそう言った。
「結婚って、誰と」
既に噂になっているが、噂は噂だ。リマがはやる気持ちを抑えながら従姉に聞いてみた。イヴは、すすり上げつつ、なんとか顔をあげて、女同士という気持ちで話した。
「アスランとよ。おとうさまが……いきなり、夜中にやってきて、そう仰ったの」
「アスラン!? 本当にアスランなの!?」
ヴィーとリマはお互いに顔を見合わせた。
アスランが、魔王を倒した救国の英雄で、名家ジグマリンゲン侯爵家の次男であることはいちいち説明することでもない。
イヴがアスランのことをよい友達だと思っている事も知っている。アスランとは魔王決戦で背中を預け合って戦った仲間だ。彼の事を悪く思っている訳がない。
だが、イヴが好きなのはリュウなのだ。そのことは本人からも聞いているし、イヴは抑えているつもりだろうが、かなりあからさまにだだ漏れている。
少なくとも、従姉妹達はそう思っていた。
「アスランと、結婚か……」
ヴィーは、眉間にものすごい縦皺を作って考え込んだ。
それは、イヴの気持ちを考えないなら、悪い話ではなかった。帝国の北方、ノイゼンの港を抑えて栄えるジグマリンゲンは、諸侯の中でも武門の誉れが高く、軍事力はバカに出来ない--ということは、経済力もかなりのもので、発言力はビンデバルド公爵家に次いで高い。現在のアスランの父であるジグマリンゲン宗家は、魔大戦において、北方を荒らし回った魔族を片っ端から斬り倒す事に忙しく、帝都決戦に次男を参加させることしか出来なかった……ということになっているが、何のことはない。魔王の島に突撃した艦のほとんどは、ジグマリンゲン家の経済力の証である。
舟と、操舵手のほとんどが、ジグマリンゲン侯が、「うちの次男がお世話になりまして」と回したものであった。
それと、帝国海軍の連携で勝った戦であり、ジグマリンゲン家が北方を抑えているだけではなく、実は、帝都の権力闘争に並ならぬ関心があるのではないかと、ヴィーは前からにらんでいるのである。ヴィーだけではなく、艦隊の底力を見た貴族と大商人達は同じ事を考えているのだろうが。
「アスランはどう思っているのよ。今日は女の子連れてきたよね!? イヴねえさまだって、リュウの事が大好きなのに。おとうさまの言う事を聞かないなら尼になれだなんて、ひどすぎるわ!!」
一方、まだ十七歳のリマは思った事をそのまま言っているようだった。
リマはもちろん、エリーゼの事を嫌いな訳ではない。だが、アスランが、イヴに気があるのなら、今日のようにエリーゼを茶話会に連れてきて、リュウとイヴの事を煽るということはないと思う。もしかして本当に、アスランがイヴの事を好きなのだとしたら、エリーゼを連れてきてイヴの嫉妬を煽りつつ、リュウにイヴを意識させるために一役買っている訳で、かなりの心理戦を平然とこなしたことになる。
「アスランは、リュウにイヴの事を好きになってもらおうとしているように見えるけど、本心はどうなのかしら」
ヴィーもそのことが気になって口に出した。
「アスランが、私の事を……?」
従姉妹達に全く意外なことを言われて、イヴは小首をかしげてしまった。
「そんなことはないと思う……。だって、リマの言うとおりよ。私の事を、その……そういうふうに思っているなら、今日、茶話会に飛び入り参加で、エリーゼを連れてくると思う?」
「イヴ、恋愛って心理的な駆け引きなのよ。そうやって、イヴの反応をうかがったのかもしれないわ」
ヴィーがそう諭すと、イヴは静かに首を左右に振った。
「アスランは、私以外の事を好きだと思う。そうだといいわ。だって、私、……アスランの事を、恋愛対象として見ていないんですもの」
「まあ、そりゃそうでしょうね」
リマは肩をすくめてそう言った。
「アスランは、優しい人だから、おとうさまに何か言われたら、私に気を遣ってしまうかも。もしそうなったらどうしよう。ヴィー、リマ、アスランの事を煽ったりしないでね?」
また、静かに泣きながらイヴは従姉妹たちにそう頼んだ。
そんなことを言われてしまうと、ヴィーとリマも、イヴの事が可哀相でならなくなった。同時に、アスランの事も気になり始める。
「おとうさまはなんでいきなりアスランなんて言い出したのかなあ!」
リマは憤懣やるかたなくてそう言った。
イヴは真剣にリュウが好きなのだろう。そうとしか思えない。アスランの事だって、全然好きじゃないということは、ないのだろうが、恋している相手とは違うので、こんなに傷ついて泣いているのだ。
「同じ救国の英雄なんだから、リュウのことだって気がついてくれたっていいじゃないの!」
リマはそこまで言ってしまう。
だが、青龍人ドラコのリュウは、バハムートの帝国貴族ではない。たったそれだけの理由で、アスランのライバルとさえ皇帝の目からは見えないのであった。
「本当にそうよね……私も、そこはシステムの矛盾を感じるわ」
ヴィーは、両腕を組んで頷きながらそう言った。
「これじゃ、イヴも可哀相だけど、アスランだって可哀相よ。ただ、ジグマリンゲン家に生まれた英雄だっていうだけで、おとうさまに目をつけられたんだから。おとうさまは、皇帝よ。アスランの事をそんなに気に入ったのなら、次はどんなやり方をするかわからないわ」
ヴィーは、リマに比べればまだしも冷静だったが、アハメド二世がこのまま黙っているわけがないことについては、かすかな苛立ちを感じていた。
ヴィーは、自分が心底惚れ合った異性としか結婚したくないと思っていた。それで、自然と、イヴの肩を持つのである。自分が本当に好きな異性と結ばれたいと思う以上、それは悲惨な死に方をしたティシャ姫の一人娘、イヴだってそうであるべきだと思うのだ。
ティシャ姫は夫の浮気に悩み抜いて死んだ地獣人フルフィの姫だ。……本気で一生添い遂げる気持ちって、大事だと思う。
「本当に好きな人と結婚したいと思う、それだけなのに」
イヴは次第に泣き止みながらもそう言った。
「私もそうよ、イヴねえさま。身分なんて関係ない、本当に、大好きな人とだけ結婚したいのよね?」
リマは、イヴの隣のソファに座ってそう言った。途端にイヴは激しく泣き出した。リマの言った通りだったからだ。
「リマ、あなたは、志ゆきが好きなだけでしょう」
「ヴィーねえさま!?」
「私はそれが悪いと言っているんじゃないのよ。だけど、イヴの好きなリュウと同様、冒険者って言う以外の身分を持っていないから、とっても難しい問題よ。リマ、あなたは特に皇太子なんだから、そうやすやすと、その話を他にしちゃだめよ。黙っていたイヴがこうなっちゃったんだから」
ヴィーは長女格らしく、優しい口ぶりでそう言った。
「そ、そりゃ……私、志ゆきが好き……だけど。前にそう言ったけど……」
そうなのだ。
ないとなう! の漫画版の中では、一緒にいるコマが多いというだけの描写であるが、リマは、魔王決戦でコンビを組んだ志ゆきの事が好きになってしまったのである。SSSランク冒険者のリュウと、イヴがくっつくことでさえ無理がある帝国貴族社会。城に上がる事も出来ないSSランク冒険者の志ゆきと、女とはいえ、生まれた時から皇太子のリマでは、釣り合いが取れないのだ。大戦中はまだしも、今はなかなか逢うことも出来ない。
「志ゆきは地獣人フルフィとか関係なく、とってもいい人間なのに……イヴねえさまにとっては、リュウがそうなんでしょう!? なんでダメなのかな」
皇太子の身分でそんなことを言い放つリマであった。
「今はそれを議論したって仕方ないわ。それより、おとうさまがどう出るかを見極めて、イヴが尼僧になるなんてことにならないように、身の振る舞い方に気をつけなきゃ」
ヴィーがそう言って、イヴの隣のソファに座り、何度もその背中をなでた。
「イヴ、大丈夫よ。私もリマもついているから、簡単におとうさまの思い通りにはさせないわ。さあ、元気を出して?」
イヴは従姉になだめられて気が落ちついて、涙を拭いて顔をあげた。
「ありがとう、ヴィー。私簡単に、諦めないわ」
たとえ取り繕っているだけだとしても、はっきりそう言う従妹を見て、ヴィーは優しく微笑んだ。
イヴはふと思った。自分が、リュウと結ばれる事が出来たら、リマは志ゆきと結婚出来るかもしれない……そうなればいいのに。
それと同時に、この自分とそっくりなのに性格がまるで違う従姉は、他に誰か好きな人がいるのだろうか……それがとても、気になった。
三人に姉妹同然の従姉妹の話を聞きながら、マーニは軽くあくびをした。ケット・シーの王である彼は、人間の女の子の気の変わりやすさも知っていたし、それでも恋に真剣になる気持ちも知っていた。あまり表で取り沙汰にすることでもないが、これも一つの女の子達の普遍の光景だと思うのだった。
このとき、甲きのえは意外にも”紺の旗の街”マリーネブラウフラグの借家に帰宅していた。基本的に、甲きのえは、イヴから離れることはない。勤務時間だろうとそうでなかろうと、甲きのえは見えない位置からイヴを見守り、あらゆる危険を姫の周りから排除する生活をしている。それが当然だと思っている節がある。
その甲きのえが、今日に限ってなぜ、定時で帰ったのかと言うと、問題はイヴにある。
答えは非常に簡単で、甲きのえはイヴからケーキをたくさんバスケットごともらったので、弟の志ゆきにも食べさせたくなったのだ。それで、彼にしては珍しく、定時きっかりに城から帰ってしまったのだ。
志ゆきは志ゆきで、冒険者ギルドから仕事の依頼をもらってそれを片付ける暮らしをしており、今はとにかく冒険者のランクをあげることに必死であった。
何しろ、仲間のリュウがSSSランク冒険者として、城に自由に行き来できる権利を得ているので、それが良い刺激になっており、正月そうそうギルドに通い詰めて多少背伸びした依頼を片っ端から引き受けて、まずまずよい成績を残している。
そんなわけで、イヴが大声で「嫌です!!」などと叫んだら相手が皇帝だろうと魔王だろうと真っ先に飛び込んでくるはずの護衛の忍びが、この場面にいないのである。
彼はないとなう! の中でも不世出の忍びであり、同時にイヴ姫命の描写が多かったのだが、どうやら、結構なブラコンでもあったようである……。
いずれにしろ、甲きのえがいればそんなことにはならなかったのだろうが、イヴは甲きのえがいないことにも気づかずに、大声でさらに叫んだ。
「おとうさまの言いつけと言われても、聞けないことがあります。私、アスランと結婚はできません!」
「なぜだ!?」
皇帝であるアハメド二世は大いに驚いてイヴに負けずに声をあげた。全く、人払いをしていて正解の状況であった。もっとも、人払いをしていたとしても彼らの身分が身分なのだから、聞いている人間は聞いていただろうが。
「なぜ、アスランがだめなんだ。イヴ。さっきは彼をとても褒めていただろう、アスランがだめな理由を言いなさい!」
「そ、それは……」
そう返されるとイヴも弱い。
養父で男親のアハメド二世に、いきなりリュウのことを言うのは憚られた。何しろリュウは、アスランと違って他国の庶民出身である。実力は申し分がないといたって、バハムート帝国の貴族じゃないことは本当なんだから。
ここで勝手なことは言えなかった。
「言いなさい。イヴ。相手はジグマリンゲン侯の次男のアスランだぞ。あの英雄の! お前のよき友よき仲間でもあるアスランだ。何が問題があるんだ。言いなさい」
アハメド二世が一言言うごとに、だんだんとイヴはうなだれてくる。リュウのどこに問題があるといったら、イヴにとっては全然ない。だが、今そこで、アハメド二世がいったことそのものが、問題であった。
要するに、リュウがジグマリンゲン侯爵の血を引いていれば何も問題がなかったのだ。それを知らずに、アハメド二世が言っちゃったものだから、イヴはクリティカルダメージを食らってしまい、とっさに言い返すことができなかったのだった。
「顔も悪くないし実力は申し分ないし、性格も明るくて華やかで男らしい、イヴだってそう思うだろう。それにな、彼は妬まれて暗殺の憂き目にあいそうなんだ。それを、皇帝家の力で守ってやることができるのはお前なんだぞ」
「たしかに、アスランが暗殺未遂というのは事件です。おとうさま。だけど、それでなんで私が、アスランと……」
それを言うなら、ヴィーだってリマだっていいではないか。そうは思うが、迂闊に口に出せない。
イヴ同様、皆、年頃の娘たちであり、意中の男性がいてもおかしくないのだ。ヴィーも、リマも。実は、ひそかにそういう情報交換をしたことだってある。そのことを考えると、女の恩義に背く事もできないので、他のいとこの方に水を向ける事も出来ない。
だがアスランは大事な仲間なので安否が心配で、ついそんなことを言ってしまう。アスランはアスランで、本当に気にしているし心配しているのだ。だが、結婚相手として考えたことがあるかというと、それは違う。
「だから、なぜ、アスランがだめなのか言いなさい」
その問題を握りつぶしてやる。そういうつもりで、アハメド二世はイヴに迫った。
恐い顔でイヴに近づいてきたので、マーニが威嚇の声を立てて背中の毛を逆立てた。
するとわずかに怯むが、アハメド二世は簡単に立ち去ろうとはしなかった。
マーニは甲きのえがいないことに感づいており、イヴを守るために彼女の膝の上から立ち上がってアハメド二世の方を向いている。
「アスランが嫌いなわけじゃないんだろう」
「もちろん、彼のことは嫌いじゃありません、けど」
「嫌いじゃないんだし、これだけ条件がそろっているんだからアスランでいいだろう。皇帝家としてもな、イヴ、わかっているんだろう??」
「嫌いじゃないから結婚できるわけじゃありません!」
それにそもそも、結婚は条件ですることではないのだが、政略結婚が当然の皇女の身分となるとそうとも言い切れないのだ。
「嫌いじゃないならいいだろう! 仲間結婚、友達結婚、大いにけっこうじゃないか!」
「だから違うんですってば!」
「何が違うんだ、イヴ。理由があるのならちゃんと言いなさい!!」
そこは養い親の威厳、皇帝の威厳で、アハメド二世はそういいきった。
マーニがなにか一声あげたが、今度はイヴが怯んだ。
イヴはさすがに、ここはごまかしきれないと思った。嫌だから嫌では通じない相手らしい。
「わ、私……」
イヴは、ひるみながらも皇帝から目をそらずに’言った。言ってしまった。
「他に好きな人がいるんです、おとうさま」
「ッ!」
思いもよらない言葉にアハメド二世は息を飲んだ。
たしかに、イヴは美女であるし、性格も悪くなく、趣味も品もよい。フルフィの差別問題さえなければ、とっくに良縁に恵まれていた事ぐらいわかっている。だが、いくらなんでもこの場面でこれはないだろう。
「それは、誰だ。イヴ’」
その相手が気になる。事と次第によっては、いささか乱暴だが、皇帝の強権を発動をする必要があるかもしれない。それこそ、内大臣の息子から近衛府の親衛隊の若者の顔ぶれまで走馬灯のように思い出しながら、アハメド二世はイヴに向かった。
「----言えません」
だが、イヴはそう答えるしかなかった。
「親に言えない相手なのか!」
瞬間的にアハメド二世は激昂した。
普段は常に機嫌の良いアハメド二世だったが、このときばかりは違った。
彼の三人の娘の中でいちばん’素直でおとなしいイヴ。その彼女が親に話せない相手とと思っただけでもうたまらなかった。
「冗談じゃない、イヴ。お前が、親に言えないような相手だと!? それこそ結婚させるわけにはいかない。誰なんだ、言いなさい!」
「…………」
だがイヴは唇をかみしめて目を伏せて、何も言わなかった。
とてもじゃないが、言えるような状況ではない。
マーニが心配そうに彼女の方を振り返るが、それでも一言も発せなかった。
「イヴ、まさか、親に言えないような相手と、なにかあったわけじゃないだろうな!?」
男親にしてみれば、当然の質問であった。それだけ重大な問題だし、イヴが黙っていて答えないので、よほど言えないようなことがあったのかもしれないと思ったのだ。
瞬間的にイヴは真っ赤になった。彼女だって、二十歳の大人なのだから、アハメドが何を想像したのかぐらいわかっている。それが本当に重大な問題であることもわかっている。
だが、全く見に覚えがないこともあったし、何よりそんなことを想像されたということだけでも腹がたった。
「おとうさまなんて、大っきらい!!」
イヴはそう叫ぶが早いか、アハメド二世の前に立ち上がり、呪文を唱え始めた。
恐ろしい早口だったが、それはさながら鳥の歌声のようにも聞こえた。イヴが司るのは聖なる獣。異界に住まう高位の生き物たちである。
イヴは、その鳥の歌声のような言葉で、聖獣を呼び出そうとしたのだ。
「ま、待て、イヴ、それは……!!」
娘の能力の事は知っている。何しろ彼女は、その聖獣を召喚して自由自在に操る能力で、魔王との決戦に生き残ったほどなのである。同じ戦いの中で、リュウと志ゆきが戦闘不能になっていたのに、彼女は聖獣に騎乗したまま最後までピンピンとしていたのだ。
「イヴ、よしなさいッ!!」
アハメド二世が慌てふためいて制止しようとするが、それを聞いている場合ではない。イヴは、その場に、小型のゴーレムを呼び出した。土の精霊ゴーレム……アハメド二世よりも二回りほど大きいだろうか。巨大な人型の岩の塊が、イヴとアハメド二世の間に立ちはだかる。
「ゴーレム! おとうさまを部屋から追い出して!!」
「イヴ!!」
皇帝で、養父であるアハメド二世を部屋から追い出すのにゴーレムを使う。なんということだろう。アハメド二世はそれを教え諭そうとするが、イヴは真っ赤になって叫んだ。
「もうたくさんです、おとうさま。私は潔白です。娘の貞操も信じられないような人だなんて、知らなかった。今夜のところは出て行ってください!!」
「イヴ、お前が潔白だと、どうやってわかるというんだ!!」
一瞬の沈黙が落ちた。
「どうやって調べる気なんですかおとうさま!? もう、本当に大っ嫌い、出て行って! ゴーレム、おとうさまにお帰りいただいて!!」
イヴが一体何を想像したのかわからない。
アハメド二世も色々な事を想像し、それがどれだけ養女に失礼であるかも考えて、その場で黙りこくって棒立ちになってしまった。
顔のないのっぺらぼうのゴーレムは無言で、その巨大な手で、アハメド二世を部屋からつまみ出そうとした。本当に、その岩石で出来た手でアハメド二世の肩をつかんで、つまんで、部屋の出口の方に持って行く。
「ま、待て、待たんかコラ、それが、一国の皇帝に対する仕打ちか!」
アハメド二世は慌てて岩の手を振りほどこうとするが、ゴーレムの怪力の前にはなすすべもない。
「イヴ! 冷静に考えなさい。どこの馬の骨だか知らんが、お前はだまされているんだ。余の言うことをよく聞いて、アスランと結婚しなさい、アスランにしなさい!!」
「嫌です!!」
この状況でも必死に娘にアスランをすすめるアハメド二世。
娘がこれだけ怒っているのだから、当然、男親は色々な事を想像し、アスランで決着をつけようとしたのだ。
ケット・シーのマーニはあきれてこの養父と養女を眺めるばかり。イヴの怒りもわかるが、アハメド二世の言い分もわかり、どっちつかずになっている。
「アスランにしなさい、イヴ、冷静に父親の言うことを聞くんだ。余はお前の事を思って……!」
だがその思いやりは当たり前だが、イヴの火に油を注ぐ結果にしかならない。イヴは真っ赤になって、涙目になりつつ叫んだ。
「おとうさまとは、もう口をききたくありません! ゴーレム、おとうさまを!!」
ゴーレムは一回だけ、イヴの方を振り返り、本当に、皇帝であるアハメド二世を部屋の出口から追い出して、ドアをぱったりと閉めてしまった。
「イヴ!!」
こんな仕打ちを受ければ、アハメド二世だって皇帝だ。それより以前に彼女の父親のつもりだ。到底許せる訳がない。
「イヴ! 考え直しなさい!」
「……」
しかし、帰ってきたのは冷たい沈黙だけである。
アハメド二世は、日頃の人の良さをすべてかなぐり捨てて叫んだ。
「なんだその態度は。お前なんか、尼にするぞ! 意中の男が、どこの馬の骨だか白状しないなら、尼にしてしまうからな!!」
「おとうさまなんか嫌いよ!」
返事はその一回きりであった……。
アハメド二世は引き下がるしかなかった。彼は、再三、お前なんか尼にしてやるということと、修道院の尼僧生活の悲惨さを告げて、廊下の奥に消えていった。おそらく、サフィヤ皇后のところに相談に行くのだろう……。
アハメド二世は、まさか、イヴの意中の彼が、ちまたで人気絶頂の、アスランと大人気の頂上決戦しないばかりの英雄、リュウだとは知らなかったのである。
その話は電光石火の勢いで、帝城を揺るがした。
何しろ、おとなしくて優しいという評判のイヴが、養父である皇帝をゴーレムで部屋からつまみ出したのである。
これが、日頃から元気がいいことで有名な従妹のリマならそれほど意外ではなかったかもしれないが、イヴだから大問題だった。ましてお互いの大声の内容から、イヴにどうやら好きな男がいるらしいということまで漏れ聞こえ、帝城に務める宮廷スズメの侍女や使用人たちはヒートアップ、あっという間に帝城中に無責任な噂も含めて、話が広まってしまったのである。
イヴはもちろん、長年、帝城で生活しているわけだから、我に返ればそのことがわかった。別に噂を確認しなくても、そうなるであろうことぐらい気がついてしまう。
それもあって、イヴは、マーニのソファに泣き伏した。自分が冷静さに欠けて、大声でとんでもないことを叫び、ゴーレムで父親を部屋から追い出した事が悪かった事はわかっていた。だが、同時に、いきなり夜中にやってきて、アスランと結婚しろというアハメド二世の気持ちもわからず、ショックと混乱と、噂になっているだろう恥ずかしさで、泣くしかなかったのである。
これまた、ここに甲きのえがいたのなら、すかさず現れて、泣き伏すイヴを優しくなだめ、お菓子のお礼の一つや二つしてくれたのだろうが、あいにく、甲きのえはここにはいない。志ゆきと仲良くケーキ食べているだけである。
マーニだけがしきりに彼女の白い柔らかな手をペロペロ舐めたり、片言の人語で話しかけたりしてしきりに泣き止ませようとするが、イヴはその優しさが辛くて、余計に泣いてしまうようだった。
そうしていると、先触れがあったのかなかったのか、ヴィーとリマが、連れだってイヴの部屋に駆け込んできた。
本当に、走ってきたのかというような素早い勢いで、二人はイヴの前に現れた。
「イヴ、大丈夫!?」
泣きじゃくっていたイヴは、突如現れた従姉妹達に驚き、ソファに突っ伏すのをやめて身を起こした。
「ヴィー。それに、リマも……来てくれたの? こんな夜更けに、悪いわ。二人とも明日仕事があるでしょう、私の事は気にしなくてもいいのよ」
イヴは気まずさと、本心からそう言った。実際問題、イヴと違って健康体のヴィーは、皇族の仕事が忙しい身分である。リマだって帝国学院の学生だ。勉強をおそろかにしていい立場でもない。
「そんなことはいいの!」
ヴィーは断固として言い切った。
「イヴねえさま、話を聞いたわよ。おとうさまが、何か強引な事を言ったって……。どういうこと!?」
続いてリマがイヴにそれを尋ねた。
それを聞いた途端、イヴはまた嗚咽をあげてしまった。
「おとうさまが……尼にするって……私のこと」
一国の皇帝が、皇女に向かって尼にしてやると怒鳴ったのである。その事実がじわじわと聞いてきて、イヴはそれもまた心配なのであった。無論、脅しだけなのだろうが、冗談でも言っていいことではない。(だが、イヴのような立場の皇女が、アハメド二世の想像した通りの馬の骨と不始末があったら、それは、尼にするしかないだろう)
「だから、どうしてよ。イヴ、まさか、リュウの事を話しちゃったの!?」
ヴィーは真っ先にそれを確認した。
するとイヴはすすり泣きながら首を左右に振った。仲のよい従姉妹達とは、恋愛トークをすることも多く、お互いに好きな異性のタイプや本人の話を情報交換していたのである。
ヴィーやリマは、イヴがリュウに熱を上げるのは無理もないと思っていたし、アスランは従姉妹どうしで応援している空気を感じ取っていて、それで茶話会でもリュウとイヴをくっつけようとからかっていたのだ。
「おとうさまはあれで皇帝よ。今、リュウの事を話してしまったら、尼僧にされても仕方ないわよ。黙っていればよかったのに」
「リュウの事は言わなかったわ、おとうさまが、私に結婚しろって……そう仰ったのを断っただけよ」
イヴはしくしく泣きながら、途絶え途絶えにそう言った。
「結婚って、誰と」
既に噂になっているが、噂は噂だ。リマがはやる気持ちを抑えながら従姉に聞いてみた。イヴは、すすり上げつつ、なんとか顔をあげて、女同士という気持ちで話した。
「アスランとよ。おとうさまが……いきなり、夜中にやってきて、そう仰ったの」
「アスラン!? 本当にアスランなの!?」
ヴィーとリマはお互いに顔を見合わせた。
アスランが、魔王を倒した救国の英雄で、名家ジグマリンゲン侯爵家の次男であることはいちいち説明することでもない。
イヴがアスランのことをよい友達だと思っている事も知っている。アスランとは魔王決戦で背中を預け合って戦った仲間だ。彼の事を悪く思っている訳がない。
だが、イヴが好きなのはリュウなのだ。そのことは本人からも聞いているし、イヴは抑えているつもりだろうが、かなりあからさまにだだ漏れている。
少なくとも、従姉妹達はそう思っていた。
「アスランと、結婚か……」
ヴィーは、眉間にものすごい縦皺を作って考え込んだ。
それは、イヴの気持ちを考えないなら、悪い話ではなかった。帝国の北方、ノイゼンの港を抑えて栄えるジグマリンゲンは、諸侯の中でも武門の誉れが高く、軍事力はバカに出来ない--ということは、経済力もかなりのもので、発言力はビンデバルド公爵家に次いで高い。現在のアスランの父であるジグマリンゲン宗家は、魔大戦において、北方を荒らし回った魔族を片っ端から斬り倒す事に忙しく、帝都決戦に次男を参加させることしか出来なかった……ということになっているが、何のことはない。魔王の島に突撃した艦のほとんどは、ジグマリンゲン家の経済力の証である。
舟と、操舵手のほとんどが、ジグマリンゲン侯が、「うちの次男がお世話になりまして」と回したものであった。
それと、帝国海軍の連携で勝った戦であり、ジグマリンゲン家が北方を抑えているだけではなく、実は、帝都の権力闘争に並ならぬ関心があるのではないかと、ヴィーは前からにらんでいるのである。ヴィーだけではなく、艦隊の底力を見た貴族と大商人達は同じ事を考えているのだろうが。
「アスランはどう思っているのよ。今日は女の子連れてきたよね!? イヴねえさまだって、リュウの事が大好きなのに。おとうさまの言う事を聞かないなら尼になれだなんて、ひどすぎるわ!!」
一方、まだ十七歳のリマは思った事をそのまま言っているようだった。
リマはもちろん、エリーゼの事を嫌いな訳ではない。だが、アスランが、イヴに気があるのなら、今日のようにエリーゼを茶話会に連れてきて、リュウとイヴの事を煽るということはないと思う。もしかして本当に、アスランがイヴの事を好きなのだとしたら、エリーゼを連れてきてイヴの嫉妬を煽りつつ、リュウにイヴを意識させるために一役買っている訳で、かなりの心理戦を平然とこなしたことになる。
「アスランは、リュウにイヴの事を好きになってもらおうとしているように見えるけど、本心はどうなのかしら」
ヴィーもそのことが気になって口に出した。
「アスランが、私の事を……?」
従姉妹達に全く意外なことを言われて、イヴは小首をかしげてしまった。
「そんなことはないと思う……。だって、リマの言うとおりよ。私の事を、その……そういうふうに思っているなら、今日、茶話会に飛び入り参加で、エリーゼを連れてくると思う?」
「イヴ、恋愛って心理的な駆け引きなのよ。そうやって、イヴの反応をうかがったのかもしれないわ」
ヴィーがそう諭すと、イヴは静かに首を左右に振った。
「アスランは、私以外の事を好きだと思う。そうだといいわ。だって、私、……アスランの事を、恋愛対象として見ていないんですもの」
「まあ、そりゃそうでしょうね」
リマは肩をすくめてそう言った。
「アスランは、優しい人だから、おとうさまに何か言われたら、私に気を遣ってしまうかも。もしそうなったらどうしよう。ヴィー、リマ、アスランの事を煽ったりしないでね?」
また、静かに泣きながらイヴは従姉妹たちにそう頼んだ。
そんなことを言われてしまうと、ヴィーとリマも、イヴの事が可哀相でならなくなった。同時に、アスランの事も気になり始める。
「おとうさまはなんでいきなりアスランなんて言い出したのかなあ!」
リマは憤懣やるかたなくてそう言った。
イヴは真剣にリュウが好きなのだろう。そうとしか思えない。アスランの事だって、全然好きじゃないということは、ないのだろうが、恋している相手とは違うので、こんなに傷ついて泣いているのだ。
「同じ救国の英雄なんだから、リュウのことだって気がついてくれたっていいじゃないの!」
リマはそこまで言ってしまう。
だが、青龍人ドラコのリュウは、バハムートの帝国貴族ではない。たったそれだけの理由で、アスランのライバルとさえ皇帝の目からは見えないのであった。
「本当にそうよね……私も、そこはシステムの矛盾を感じるわ」
ヴィーは、両腕を組んで頷きながらそう言った。
「これじゃ、イヴも可哀相だけど、アスランだって可哀相よ。ただ、ジグマリンゲン家に生まれた英雄だっていうだけで、おとうさまに目をつけられたんだから。おとうさまは、皇帝よ。アスランの事をそんなに気に入ったのなら、次はどんなやり方をするかわからないわ」
ヴィーは、リマに比べればまだしも冷静だったが、アハメド二世がこのまま黙っているわけがないことについては、かすかな苛立ちを感じていた。
ヴィーは、自分が心底惚れ合った異性としか結婚したくないと思っていた。それで、自然と、イヴの肩を持つのである。自分が本当に好きな異性と結ばれたいと思う以上、それは悲惨な死に方をしたティシャ姫の一人娘、イヴだってそうであるべきだと思うのだ。
ティシャ姫は夫の浮気に悩み抜いて死んだ地獣人フルフィの姫だ。……本気で一生添い遂げる気持ちって、大事だと思う。
「本当に好きな人と結婚したいと思う、それだけなのに」
イヴは次第に泣き止みながらもそう言った。
「私もそうよ、イヴねえさま。身分なんて関係ない、本当に、大好きな人とだけ結婚したいのよね?」
リマは、イヴの隣のソファに座ってそう言った。途端にイヴは激しく泣き出した。リマの言った通りだったからだ。
「リマ、あなたは、志ゆきが好きなだけでしょう」
「ヴィーねえさま!?」
「私はそれが悪いと言っているんじゃないのよ。だけど、イヴの好きなリュウと同様、冒険者って言う以外の身分を持っていないから、とっても難しい問題よ。リマ、あなたは特に皇太子なんだから、そうやすやすと、その話を他にしちゃだめよ。黙っていたイヴがこうなっちゃったんだから」
ヴィーは長女格らしく、優しい口ぶりでそう言った。
「そ、そりゃ……私、志ゆきが好き……だけど。前にそう言ったけど……」
そうなのだ。
ないとなう! の漫画版の中では、一緒にいるコマが多いというだけの描写であるが、リマは、魔王決戦でコンビを組んだ志ゆきの事が好きになってしまったのである。SSSランク冒険者のリュウと、イヴがくっつくことでさえ無理がある帝国貴族社会。城に上がる事も出来ないSSランク冒険者の志ゆきと、女とはいえ、生まれた時から皇太子のリマでは、釣り合いが取れないのだ。大戦中はまだしも、今はなかなか逢うことも出来ない。
「志ゆきは地獣人フルフィとか関係なく、とってもいい人間なのに……イヴねえさまにとっては、リュウがそうなんでしょう!? なんでダメなのかな」
皇太子の身分でそんなことを言い放つリマであった。
「今はそれを議論したって仕方ないわ。それより、おとうさまがどう出るかを見極めて、イヴが尼僧になるなんてことにならないように、身の振る舞い方に気をつけなきゃ」
ヴィーがそう言って、イヴの隣のソファに座り、何度もその背中をなでた。
「イヴ、大丈夫よ。私もリマもついているから、簡単におとうさまの思い通りにはさせないわ。さあ、元気を出して?」
イヴは従姉になだめられて気が落ちついて、涙を拭いて顔をあげた。
「ありがとう、ヴィー。私簡単に、諦めないわ」
たとえ取り繕っているだけだとしても、はっきりそう言う従妹を見て、ヴィーは優しく微笑んだ。
イヴはふと思った。自分が、リュウと結ばれる事が出来たら、リマは志ゆきと結婚出来るかもしれない……そうなればいいのに。
それと同時に、この自分とそっくりなのに性格がまるで違う従姉は、他に誰か好きな人がいるのだろうか……それがとても、気になった。
三人に姉妹同然の従姉妹の話を聞きながら、マーニは軽くあくびをした。ケット・シーの王である彼は、人間の女の子の気の変わりやすさも知っていたし、それでも恋に真剣になる気持ちも知っていた。あまり表で取り沙汰にすることでもないが、これも一つの女の子達の普遍の光景だと思うのだった。
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