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第3話 琢朗
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しおりを挟む「生む」と琢朗に宣言したものの、夕希の前には「現実」という大きな壁が立ちはだかった。自分の感情と熱意だけでは、どうにもならないと、夕希自身も気づき始めたらしい。
「引っ越しってお金、掛かるんだね…」
「そりゃそうだろ」
「…新しいアルバイトも、当たり前だけど、見つからなくって」
「妊婦はなかなか雇えないよね」
毎晩、教室の隅で交わされるのは、司法試験からは程遠い話題ばかりだ。
「上條くん、私のことばかだと思ってるでしょ」
疲れているのか、夜眠れないのか、隈の目立つ目で、糸井夕希は琢朗を見上げる。アテもないのに、峰淳弥に引っ越すなんて宣言するから。けれど、淳弥の思い出が残る場所にちいたくなかったのだろう。痛々しいったらない。
「そんな糸井さんを見捨てられない俺はもっとばかだから」
一瞬、驚いて見開かれた目は、また気まずそうに半ば伏せられた。
「……」
琢朗の言葉に、答えを探しあぐねた唇は、金魚みたいにパクパク開くだけで声は、出て来ない。
「…私、バイト行くね」
そして、逃げるように立ち上がった夕希の腕を、琢朗は掴んだ。
「糸井さん! ――うちに、来ない?」
この間から考えていた提案を、琢朗は漸く夕希の耳に届かせる。
「え…?」
だが、当然だが、夕希は戸惑って、立ち止まるだけだった。
「この間、見たろ? 親父は入院してるし、お袋はもういない。芙美さんは、別のとこに、ちゃんと部屋がある。今は、通いの家政婦さんがいるだけなんだ。糸井さんが好きに暮らせるくらいのスペースくらいは、あるよ。引っ越し代が貯まって、新しい家が決まるまで、うちにいたらいい」
「…そんな…」
ことは出来ない。夕希の唇は早くも、拒絶を述べようとしている。彼女の口が「NO」と言う前に畳み掛けた。
「同棲、じゃなくてさ。ルームシェア? 糸井さんの部屋には、俺は絶対入らない。キッチンや風呂トイレは共用。家賃は…食費くらい入れてくれればいいよ」
「だ、だって、上條くんのお父様名義の家でしょ? 勝手なことできないよ」
「じゃあ、親父に聞いてみる」
ダメとは言わないはずだ。というか言う権利もないと恥じ入るだけだろう。まだ妻が存命だった頃から、余り家には帰らず、よその女の家に入り浸っていた男なのだから。
琢朗の強引さに、夕希は更に困惑した顔になる。
「上條くんはどうして私に…優しくしてくれるの…?」
「…理由言っていいの? それ」
未だに言えずにいる夕希への気持。そして、夕希を芙美みたいな女にはしたくないという願い。
言ったところで、今の夕希に受け入れる隙間などありはしないくせに。
意地悪く笑って言うと、夕希は律儀に首を左右にブンブン振って、「ダメ、いい」と拒む。琢朗の好意に気づいていながら、何の良心の咎めもなく、すぐに上手い話に乗ってこないところが夕希らしいが。
(…ホント、わかりやすくて、残酷な女)
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