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第1話 夕希
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しおりを挟む「…何か御用ですか?」
夕希より高い上背のその人は、首をかしげながらこちらに来る。
(…ど、どうしよ)
「上條くんのばか」
「何言ってんだよ。呼び出す手間が省けたじゃん」
「…お、奥さんには別に」
彼女が近づく間に、琢朗とこそこそとやりとりする。
そう、妻には会いたくなかった。
高い上背。ピンと背筋を伸ばして、その人は真っ直ぐに夕希の方に来る。堂々とした態度は、妻としての自信に満ちてる。引き換え、こんなところからこそこそと中の様子を覗いてた自分が、夕希はたまらなく惨めになった。
「うちに何か用ですか?」
夕希と琢朗の正面に立って、同じことをもう一度麻衣香は聞いてくる。
この人は知ってるのだろうか。夫の裏切りを。
知っていたとしても、動じなそうだ。この人にとっても、自分が知らない間の夫の情事なんて、蝿がたかって、夫の血液を吸っていった、くらいの出来事かもしれない。
それくらい、揺るがないものを感じ取って、夕希は知らないうちに気圧されていた。足が自然に半歩下がる。
「いえ、あの…」
言って、しまおうか? でも、なんて?
私は貴方の旦那さんの愛人です?
ちょっと違う。すごく嫌だ。
淳弥に言うべき言葉ばかりを考えて、万が一にも妻と対峙した時の用意は、夕希は何もしていなかった。
その時。
「ママー、お客さま?」
と、舌っ足らずな言い方で、幼い子どもと、そしてその後ろから、淳弥がやってきた。夕希を見つけた瞬間、妻の背後で、淳弥はこれまで夕希が見たこともないくらい、困った顔になった。
眦を下げ、口元がだらしなく歪む。
パーツは同じなのに、普段の営業スマイルとは似ても似つかない情けない表情だった。
「いとちゃん」
まだ関係を持つ前の呼び方で呼ばれ、夕希はずきんとなった。
「あら、知り合い?」
意外そうに、麻衣香は淳弥を振り向く。妻の疑問に対しての、淳弥の答えは、妻だけを気遣ったものだった。
「会社の事務の子なんだ」
さらっと嘘をつかれ、またじくじく胸が傷む。淳弥にとって、ここでの夕希との対面なんて、あってはならないことだし、迷惑以外のなにものでもないのだろう。
「あ、じゃあ上がってもらわないと」
「いや、いいよ。僕が忘れた書類を届けにきてくれたんだろう。君は結衣と家に戻ってて?」
夕希が驚くくらい、淳弥は冷静にその場を取り繕い、手を繋いでいた結衣を抱き上げ、麻衣香の腕に託す。
「遠いところまでごめんなさいね」
娘を抱き上げて、夕希に微笑む彼女には罪はない。まだ何もわからない小さな子どもの前で、オトナのみっともないバトルを見せることも出来ない。
「ヘタレ」
琢朗の唇が無音で夕希を罵倒する。…わかってる。
でも。まだ淳弥の口から真実は聞いてない。証拠は全部揃えて、資料は出来る限り集めて。舌鋒を鋭く相手を攻撃するのは、それからでいい。
麻衣香が家の中に入るのを慎重に見届けてから、淳弥は言った。
「こんな処まで…ルール違反だよ、夕希ちゃん」
「だったら…淳さんだって、ずるいです。私に本当のこと、教えてくれなかった…。奥さんも子どももいたなんて」
夕希が責めると、淳弥は自宅の方を振り返る。
「聞かなかったじゃん」
「あんた…」
淳弥の逃げ口上に琢朗の方がかっとなる。ボコっちゃう? さっきの物騒な台詞を思い出して、夕希の方が焦って、必死に琢朗を止めた。
「上條くん!」
琢朗の腕にしがみつきながら、夕希は言った。
「少し…ふたりで話したいです」
夕希の切実な要求を、淳弥も琢朗も否とは言わなかった。
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