404 / 416
夏の終わりのフルート
オンブラ・マイ・フ
しおりを挟む「時間? 全然急いでないから大丈夫やけど? どないしたん?」
「ちょっとこれ見てくれる?」
と千恵子はディバックから楽譜を取り出した。
僕はその楽譜を受け取って目を通した。
「ヘンデルのラルゴかぁ……」
それはヘンデルが作曲したオペラ『セルセ』の第一楽章の冒頭に歌われる*アリアだった。
「うん。知っとぉ?」
と千恵子は聞いてきた。
「ああ、『オンブラ・マイ・フ』やろ? もしかしてこれさっき吹いてなかった?」
「うん。吹いてた。聞こえとった?」
さっき教室の窓から悲し気に流れてきたあのフルートの音色は、このイタリアの古典歌曲だった。
「うん。聞こえとった。ええ曲やんなぁ……これ。俺たち三人で聞き惚れとったわ」
と僕は笑いながら言った。
「それはどうもありがとう……私この曲大好きなん……」
と千恵子も笑いながら応えた。
「さっきエエ音出しとったもんなぁ……わっかるわぁ……」
僕はそう応えながら楽譜を目で追った。
フルートとピアノ伴奏の二重奏にアレンジされた楽譜だった。
「もしかしてこのフルートの伴奏をしろ……と」
「うん。だめ?」
千恵子は頷いて上目遣いに僕を見た。僕はこういう視線に弱いかも。一瞬、彩音さんに伴奏を頼まれた時の事を思い出した。
「うんにゃ。全然OKやで。この曲弾いたことあるし……」
と、迷うことなく即断していた。
この曲は哲也に頼まれてチェロの合奏で何度も弾いたことがあった。
「え? そうなん。ありがとう。前から藤崎君と一緒にこの曲演奏ってみたかってん」
と千恵子は嬉しそうに笑った。
「ホンマかいな」
「うん。ホンマ」
――そういえば千恵蔵と二人で演奏った事なかったな――
「そっかぁ……」
『一緒に演奏したかった』と言われるのは、楽器を演奏する者としてそれはとても嬉しいひとことだ。
勿論断る理由など全くない。
僕はもう一度譜面に視線を落とした。
ピアノ伴奏自体は何ら問題はなかったが、千恵蔵のゆったりと流れるフルートの音色にちゃんと寄り添えるように弾けるかが問題だ。
ある意味慣れたヴァイオリンや弦楽器と違ってフルートの伴奏はちょっと緊張もするし楽しみでもあった。
取り合えず楽譜を一読し終えてから譜面台に楽譜を置いた。まだ頭にこの曲は残っているし、どういう風に弾こうかある程度の目星みたいなものはつけることができた。
僕は軽く深呼吸をしてから鍵盤に指を落とした。千恵子に目をやると『いつでもOK』と頷いた。
さっき校庭から聞こえた千恵子のフルートの音色を思い出しながら僕は指を沈めた。
この曲はピアノの伴奏から始まる。
音楽室に僕のピアノの音色が流れる。
午後のゆったりとした時の流れに身を任せるかのように、僕は少し厚みと余韻が残るように弾き始めた。
千恵子のフルートの音を導くように僕は、そっと鍵盤に指を沈めてフルートの音を待った。
木陰に吹く風のように優しいピアニシモの音色で始まった千恵子のフルート。その音色はロングトーンで始まった。その曲名と同じくゆったりとした息の長いロングトーン。千恵子のフルートの音色は零れ出た吐息のように静かなピアニシモで始まった。
――なんて綺麗な音の波なんだ――
千恵子のフルートの音色はすぅっと水色の地平線のように広がっていく。音楽室がとても広く感じるような響きだ。
この曲はプラタナスの木陰への想いを歌ったものだが、千恵蔵のフルートの音色は詩の通りに僕を心地よく誘ってくれる。
広く茂ったプラタナスのからの木漏れ日。優しく頬を撫でる春の仄かな風。
そんな風景が目に浮かぶ。
さっき教室の窓から入って来た音色とはまた違った趣があった。
今僕はこの音色を独り占めにしている。それが勿体なくて仕方なかった。
0
お気に入りに追加
54
あなたにおすすめの小説

冤罪をかけられた上に婚約破棄されたので、こんな国出て行ってやります
真理亜
恋愛
「そうですか。では出て行きます」
婚約者である王太子のイーサンから謝罪を要求され、従わないなら国外追放だと脅された公爵令嬢のアイリスは、平然とこう言い放った。
そもそもが冤罪を着せられた上、婚約破棄までされた相手に敬意を表す必要など無いし、そんな王太子が治める国に未練などなかったからだ。
脅しが空振りに終わったイーサンは狼狽えるが、最早後の祭りだった。なんと娘可愛さに公爵自身もまた爵位を返上して国を出ると言い出したのだ。
王国のTOPに位置する公爵家が無くなるなどあってはならないことだ。イーサンは慌てて引き止めるがもう遅かった。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
夫から「用済み」と言われ追い出されましたけれども
神々廻
恋愛
2人でいつも通り朝食をとっていたら、「お前はもう用済みだ。門の前に最低限の荷物をまとめさせた。朝食をとったら出ていけ」
と言われてしまいました。夫とは恋愛結婚だと思っていたのですが違ったようです。
大人しく出ていきますが、後悔しないで下さいね。
文字数が少ないのでサクッと読めます。お気に入り登録、コメントください!
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

【完結】私、殺されちゃったの? 婚約者に懸想した王女に殺された侯爵令嬢は巻き戻った世界で殺されないように策を練る
金峯蓮華
恋愛
侯爵令嬢のベルティーユは婚約者に懸想した王女に嫌がらせをされたあげく殺された。
ちょっと待ってよ。なんで私が殺されなきゃならないの?
お父様、ジェフリー様、私は死にたくないから婚約を解消してって言ったよね。
ジェフリー様、必ず守るから少し待ってほしいって言ったよね。
少し待っている間に殺されちゃったじゃないの。
どうしてくれるのよ。
ちょっと神様! やり直させなさいよ! 何で私が殺されなきゃならないのよ!
腹立つわ〜。
舞台は独自の世界です。
ご都合主義です。
緩いお話なので気楽にお読みいただけると嬉しいです。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
子持ちの私は、夫に駆け落ちされました
月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。

〖完結〗愛人が離婚しろと乗り込んで来たのですが、私達はもう離婚していますよ?
藍川みいな
恋愛
「ライナス様と離婚して、とっととこの邸から出て行ってよっ!」
愛人が乗り込んで来たのは、これで何人目でしょう?
私はもう離婚していますし、この邸はお父様のものですから、決してライナス様のものにはなりません。
離婚の理由は、ライナス様が私を一度も抱くことがなかったからなのですが、不能だと思っていたライナス様は愛人を何人も作っていました。
そして親友だと思っていたマリーまで、ライナス様の愛人でした。
愛人を何人も作っていたくせに、やり直したいとか……頭がおかしいのですか?
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
全8話で完結になります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる