北野坂パレット

うにおいくら

文字の大きさ
上 下
370 / 417
エゴイストとピアニスト

コンサートその2

しおりを挟む
 スポットライトがまぶしい。
僕たち二人は強烈なライトの中、ホール全体に響き渡る強烈な拍手を受けながら指揮台を目指し歩いた。
楽団員の弓が揺れている。今日のこの演奏に対する観客の大きな期待を感じる拍手だった。

――この拍手の目当てはダニーの指揮なんだろうなぁ――

と何故か冷静に捉えている僕がいる。

 目の前にあるのは、指揮台の前に鎮座するグランドピアノ。僕の目指す場所。

 考えてみればこれはいつもの部活の演奏会でも見慣れた風景のはずなのだが感じる空気が違う。これがプロのオーケストラの持つ雰囲気か? これが世界の巨匠と一緒に演奏(や)るという事か?
特に客席からひたひたと押し寄せる空気に、今まで感じた事のない威圧感みたいなものを感じた。

 コンサートマスターの手島さんと目が合った。彼は笑顔で僕を迎え入れてくれた。
そして緊張を解きほぐすかのように両肩を上下に揺らした。

――リラックス。リラックス――

 僕自身では気負いも緊張もないと思っていたのだが、いつの間にか僕の表情が硬くなっていたようだ。手島さんに心配されたかもしれない。
でもこの笑顔に僕は救われた気分になれた。

――ああ、これがオヤジの言っていた心地よい緊張感か――

それを僕は肌で感じていた。

 客席に向かいダニーと一緒に挨拶をすると、僕はピアノ椅子に座った。
ダニーは静かに指揮台へと上がった。

ダニーが振り返り僕の表情を確かめるように笑顔を見せた。

――ああ、今からここで演奏するんだな――

と当たり前の事を実感した。
そんな事は分かっていたはずなのに、今初めて命の奥深いところで理解したことを僕は認識した。
 そう、そんな事を今更感じている自分自身にも驚いてた。

――頭では分かっていたつもりだったんだけどなぁ――

 今僕は初めて身体全体で腹の底から『ここで巨匠とプロのオーケストラと一緒にピアノを弾く』という事を実感した。腹の底に落ちるというか……腑に落ちるというか……これは悟りを開いたと言っていい位の実感値だった。
しかしそれを感じるにはまだ早すぎるという事を、僕はこの後すぐに知る事になる。

 それはさておき、いつものダニーの笑顔を見て僕は余計な力が抜けた。僕はここに来るまで何度緊張して何度余計な力を抜いただろうか? 

 僕は頷くと一度大きな深呼吸をして息を整えた。
そして視線を鍵盤に落とした。

もう僕に緊張感はない。いつでも大丈夫だ。

 僕は最初の鐘の音が僕に下りてくるのを待った。
一度鍵盤の上に指を軽く触れさせてみた。ピアノは既に僕の演奏を待ってくれている。

 咳払いの後に訪れる静寂。すべての音が消えた。
その刹那、僕は鐘の音を求めて鍵盤に指を沈め至聖三者大聖堂の大鐘を鳴らした。

――ああ、この音が欲しかったんだなぁ――
 まずは自分が出したかった音色を出し切れて安心した。
このピアノは僕を受け入れてくれたようだ。

 夕暮れに遠くから厳かに聞こえる大鐘の*ブラガヴェストの音色。神聖にして市民の祈りと共に神への畏怖も感じられる音。その鐘の音が遠くでこだまする。

 大鐘の単独で響くFの音は哀しみを表す**ペレボールの音でもある。7度のブラガヴェストはキリストの受難を現わす***ペレズヴォンをも彷彿させる。

 このような鐘の音は当時のロシアの国民にとって切り離せないものであった。もちろんラフマニノフも自ら語るほどロシア正教会の鐘の音の影響は受けていた。




*大鐘(ブラガヴェストニク)でゆったりと打ち鳴らされる鐘の音。当時ロシアでは大きさの違う多くの鐘を鳴らすことが慣例となっていた。その最初の音を鳴らした大鐘の音の事。
**葬儀の際に慣らされた鐘の鳴らし方。
***キリストの受難の二日間のための鐘の奏法。
しおりを挟む
感想 16

あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

子持ちの私は、夫に駆け落ちされました

月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。

わたしは夫のことを、愛していないのかもしれない

鈴宮(すずみや)
恋愛
 孤児院出身のアルマは、一年前、幼馴染のヴェルナーと夫婦になった。明るくて優しいヴェルナーは、日々アルマに愛を囁き、彼女のことをとても大事にしている。  しかしアルマは、ある日を境に、ヴェルナーから甘ったるい香りが漂うことに気づく。  その香りは、彼女が勤める診療所の、とある患者と同じもので――――?

命を狙われたお飾り妃の最後の願い

幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】 重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。 イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。 短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。 『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

子育てが落ち着いた20年目の結婚記念日……「離縁よ!離縁!」私は屋敷を飛び出しました。

さくしゃ
恋愛
アーリントン王国の片隅にあるバーンズ男爵領では、6人の子育てが落ち着いた領主夫人のエミリアと領主のヴァーンズは20回目の結婚記念日を迎えていた。 忙しい子育てと政務にすれ違いの生活を送っていた二人は、久しぶりに二人だけで食事をすることに。 「はぁ……盛り上がりすぎて7人目なんて言われたらどうしよう……いいえ!いっそのことあと5人くらい!」 気合いを入れるエミリアは侍女の案内でヴァーンズが待つ食堂へ。しかし、 「信じられない!離縁よ!離縁!」 深夜2時、エミリアは怒りを露わに屋敷を飛び出していった。自室に「実家へ帰らせていただきます!」という書き置きを残して。 結婚20年目にして離婚の危機……果たしてその結末は!?

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。

下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。 またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。 あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。 ご都合主義の多分ハッピーエンド? 小説家になろう様でも投稿しています。

処理中です...