89 / 417
お正月の頃の物語
本音
しおりを挟む
「こんな弾き方していたらいつまでたっても同じや。メロディラインを際立たせる技巧は今まで腐るほど練習したけど、それだけやったら本当に俺が聞こえている音をそのまま忠実に再現できひん」
僕は少し自分に対していらだっていたかもしれない。自分でも少し声に感情がむき出しに乗っかっているような気がしていた。
「聞こえてる音?」
そんな僕の軽い苛立ちを気にかける様子もなく、宏美が不思議そうな表情を見せて僕に聞いてきた。
そのいつもの何も考えていなさそうな宏美の表情を見て僕は少し落ち着いた。
「うん。音はいつでもこの世界を流れているねん。ホンマに溢れとぉねん。でな、楽譜を開いて鍵盤に手を置いた瞬間その音は色づいて踊り出すんや。それを俺がピアノで再現する。それだけの事や。でもそれだけの事が出来ん。その力がまだ俺にはない。技術がない。父さんには間違いなく在った。それは聞かんでも分かる。父さんがどう弾いていたかは間違いなく分かる。なんでか知らんけどそれだけは分かる。それだけに悔しい。父さんに弾けて俺に弾けない道理はない。それがピアノを弾くたびに分かって来るんや」
本当はオヤジのピアノの音色は聞こえていたのだが、それをここで言う訳にはいかなかった。話が更にややこしくなるのは明らかだから。
ついでにいうと僕は冴子や宏美に話をしながら、自分にも言い聞かせようと話をしていた。
僕は自分の対して語るように、彼女たちに話しをしながら頭の中を整理していた。
「ほんまにな。こんな感覚初めてやねん。どうやって弾いたら俺が弾きたい音がでるのか分からんねん……いや、分からんことはないねん。その音を出す技術が足りひんねん」
今の僕はピアノを弾き始めてから初めての壁を感じている。
壁とは登ろうと思ってこそ、それが初めて壁であることが気が付く……いやそこに壁の存在が在ったという事が分かるものかも知れない……前に進まないやつには壁があろうとなかろうと関係ないもんな……そんな考えが頭をよぎった。
黙って聞いていた冴子が
「あんたのいう事はイマイチ分からんけど、これだけは言えるわ。あんたの音……ホンマに変わったな」
とぽつりと呟いた。
やはり僕の感覚は冴子や宏美には理解できないようだが、何かが変わった事だけは理解してもらえたようだった。
僕のタッチはあの日安藤さんの店で弾いたピアノから音が変わった。最初は自分で弾いている気がしなかった。誰かに弾かされているような感覚だった。あるいはオヤジの物まねだった。
それが世界の音を耳で感じ、光として目で感じ、今身体の奥底の何かで感じようとしている。
それが何なのかは僕にも分からない。
――俺が分かっていないものを他人が理解できるわけないやんな――
という当たり前の事に今気が付いた。
ただ僕も冴子と同じレベルで分かっている事がひとつだけある。
「うん。実は俺もそう思っとぉ」
僕は正直に頷いた。
今の僕に理解できたのは自分の音が変わった事だけだった。
「なんでなん? なんでそんなに一気に変われんの? 今までの努力を捨てる事になるやん」
冴子の声がなんなく寂しげに聞こえた。
「うん。そうなるかもなぁ……」
「怖ないん? そんな事して。今まで作り上げてきた自分の音がなし崩しになるかもしれんねんで」
「うん。それは大丈夫。元々評価なんか気にしてなかったから……」
「気にしなくて今まであの演奏か?……ホンマ、あんたは嫌味な奴やな」
冴子は苦々し気に僕を睨んだが直ぐに表情を和らげて
「で、これからどうすんの? 伊能先生のとこに行かへんの?」
と聞いてきた。
「うん。近々行こうと思っとぉけど……」
「そうかぁ。行く時言うてや。一緒に行ったるから」
「え? なんで?」
僕は思わず聞き返した。なんで冴子まで?
「一年近くご無沙汰してて行き難くないんか? そんでピアノ弾いたらあの音やで……先生突っ込んでくるでぇ」
冴子のこの言葉は僕の胸に突き刺さった。確かに冴子のいう事は一理ある。そして僕一人で行くには荷が重すぎる。冷静になってみると僕にそんな勇気はない事を思い出した。
「分かった。言うわ」
半分冴子にすがるような気持ちになっていた。
「亮ちゃん、私も行く」
宏美が横から会話に割って入って来た。
「宏美も心配やんな」
冴子が宏美にそう言うと
「うん。なんか面白そうやん」
と笑った。
――こいつは天然やったな――
これだけは冴子と僕の意見は一致したようで、二人で同時に苦笑(わら)った。
宏美は何故僕と冴子が渇いた笑い声をあげたかが分からずにキョトンとしていた。そしてシゲルは結局この話題には全く入れなかった。また少しシゲルに申し訳ない気持ちになった。
――でも伊能先生のとこに行く前にオヤジに相談しよう――
冴子と宏美の会話を聞きながら僕はそう決めた。
僕は少し自分に対していらだっていたかもしれない。自分でも少し声に感情がむき出しに乗っかっているような気がしていた。
「聞こえてる音?」
そんな僕の軽い苛立ちを気にかける様子もなく、宏美が不思議そうな表情を見せて僕に聞いてきた。
そのいつもの何も考えていなさそうな宏美の表情を見て僕は少し落ち着いた。
「うん。音はいつでもこの世界を流れているねん。ホンマに溢れとぉねん。でな、楽譜を開いて鍵盤に手を置いた瞬間その音は色づいて踊り出すんや。それを俺がピアノで再現する。それだけの事や。でもそれだけの事が出来ん。その力がまだ俺にはない。技術がない。父さんには間違いなく在った。それは聞かんでも分かる。父さんがどう弾いていたかは間違いなく分かる。なんでか知らんけどそれだけは分かる。それだけに悔しい。父さんに弾けて俺に弾けない道理はない。それがピアノを弾くたびに分かって来るんや」
本当はオヤジのピアノの音色は聞こえていたのだが、それをここで言う訳にはいかなかった。話が更にややこしくなるのは明らかだから。
ついでにいうと僕は冴子や宏美に話をしながら、自分にも言い聞かせようと話をしていた。
僕は自分の対して語るように、彼女たちに話しをしながら頭の中を整理していた。
「ほんまにな。こんな感覚初めてやねん。どうやって弾いたら俺が弾きたい音がでるのか分からんねん……いや、分からんことはないねん。その音を出す技術が足りひんねん」
今の僕はピアノを弾き始めてから初めての壁を感じている。
壁とは登ろうと思ってこそ、それが初めて壁であることが気が付く……いやそこに壁の存在が在ったという事が分かるものかも知れない……前に進まないやつには壁があろうとなかろうと関係ないもんな……そんな考えが頭をよぎった。
黙って聞いていた冴子が
「あんたのいう事はイマイチ分からんけど、これだけは言えるわ。あんたの音……ホンマに変わったな」
とぽつりと呟いた。
やはり僕の感覚は冴子や宏美には理解できないようだが、何かが変わった事だけは理解してもらえたようだった。
僕のタッチはあの日安藤さんの店で弾いたピアノから音が変わった。最初は自分で弾いている気がしなかった。誰かに弾かされているような感覚だった。あるいはオヤジの物まねだった。
それが世界の音を耳で感じ、光として目で感じ、今身体の奥底の何かで感じようとしている。
それが何なのかは僕にも分からない。
――俺が分かっていないものを他人が理解できるわけないやんな――
という当たり前の事に今気が付いた。
ただ僕も冴子と同じレベルで分かっている事がひとつだけある。
「うん。実は俺もそう思っとぉ」
僕は正直に頷いた。
今の僕に理解できたのは自分の音が変わった事だけだった。
「なんでなん? なんでそんなに一気に変われんの? 今までの努力を捨てる事になるやん」
冴子の声がなんなく寂しげに聞こえた。
「うん。そうなるかもなぁ……」
「怖ないん? そんな事して。今まで作り上げてきた自分の音がなし崩しになるかもしれんねんで」
「うん。それは大丈夫。元々評価なんか気にしてなかったから……」
「気にしなくて今まであの演奏か?……ホンマ、あんたは嫌味な奴やな」
冴子は苦々し気に僕を睨んだが直ぐに表情を和らげて
「で、これからどうすんの? 伊能先生のとこに行かへんの?」
と聞いてきた。
「うん。近々行こうと思っとぉけど……」
「そうかぁ。行く時言うてや。一緒に行ったるから」
「え? なんで?」
僕は思わず聞き返した。なんで冴子まで?
「一年近くご無沙汰してて行き難くないんか? そんでピアノ弾いたらあの音やで……先生突っ込んでくるでぇ」
冴子のこの言葉は僕の胸に突き刺さった。確かに冴子のいう事は一理ある。そして僕一人で行くには荷が重すぎる。冷静になってみると僕にそんな勇気はない事を思い出した。
「分かった。言うわ」
半分冴子にすがるような気持ちになっていた。
「亮ちゃん、私も行く」
宏美が横から会話に割って入って来た。
「宏美も心配やんな」
冴子が宏美にそう言うと
「うん。なんか面白そうやん」
と笑った。
――こいつは天然やったな――
これだけは冴子と僕の意見は一致したようで、二人で同時に苦笑(わら)った。
宏美は何故僕と冴子が渇いた笑い声をあげたかが分からずにキョトンとしていた。そしてシゲルは結局この話題には全く入れなかった。また少しシゲルに申し訳ない気持ちになった。
――でも伊能先生のとこに行く前にオヤジに相談しよう――
冴子と宏美の会話を聞きながら僕はそう決めた。
0
お気に入りに追加
54
あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
命を狙われたお飾り妃の最後の願い
幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】
重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。
イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。
短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。
『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。
子持ちの私は、夫に駆け落ちされました
月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。
わたしは夫のことを、愛していないのかもしれない
鈴宮(すずみや)
恋愛
孤児院出身のアルマは、一年前、幼馴染のヴェルナーと夫婦になった。明るくて優しいヴェルナーは、日々アルマに愛を囁き、彼女のことをとても大事にしている。
しかしアルマは、ある日を境に、ヴェルナーから甘ったるい香りが漂うことに気づく。
その香りは、彼女が勤める診療所の、とある患者と同じもので――――?
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?
雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。
最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。
ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。
もう限界です。
探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。
子育てが落ち着いた20年目の結婚記念日……「離縁よ!離縁!」私は屋敷を飛び出しました。
さくしゃ
恋愛
アーリントン王国の片隅にあるバーンズ男爵領では、6人の子育てが落ち着いた領主夫人のエミリアと領主のヴァーンズは20回目の結婚記念日を迎えていた。
忙しい子育てと政務にすれ違いの生活を送っていた二人は、久しぶりに二人だけで食事をすることに。
「はぁ……盛り上がりすぎて7人目なんて言われたらどうしよう……いいえ!いっそのことあと5人くらい!」
気合いを入れるエミリアは侍女の案内でヴァーンズが待つ食堂へ。しかし、
「信じられない!離縁よ!離縁!」
深夜2時、エミリアは怒りを露わに屋敷を飛び出していった。自室に「実家へ帰らせていただきます!」という書き置きを残して。
結婚20年目にして離婚の危機……果たしてその結末は!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる