180 / 406
夏休みの部活
渚さんのレッスン
しおりを挟む
「これで心置きなくヴァイオリンにいけるわ」
冴子はそう言って僕に握り拳を突き出した。
僕はその拳を見てそして冴子の顔に視線を移した。そこには今まで見た事もない冴子の笑顔があった。
冴子には似つかわしくない爽やかで屈託のない笑顔だった。なのに僕は何故かその笑顔を見ると更に寂しい気持ちになった。一人置いて行かれたような気持になった。
僕は冴子と軽く拳を合わせた。
「亮ちゃん。ありがとう」
今日の冴子は『ありがとう』の投げ売り状態だ。
ゆっくりと冴子は拳を戻した。
そしてじっと僕の瞳を見て
「次はコンクール会場やね」
と呟くように言った。
「え?」
冴子は僕の返事も聞かずに
「先生、それじゃあ、私はそろそろ帰ります。ピアノは今まで通りちゃんと来ますから」
と言って椅子から立ち上がると、お辞儀をしてそのまま部屋から出て行った。
先生は見送るためか、冴子の後を追うように部屋から出て行った。
僕は一人ピアノの前に取り残されてしまった。文字通り一人で置いて行かれた。
部屋の中は静かだった。僕も一緒に帰りたくなった。そんな事を思いながら僕は今さっき弾いた『ハンガリー舞曲』の楽譜を見るとはなく眺めていた。余韻がまだこの部屋には残っていた。
「本当にいい演奏やったわ。久しぶりに二人の連弾を聞いたけど、良かったよ」
僕は声が聞こえた部屋の奥の扉を見た。
そこにはピアノ越しに渚さんの姿があった。
「聞いとったん?」
「うん。最初から聞いとった」
そう言うと渚さんはピアノのへりを指先で撫でながら歩み寄ってきた。
「冴子のピアノは変わったでしょ?」
「うん」
「亮平がこの教室に帰ってきてから、あの子本当に練習していたもんねえ……」
と冴子が出て行った扉に目をやりながら渚さんは言った。
「そうなんやぁ……」
――だったら何故彼女はヴァイオリンに転向したんだ?――
「それで踏ん切りをつけたのかもね」
と渚さんが僕の想いに応えるように言った。
「あの子はあんたに、取り残されるのが嫌でずっと必死で追いかけていたみたいね」
「え? そうなんですか?」
思わぬひとことに僕は驚いた。
「あ、やっぱり気が付いていなかったんや」
そう言って渚さんは呆れたように笑った。そして隣のピアノの椅子に腰かけた。
「ごめんなさい……全く気が付いてなかった……」
冴子は単なる負けず嫌いの女の子だとは思っていた。だから単純に誰にも負けたくないのだろうと勝手に思っていた。
「別に謝らなくてもええんやけど……で、年明けぐらいかな……急に必死にピアノを弾き出して先生も『どうしたんやろ?』って心配するぐらい。……私があんたのピアノを聞いた時に冴子も宏美も一緒に居たよね?」
「うん。おった」
「あの後ね。冴子がやって来て『渚さん。私は亮平のピアノに勝てますか?』って聞いてきたのよ」
「え? そんな事が……」
初めて耳にする話だった。
「そう。『どうやったら勝てますか?』ではなく『勝てますか?』だったのね。『あれ?この子こんな聞き方をするタイプだっけ?』とその時は思ったわ。もっと自信に満ち溢れているタイプの人間だと思っていたからね。勝ち負けのジャッジを人に預けるような聞き方は絶対しない子だと思っていたからちょっと驚いたわ」
「だから、『音楽は勝ち負けではないのよ』って答えたんだけど、それがダメだったかもね」
「なんで?」
「分かるでしょ? その答え方って私が冴子の質問に答えられないから……いや答えにくいから……その場を誤魔化したというか……つまり私が『冴子は勝てない』というのを言えなくて言葉を濁したって思われたみたいね」
「そんなぁ……」
「それでも一度は、あんたの後を追いかけようとしたんじゃないのかな?」
「え? そうなん?」
「多分ね……でも今日の音を聞いて分かったわ」
「何がですか?」
渚さんはちょっと考えて
「あんたは見事にフラれたね」
と僕を見て笑った。
「え?」
「そう。フラれた……ピアノではね……いや、違うか……あ!……なるほどねぇ……そうかぁ、ピアノではね……」
と渚さんは何かに気が付いたように何度も頷いた。
「え?」
僕は渚さんの言っている事の意味が全く分かっていなかった。
「本当に亮平は驚くほど勘が鈍いところがあるわね。でもこれは分からないかぁ……冴子らしいわ」
と呆れたような顔で僕をまじまじと見た。
「あんな繊細で叙情的な旋律を奏でておきながら、女心は全く分からないのかぁ……天は二物を与えずとはよく言ったもんだ」
と渚さんは一人で納得していた。
「なんなん? その女心って? 冴子にそんなもんあるん?」
「う~ん。亮平……宏美ちゃんと上手く行っているのぉ? そんな感性で? 私は心配になってきたよぉ」
と渚さんは僕の顔を近づけて来て心配そうに見つめた。
「大丈夫です……多分……」
僕はそう応えながら、さっき別れ際に感じた宏美の寂しげな雰囲気を思い出していた。
――何か大切な事を俺は見落としている?――
僕は少し不安になってきていた。
「ま、冴子はヴァイオリンにいってしまったし、暫くは亮ちゃんとは絡む事は無いかもねえ……」
「はぁ……」
と答えてから僕は今日の音楽室での出来事を思い出した。
「そう言えば、今日部活で冴子に『ツィゴイネルワイゼン』の伴奏を頼まれて弾いたんやけど……」
と渚さんに言った。
「『ツィゴイネルワイゼン』? サラサーティの?」
「うん。そう」
「はは~ん。そういう事かぁ」
「え?どういう事なん?」
「いや。それは自分で考えなさい。ふ~ん。なるほどねぇ……やっぱりねぇ……」
と渚さんは意味深な笑いを僕に向けた。さっきからの渚さんの言葉は謎かけみたいで、僕には彼女が何を理解できたのか全く分からなかった。
「そんなん言わんと……お願いします。渚先生」
と頼み込んだが
「そういう事は自分で考えんのよ」
と言って取り合ってくれなかった。
「さて、練習始めるわよ」
そう言うと渚さんは楽譜台に置いてあったブラームスのハンガリー舞曲 第1番の楽譜をさっさと片付けて課題曲の楽譜を置いた。
冴子はそう言って僕に握り拳を突き出した。
僕はその拳を見てそして冴子の顔に視線を移した。そこには今まで見た事もない冴子の笑顔があった。
冴子には似つかわしくない爽やかで屈託のない笑顔だった。なのに僕は何故かその笑顔を見ると更に寂しい気持ちになった。一人置いて行かれたような気持になった。
僕は冴子と軽く拳を合わせた。
「亮ちゃん。ありがとう」
今日の冴子は『ありがとう』の投げ売り状態だ。
ゆっくりと冴子は拳を戻した。
そしてじっと僕の瞳を見て
「次はコンクール会場やね」
と呟くように言った。
「え?」
冴子は僕の返事も聞かずに
「先生、それじゃあ、私はそろそろ帰ります。ピアノは今まで通りちゃんと来ますから」
と言って椅子から立ち上がると、お辞儀をしてそのまま部屋から出て行った。
先生は見送るためか、冴子の後を追うように部屋から出て行った。
僕は一人ピアノの前に取り残されてしまった。文字通り一人で置いて行かれた。
部屋の中は静かだった。僕も一緒に帰りたくなった。そんな事を思いながら僕は今さっき弾いた『ハンガリー舞曲』の楽譜を見るとはなく眺めていた。余韻がまだこの部屋には残っていた。
「本当にいい演奏やったわ。久しぶりに二人の連弾を聞いたけど、良かったよ」
僕は声が聞こえた部屋の奥の扉を見た。
そこにはピアノ越しに渚さんの姿があった。
「聞いとったん?」
「うん。最初から聞いとった」
そう言うと渚さんはピアノのへりを指先で撫でながら歩み寄ってきた。
「冴子のピアノは変わったでしょ?」
「うん」
「亮平がこの教室に帰ってきてから、あの子本当に練習していたもんねえ……」
と冴子が出て行った扉に目をやりながら渚さんは言った。
「そうなんやぁ……」
――だったら何故彼女はヴァイオリンに転向したんだ?――
「それで踏ん切りをつけたのかもね」
と渚さんが僕の想いに応えるように言った。
「あの子はあんたに、取り残されるのが嫌でずっと必死で追いかけていたみたいね」
「え? そうなんですか?」
思わぬひとことに僕は驚いた。
「あ、やっぱり気が付いていなかったんや」
そう言って渚さんは呆れたように笑った。そして隣のピアノの椅子に腰かけた。
「ごめんなさい……全く気が付いてなかった……」
冴子は単なる負けず嫌いの女の子だとは思っていた。だから単純に誰にも負けたくないのだろうと勝手に思っていた。
「別に謝らなくてもええんやけど……で、年明けぐらいかな……急に必死にピアノを弾き出して先生も『どうしたんやろ?』って心配するぐらい。……私があんたのピアノを聞いた時に冴子も宏美も一緒に居たよね?」
「うん。おった」
「あの後ね。冴子がやって来て『渚さん。私は亮平のピアノに勝てますか?』って聞いてきたのよ」
「え? そんな事が……」
初めて耳にする話だった。
「そう。『どうやったら勝てますか?』ではなく『勝てますか?』だったのね。『あれ?この子こんな聞き方をするタイプだっけ?』とその時は思ったわ。もっと自信に満ち溢れているタイプの人間だと思っていたからね。勝ち負けのジャッジを人に預けるような聞き方は絶対しない子だと思っていたからちょっと驚いたわ」
「だから、『音楽は勝ち負けではないのよ』って答えたんだけど、それがダメだったかもね」
「なんで?」
「分かるでしょ? その答え方って私が冴子の質問に答えられないから……いや答えにくいから……その場を誤魔化したというか……つまり私が『冴子は勝てない』というのを言えなくて言葉を濁したって思われたみたいね」
「そんなぁ……」
「それでも一度は、あんたの後を追いかけようとしたんじゃないのかな?」
「え? そうなん?」
「多分ね……でも今日の音を聞いて分かったわ」
「何がですか?」
渚さんはちょっと考えて
「あんたは見事にフラれたね」
と僕を見て笑った。
「え?」
「そう。フラれた……ピアノではね……いや、違うか……あ!……なるほどねぇ……そうかぁ、ピアノではね……」
と渚さんは何かに気が付いたように何度も頷いた。
「え?」
僕は渚さんの言っている事の意味が全く分かっていなかった。
「本当に亮平は驚くほど勘が鈍いところがあるわね。でもこれは分からないかぁ……冴子らしいわ」
と呆れたような顔で僕をまじまじと見た。
「あんな繊細で叙情的な旋律を奏でておきながら、女心は全く分からないのかぁ……天は二物を与えずとはよく言ったもんだ」
と渚さんは一人で納得していた。
「なんなん? その女心って? 冴子にそんなもんあるん?」
「う~ん。亮平……宏美ちゃんと上手く行っているのぉ? そんな感性で? 私は心配になってきたよぉ」
と渚さんは僕の顔を近づけて来て心配そうに見つめた。
「大丈夫です……多分……」
僕はそう応えながら、さっき別れ際に感じた宏美の寂しげな雰囲気を思い出していた。
――何か大切な事を俺は見落としている?――
僕は少し不安になってきていた。
「ま、冴子はヴァイオリンにいってしまったし、暫くは亮ちゃんとは絡む事は無いかもねえ……」
「はぁ……」
と答えてから僕は今日の音楽室での出来事を思い出した。
「そう言えば、今日部活で冴子に『ツィゴイネルワイゼン』の伴奏を頼まれて弾いたんやけど……」
と渚さんに言った。
「『ツィゴイネルワイゼン』? サラサーティの?」
「うん。そう」
「はは~ん。そういう事かぁ」
「え?どういう事なん?」
「いや。それは自分で考えなさい。ふ~ん。なるほどねぇ……やっぱりねぇ……」
と渚さんは意味深な笑いを僕に向けた。さっきからの渚さんの言葉は謎かけみたいで、僕には彼女が何を理解できたのか全く分からなかった。
「そんなん言わんと……お願いします。渚先生」
と頼み込んだが
「そういう事は自分で考えんのよ」
と言って取り合ってくれなかった。
「さて、練習始めるわよ」
そう言うと渚さんは楽譜台に置いてあったブラームスのハンガリー舞曲 第1番の楽譜をさっさと片付けて課題曲の楽譜を置いた。
0
お気に入りに追加
52
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
旦那の真実の愛の相手がやってきた。今まで邪魔をしてしまっていた妻はお祝いにリボンもおつけします
暖夢 由
恋愛
「キュリール様、私カダール様と心から愛し合っておりますの。
いつ子を身ごもってもおかしくはありません。いえ、お腹には既に育っているかもしれません。
子を身ごもってからでは遅いのです。
あんな素晴らしい男性、キュリール様が手放せないのも頷けますが、カダール様のことを想うならどうか潔く身を引いてカダール様の幸せを願ってあげてください」
伯爵家にいきなりやってきた女(ナリッタ)はそういった。
女は小説を読むかのように旦那とのなれそめから今までの話を話した。
妻であるキュリールは彼女の存在を今日まで知らなかった。
だから恥じた。
「こんなにもあの人のことを愛してくださる方がいるのにそれを阻んでいたなんて私はなんて野暮なのかしら。
本当に恥ずかしい…
私は潔く身を引くことにしますわ………」
そう言って女がサインした書類を神殿にもっていくことにする。
「私もあなたたちの真実の愛の前には敵いそうもないもの。
私は急ぎ神殿にこの書類を持っていくわ。
手続きが終わり次第、あの人にあなたの元へ向かうように伝えるわ。
そうだわ、私からお祝いとしていくつか宝石をプレゼントさせて頂きたいの。リボンもお付けしていいかしら。可愛らしいあなたととてもよく合うと思うの」
こうして一つの夫婦の姿が形を変えていく。
---------------------------------------------
※架空のお話です。
※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。
※現実世界とは異なりますのでご理解ください。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる