なまけ侍 佐々木景久

鵜狩三善

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秘剣 梅明かり

秘剣 梅明かり-1

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  序章 春宵しゅんしょう一景



 笛、かね、太鼓にしょうの声。笑いさざめく人の群れ。
 春の淡いよいの川辺を、音色が華やかに彩っている。四方に名高いつじの川祭りであった。
 御辻とは、北陸の小藩の名だ。険山けんざんを多くふところに抱え、かつては鳥も通わぬと揶揄やゆされた山間やまあいの藩である。道普請みちぶしんが進んだ今とて通う人の足ははなはだ少ない。
 だが山野には多くの恵みをいだき、また小規模ながら塩浜と漁港をも有し、隆盛はせぬが貧窮もない藩でもあった。大きな禍福いずれよりもまぬがれて、実に太平の世らしく、ゆったりと夢に微睡まどろむような土地柄をしている。
 この御辻藩を東西に割って流れる大河を、潮路しおじ川という。山の腹から湧きでて海へと至るその流れは、古くより幾度となく氾濫はんらんし、人の営みをむしばんできた。
 藩主である大喜おおき氏は、この暴れ川と戦い続けてきた一族である。ながの時をかけて水に取り組み、海原へまっしぐらの川筋を少しずつ、緩かに、穏やかに歪めていった。「大喜なかりせば潮路あふるる」との言いを、御辻で疑う者は誰もない。
 群雄割拠の世において、大喜氏が弱小ながら領主としての地位を保ち続けた理由もここにある。
 潮路の流れは近隣の大国たいこくすら三舎さんしゃく代物であり、治水の手間を考えれば、御辻は取って旨味のない土地であったのだ。お陰で戦火も及ばず、半ば隠れ里のようにあれたのだから、潮路川は一面において土地の守護神と言えなくもない。
 この潮路に関わる祭祀こそが、川祭りである。
 水のぬるむ頃になると、御辻の領民は最寄りの堤の上につどい、思い思いに踊る。拙いながらの奉納舞ほうのうまいであり、様相としては風流踊ふりゅうおどりに近い。
 踊り歌を口ずさみながら、人の群れは土手の上を夜昼よるひるなく行き来する。熱心な者は、上流から下流まで繰り返し往復して踊り歩くのだ。
 年にもよるが、祭祀の期間はおよそ五、六日。決して参加を強制するものでないにもかかわらず、この間は川沿いの家々がほぼからになるというからすさまじい。
 領内の熱狂に当てられたように藩外からも人が集まり、普段は寒々と風だけ抜ける御辻の街道も、このときばかりは驚くべきにぎわいを見せる。平素は眠るがごとき御辻藩だが、この春宵しゅんしょうの数日ばかりは目が覚めたように騒がしい。
 この種の商機を、機を見るにびんなる商人あきんどたちが逃すはずもなかった。彼らは合わせて御辻に立ち入り、踊る人々のために休息所を設け、立ち食い立ち飲みの屋台をはじめたのである。
 こうした出店が最も多く立ち並ぶのが、祭りの元締めでもある塩土しおつち神社の境内だ。
 塩土神社とは、潮路川を鎮め終えた大喜氏が建立したやしろの名だ。祭神は社名の通り塩土老翁しおつちのおじ。水運、海運を含めた道行きの祈願と言えば、宗像三女神むなかたさんじょしんが一般に名高い。でありながら、あえてこの神を勧請かんじょうしたのは、大喜の殿様に何かしらの意図があってのことであろうか。
 とまれこの境内は、川沿いの窪地を占有して広い。潮路の氾濫に際し、ため池として機能させるべくである。つまりこうした催しに、もってこいの場であった。
 あるいは踊り見物の人々が、あるいは踊り疲れた者々がここへ集ってごった返し、さしもの空間も芋を洗うがごときありさまとなる。となれば押し合いへし合いから殴る蹴るの小競り合いに至るのは自明で、一時は混乱の収拾に、藩兵が繰り出されることまであった。
 のちに土地の顔役たちが間に入り、これを取り仕切るようになってからは大人しいものだが、それでもやはり、川祭りは乱痴気らんちき騒ぎの面を備える点は否めない。
 けれど、藩がこれをとがめ立てることはなかった。川辺に人を集めるのが、行政としてそもそもの目論見であったからだ。
 いかに固く築こうと、堤防とはいずれ緩むものだ。ゆえに雨季の前に祭りを催し、人を集めて土を固く踏みしめさせる狙いである。
 だが斯様かような御上の思惑はさておき、浮かれ騒ぐ口実があればそれを堪能するのが民衆のたくましさだ。
 浮かれ騒ぎの人々、今年もかさにかかってかしましい。


 少年は片頬を撫でながら、そうした祭りの風情を眺めていた。
 川べりに吊るされた提灯ちょうちんたちは、堤に光を投げると同時に、周囲の闇をより深く際立たせる。その昏黒こんこくの中に、彼はひとり立ち尽くしていた。潮路の川の流れと祭りの喧騒の双方を半分ずつ耳に聞きつつ、ただ、黙然と。
 上背はあるが、彼の顔立ちはまだまだ幼い。よわいとおかそこらと見える。
 だが彼の目は、年齢に似合わぬ達観の色合いをたたえていた。
 達観は、諦観ていかんと言い換えてもよい。その理由のひとつが、撫でる手の下の、青く痛々しいれであるのは想像にかたくなかった。
 明らかな打撲だぼくの痕跡である。少年は、何者か――それも同世代でなく大人から――に強く打擲ちょうちゃくされた直後なのだ。
 変色した患部には、まだ熱と痛みとが残留するはずだった。尋常じんじょうの子供であれば泣きじゃくり、親の、周囲の庇護ひごを求めて当然のありさまである。
 しかし少年のおもてに、その種の痛覚は少しも見えない。己が頬を撫でる手つきも、痛みをこらえるたぐいの仕草とは遠いものだ。
 口中の切創を、なんとなしに舌で探ってしまうように。普段と少し違う箇所があるから、どうも気になって触れてしまう。その程度の様子でしかないのだ。
 事実、彼の諦念は体でなく、心をこそ在り処としていた。
 大人の強い殴打を受けても、さしたる痛痒つうようも覚えぬ強靭さは、あるいは才として誇るべき特質であるだろう。しかし少年は、自身の頑強を好まなかった。強靭さのみにとどまらぬ肉体の非凡は、父に心労を及ぼすものであり、また己を縛る鎖であると思うからだ。
 少年にとって我が身の特性は、自らの異常性を思い知らせてやまないものだった。
 たとえば、身の丈が一丈(約三メートル)ほどもある人間を想像してみればよい。他の人々がなんの気なしに歩む道を、潜る戸口を、彼は周りの背丈に合わせておっかなびっくり、細心の注意を払って行かねばならない。なんとも窮屈で息苦しくて、生きにくいことだろう。
 自分はそれだと、少年は思う。
 この頑強な体のせいで、常に気を張り思考を巡らせ、油断なく暮らさねばならない。彼にとっての世間とは、大儀以外の何物でもない。

「……」

 ひとつ息を吐いて、少年は祭礼の光を遠く見る。
 けれど、嫌いではないのだ。世の中をいとうものでは決してないのだ。むしろ、好きだから、愛するからこそ、壊したくないと考える。なのに、普通であることは難しい。ひどく。
 思うに普通というのは、眼前の祭りに似て特別だ。すぐ傍にあるくせに、どうしたって届かない。水中から眺める風景のように、いつも実体なく揺らめいておぼろだ。決して少年に触れてはくれない。
 もちろん、親しい人々とともにあるときは別だ。
 父や妹や友人は、不可思議な媒介となって、自分と普通とを結びつけてくれる。その輪の中へまぎれさせてくれる。彼らの隣はふわふわと温かで、とても優しい感触がする。いつまでも浸っていたいように思う。
 だがそうして人間じんかんのぬくもりを知れば知るほど、異質をむ人の心の働きもまた、彼には見えてしまう。
 これまでの体験から、自身の特性をのぞかせた折の周囲の反応から、違うこととは悪いことなのだと、少年は学習している。
 ならば自分は、除かれるべき異物であるのだろう。
 もし注意をおこたり正体をさらけ出したなら、自分はたちまち世に居場所を失うはずだ。また、そうして生じる排斥の運動は、己ばかりでなく無関係な家族や友人さえをも矛先とするに決まっている。
 何より、異端への拒絶は一度きりで終わらない。彼がしくじるたびに、何度でも、幾度でも、繰り返し立ち現れるに違いなかった。
 だから彼は多くを望まず、手放し、諦めた。
 少年の隣には、まるで地獄のように、いつも孤独が寄り添っていた。
 年端としはも行かぬ子供が、何を悟ったようなことをと思う向きもあるだろう。
 だが子供なればこそ、大人よりも深く辛く悩むのだ。世間の狭い子供だからこそ、より強く懊悩おうのうする。
 純にして知見のない彼らは、その狭い視野の中にあるものだけで、必死に世界の解を見出そうとする。ゆえに素朴な心は、割り切り慣れた大人とは異なる煩悶はんもんいだくのだ。
 親に虐待を受ける子が、その理由を我が身の咎と決め込むように。少年もまた、全てを己の悪性あくしょうゆえと信仰している。
 もう一度嘆息すると、少年は目を閉じた。
 慣れていた。慣れた、つもりでいた。
 だが今日のようなことがあれば、どうして自分だけが、という気が起ころうというものだ。潮路の流れのように、己の力のままに氾濫してしまいたくなるときすらもある。
 だが恣意しいのままに悪行を働くには、少年は分別がありすぎた。
 殴られれば痛い。痛くて悲しい。単純で当たり前のことだから、彼はそれを他人に施そうとは思えない。思わない。
 けれどそれでも先を思うと――これからもこうして、窮屈に生き続けねばならぬのだと考えてしまうと、ひどくみ疲れる心地だった。何もかもを放り捨て、わっと叫んで闇の中へ駆け込んでしまいたい衝動が渦を巻く。
 分別の垣根を踏み越え、彼が暗がりへの墜落に身を任せかけた、そのときだった。
 風の流れが変じたゆえか。よく聞こえる少年の耳が、かそけ歔欷きょきを捉えた。
 泣き声は少年が身を浸すのと、同じ闇からするようだった。しばし動きを止め、彼は夜に耳を澄ます。
 次に目を見開いたとき、少年の面に迷いはなかった。眼差まなざしを夜へと転じ、瞳は鋭く昏黒を透かし見る。聞こえる響きはいとけない娘のものだ。妹を持つ身としては捨て置きがたい。
 親とはぐれたか道に迷ったか、はたまた鼻緒が切れでもしたか。
 すすり泣きの理由に見当をつけながら、少年は声の主を探り――そうして、彼女を見つけた。


 泣く子は、彼よりもひとつふたつ下の娘だった。
 賑わいから外れ道から外れ、草むらで自らの膝を抱え、世の中の全部に背を向けるようにうずくまっている。
 最初に目に映ったのは、細いうなじだった。それは星明かりに白く光るようで、窃視せっしの罪悪感がふと胸に湧き、少年は慌てて視線を外す。
 ひと呼吸置いてから視線を戻し、次に見えたのは大層仕立てのいい浴衣だ。ひと目でいいところの子と知れる装いで、ますます彼の案じる心が動いた。のどかで誰もが顔見知りのような小藩とはいえ、人足ひとあしが増える祭りの時期だ。こんな場にひとりでいる金持ちの娘など悪心のまとでしかない。

「なあ」

 脅かさぬよう、わざと足音を立てて寄ってから、声をかけた。

「なあ、どうした?」

 返答は小石だった。「あっち行け」とばかりに、娘が投げて寄越したものである。明らかな拒絶であり、彼女に振り向く素振りはまるでない。
 むむ、と少年は眉を寄せる。いかにも手強い籠城の気配だった。助けを求めようにも、舌と知恵の回る友人の姿は傍らにない。
 立ち去らぬ彼へ向け、少女がまた石を投ずる。
 少年はまたしても小さく唸り、しばらく娘の背後にたたずんだのち、やがてきびすを返して駆け去った。
 その勢いは憤慨を思わせるもので、だから――

「ほら」

 しばらくののちに再び、そして不意に正面から落ちてきた声に、少女は思わず顔を上げた。
 今度は足音と気配を殺して現れた少年は、涙の痕の残る面へ、ぐいと右手を突きつける。そこにはあめの鳥が握られていた。あしの茎先に飴をつけ、息を吹き込んで鳥の形に膨らませた品である。祭りの屋台には至極ありふれたそれは、少年が駆け足で買い求めてきたものだった。
 困惑に満ちた娘の目が、やがて飴に移ったのを確かめてから――

「ほら」

 彼はもう一度言って、自身もしゃがんで微笑ほほえみかける。まだ濡れた瞳をぱちくりと瞬かせてから、少女は突きつけられた鳥をおずおずと受け取った。
 女は甘味と美男で釣るべしとは、妹で成功体験を得た教訓である。生憎あいにく美男は品切れだが、甘味の方は活きた模様だ。

「やっと、こっちを見たな」
「……っ!」

 にんまり笑えば娘はまたふいと顔をよそへ向け、けれどすぐに戻して、「あの」とささやいた。

「もしかして、当たりましたか」
「んん?」

 首をかしげたところで顔を指差され、少年は我が頬のことを思い出した。単純極まりない彼は青あざも胸のわだかまりも、すすり泣きを耳にしたそのときに、すっかり忘れ果てていたのだ。道理で飴屋の親父がもの言いたげにしていたわけだと、今更ながら思い至る。

「ああ、大丈夫だ。これはお前の石じゃあなくて、父上の拳骨げんこつだ」

 気遣いのつもりで、逆に気を遣わせる言葉を吐くのが彼である。聞いた娘は幼いなりに事情を勘繰かんぐり、結果露骨におろおろとした。

「ええと。それは大丈夫ではない、気がします」

 おとがいにひとつ立てた指を当て、黙考したのち少女はつぶやく。幼さとは裏腹に、感情を抑え慣れた、静かで理知的な声音こわねだった。投石についてひとまず置けば、やはり随分育ちがいい。

「私のことなど放っておいて、早く帰って謝って、それで仲直りするべきなのではないでしょうか」

 生真面目そうな提案に、いや、と少年は首を振った。

「今帰ったなら、それこそまた怒られる。義を見てせざるは勇なきなり、だ」

 少年の口ぶりに、彼の言う義がひとり泣く自分へ手を伸べることだと気がついて、娘はたもとで目尻をぬぐった。含羞はにかみかけ、無表情を装うべくきゅっと口を結ぶ。

「……お節介だと、言われませんか」
「耳にタコができている」
「それでも、するんですか」
「オレは人よりもずっとずっと、励まねばならない身の上だからな」

 諧謔かいぎゃくの中に諦念をにじませつつうなずいて、「それに」と彼は付け加えた。

「苦しい折にも善を現せる人間こそが大したものだと、父上が言っていた」

 敬意と憧憬どうけいに満ちて父親の言葉を語るさまに、娘は細い首を小さく傾げる。
 こんなに腫れ上がるほど殴られておきながら、この少年にとって父とは変わらず偉大なものであるらしい。不仲なのか、そうでないのか、今ひとつわからない。

「仲、いいんですか?」
「悪くはない」

 思わず問えば、即答だった。

「でも」
「悪さをしたのはオレだ。だから、父上が正しい」
「納得はしていないんですね」

 自身に言い聞かせる調子に気づき、娘が遠慮なく重ねる。少年はぐっと詰まった。

「……少し、話してもいいか」
「はい」

 頷きに力を得て、彼は束の間目を閉じ、息を吐いた。

「今日のことだ。妹が、言葉の石を投げられた」

 彼の妹は気が強い。強いが、それは身内にのみ発揮されるものだ。少なくとも兄のいないところでは、借りてきた猫のように人見知りして大人しい。それが同じ年頃の悪餓鬼わるがきどもには、格好のからかい相手と映るのだろう。悔しくも彼の目の届かぬところでその種の行いはしばしばあって、そのたびに少年は友人とともに、仇討ちに出陣したものである。 

「母上は、妹を生んで他界した。そのことを、あげつらわれた。ちょうどオレはそれを聞きつけて――」

 だが、今日のそれは殊更ことさらに残酷だった。
 お前は親を殺して生まれてきたのだなどという口は、到底許せるものでも、聞き流せるものでもない。

「だから、言った奴を殴った」
貴方あなたは少しも悪くないと思います」

 娘はぎゅっと拳を握り、すぐさまそう告げる。どこに、そうも強く感情移入する要素があったのか。先ほどまで自分のことだけにうるんでいた瞳が、今や少年の事情で泣き出しそうに揺れている。
 だがその弁護に、彼は首を横に振った。

「父上が割って入らなければ、オレは相手を殴り殺していたと思う」
「……」

 さすがに声を失くした娘を見て、ああしまったと彼は頭をく。見知らぬ間柄なればこそ吐露できる心情がある。しかし、それにしても胸の内を漏らしすぎた。修練が足りない。
 そう思ったからその先については口をつぐんだ。
 目を落とした拳には、肉を打ち骨を折り砕いた感触がまだ残っている。憤激のまま膂力りょりょくを振るえばどうなるかなど、わかりきっていたというのに。

「でも。でもやっぱり、貴方は悪くないと思います」
「そう言ってもらえると救われる」

 感謝を述べると、少年はしゃがんだまま堤を見上げた。

「実は妹も同じことを言ってくれた。だが、オレが自分を許せなくてなあ」

 ゆっくりしたため息と一緒に、胸の奥のしこりを吐き出す。

「今日は父上と妹とここへ来るはずだった。楽しい時間になるはずだった。だのに、オレはそれを台なしにしてしまった」

 行いに悔いはない。それでも、軽挙が損ねたものがあるのは事実だった。もっと上手いやり方があったろうに、自分はそれができなかったのだ。

「難しいですよね」

 自嘲する横顔に、そっと少女が同意を示す。

「何が正しくて何が悪いか。それはとても難しいです」

 やはりわらべらしからぬ言葉は、けれど諦めを知る微笑にひどく似合った。

「たとえば私のおっと……父は、よくない商いをしています。悪事ではありませんが人に好かれない商売で、だから、私にも色々とあります」

 ああ、とそれだけで少年は理解する。
 この娘もまた、迫害しても構わない相手と、異質と見做みなされているのだ。語られた通り、彼女の親の生業せいぎょうゆえに。
 子供は大人が思うより、遥かに空気に敏感だ。露わにせぬ大人たちの軽侮を鋭くはしこく嗅ぎ取って、娘をしいたげる名分としたに違いなかった。そして、そうしていい理由があると信じたら、いくらでも残酷を行えるのが人である。

「父が仕事をするから、私が食べていけるのはわかっています。私のためにしてくれる、正しいことなのだと思います。でも、やっぱりときどき嫌いです。今日みたいなことがあると、父が父でなかったらと思ってしまうから」

 少女は今宵、友人と約束をして川祭りに来たのだという。
 友人は近所の染物屋の子で、幼馴染だった。少女の父親のことなど、何も気にしないように付き合ってきた仲だった。けれど彼女は、いつまで経っても約束の場所に現れなかった。

「何かあったのかと心配になって、あの子の家に行こうとしました。そうしたら、通りすぎたんです」

 娘の前を横切ったのは、同世代の子供の集団だった。和気あいあいと男女入り交じるその中に、彼女の友人の姿もあった。一瞬確かに目が合って、けれどすぐに逸らされた。

「いいんですけどね。よくあることですから。でも、それなら最初から近づいてこないでほしかった。そうすれば、期待だってしないのに」

 声も震わせずに言い切って、娘はそこで立ち上がる。少年に背を向けて、やはり華やかな堤を見上げた。期待しないとは、彼へも向けた言葉であったろう。それをわかったその上で、少年は「そうか」と頷いた。なんでもない顔をしながら、自分だけではないのだなあと省みていた。
 さっきまで、自分だけが特別で、自分だけが辛いのだと考えていた。だが、そうではない。悩んで苦しんで求めて足掻あがく。それは己の身のみにあることではないのだ。簡単には除けられない理不尽を、この娘とて味わっている。そう感得したとき、もう少しだけ頑張ろうと素直に思った。

「お前は、父上が好きなんだな」
「ときどき嫌いと言いました」
「それでも心底嫌いなら、ここでひとりで泣かないだろう」

 本気で親の稼業を厭うなら、父のありようを憎むなら。何も考えず家へ駆け戻って、その父へ八つ当たりすればいいのだ。それをせずに暗闇にうずくまるのは、この娘の優しさに他ならない。友人と出た娘が驚くほど早く帰れば、泣き濡れた顔のまま戻れば、親は当然何事かあったと感づくだろう。そうさせぬために、彼女はひとりきりここで声を殺していた。己を殺し切れるまで、家路につこうとしなかったのだ。
 この推察は正鵠せいこくを射ていたらしく、図星を突かれた様子で少女は黙する。口を結んだまま、不満の眼差しで少年を見た。

「早く帰って甘えればいい。オレならそうする」
「お節介だと、よく言われませんか」
「耳にタコができている」

 もう、と頬を膨らませてから娘は笑んだ。今度は歳相応の、屈託ない笑みだった。

「オレの友人に頭のいいのがいる。そいつはこう言っていた。『後悔先に立たずとは、まず動かなければ悔やむことすらできないという意味だ』、と」
「ご友人に責を負わせるんですか」
「この場にいない人間は言い返さない。押しつけるにはちょうどいい」

 真面目腐って言い放てば、娘は行儀よく口元を隠して、またくすくすと笑った。
 尻を払って立ち上がり、少年は大股に一歩前へ出る。軽く顎をもたげて堤を眺めた。娘も合わせて向き直り、ふたりは揃って祭祀を見つめる。

「世の中って、難しいですね」
「ああ。難しいなあ」

 笛、鉦、太鼓に笙の声。笑いさざめく人の群れ。
 愉快と幸福のさざめきを聞きながら、夜の中、少年少女は大人びた嘆息をする。

「……でも」

 祭囃子に消えそうな小声で、やがて娘は囁いた。

「でも貴方のお陰で、私は泣き止めました」

 そうして手の中で、鳥飴の軸をくるりと回し、淡く笑った。
 少年は目をみはり、それから、「やはり我が友は明晰だ」と胸の内で称賛をする。
 自分の行動は、それこそ良い悪いも知れぬ世話焼きにすぎない。だが彼の言葉に従ったお陰で、少なくとも今日、オレは上手くやれた。どうにか涙を止められて、後に悔いを残さなかった。この娘は、ひとり泣き疲れて帰るより幾分か上等な心地で家路を辿れるはずである。
 万事の解決には至れずともそれは誇れる栄誉に相違なく、ならば自分も捨てたものではなかろうと思った。少しばかりは世間の役に立てたのだと信じられた。
 我が身は日月じつげつのごとき強い光は備えない。だが今宵は花明かりに――些少さしょうながらも夜闇を照らす道しるべになれたはずだ。
 かねてよりの志を叶えた興奮から、川端の普通は先よりも近く感じられた。
 ふと隣に目をやれば、そこには娘のかんばせがある。行き交う光を一心に追うその横顔を、少年は綺麗きれいだなと思った。


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