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第01章――飛翔延髄編

Phase 61:考え中の市井の少女

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《ヘルジーボ》対Sm組織発生ピンポイント阻害剤。Sm組織を構成する造成細胞内にあるSmNAの分子合成プロトコルを疑似命令物質によって阻害する。組織の分子合成プロセスに伴う破砕活動は継続するため、組織が自然と崩壊を始めることで組織は急速に壊れていく。主に皮膚構造や筋肉構造、そして一部の骨組織の形状安定に用いられる薬剤。組織間質液から造成細胞内の作用に重点を置く一方で、工業血液中に入った場合、大量の解毒抗体によってその作用が無効化されるように、あらかじめ機体に予防処置を施すのが常である。それでも乱用すると機体の破壊と不調につながるのは言うまでもない。












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『命令に従う気になったのか?』

 責任長の鼻を括った物言いを受けて、整備士は慎重に答えた。

「それも検討しましょう……」

 ベンジャミン、と少女が留める口ぶりで呼ぶ。
 しかし、彼の言葉は続いている。

「だからこそ、もう少し時間をくれませんか。計器類の接続も完了しましたし、機体の活動を秒単位で逐次チェックできる。変調の推移を調べれば不調個所と原因もわかる。それにソーニャの作戦だって……無謀もいいとこだが少なくとも公算はゼロじゃない上、機体の被害は限定的で外科的なものにとどまる。そうだろソーニャ」

「……うん」

 少し間があったがベンジャミンは。

「それに思い出してくださいよ。今この機体は街の上を飛行しているんだ。もし作戦が失敗したときは社員一人に全責任を被せて終らせられると思いますか?」

 責任長は口ごもった。
 ソーニャも深く相手の思惑を理解し、問い詰める。

「まさか本当に、失敗したらベンジャミンとソーニャに責任を押し付けるつもりだったの?」

 責任長は図星という臓器を刺された気がして居心地が悪くなる。加えて無数の鋭い視線に心情を炙られ、口に苦いものを味わった。飲み込んだ唾で舌を襲う枯渇を誤魔化すと、乾いた唇で言葉を紡ぐ。

「人聞きの悪いことを言うな。私は自分の責任を果たすだけ。その結果が芳しくなかった場合は当事者が自分の領分内の責任を負うのは当然のことであって……」

 みなまで聞くことなくベンジャミンは得心いった。

「話は分かったし、あんたの意図も理解した。だからこそ、できる限りのオプションを確保して作戦に臨んだほうがいい。この機体の調子が悪いのは明白だからな」

「というと」

「さっきから、拍動の間隔が一定じゃない。よくある期外収縮の可能性もあるが。場合によっては多臓器過流動の可能性もある。つまり、それぞれの臓器が自分の不調を回復するか、あるいは機能低下を補うために人工血液による補給を活発化させているということだ。これは臓器の警告だ。この状態では、全身に対する麻酔がとどめとなって臓器が停止するかもしれない。そうなると強制再覚醒、つまり臓器の再起動も考えないとならん」

『そちらもすでに投薬しているのではないのかね? 麻酔がダメというなら君たちの行為だって……』

 ソーニャ曰く。

「ヘルジーボは造成細胞に直接作用する薬で患部に対する直接注射なら効能と副作用は限定的に収まる。ニキビケアの薬みたいなものだよ。ニキビケアの薬をお肌に塗って、全身に不調が起こることなんて、そうそうないのと一緒で。ヘルジーボに起因する不調は大方、投与個所の組織不全、つまり皮膚トラブルくらい。それに機体の大きさをちゃんと考慮して投薬しましたから、ご安心を」

 それでも絶対ではありませんが、の呟きは無線に乗せす胸にしまうソーニャ。
 ベンジャミンは援護する。

「もしヘルジーボで異変が起こるなら、まずは骨格組織である皮膚や腹腔壁の炎症反応が起こり、そのあと臓器異常、とくに組織再生頻度の多い胃嚢の吸収回腸の発熱が見られる。だが、今その兆候はない。俺のいる腹腔は奇麗なもんだし。臓器に異常があれば既に機体は落っこちてるだろう。そんでもって不整脈の気配は投薬前から伺えた。ということで、こちらの投薬は問題に当たらないと断言します」

「長々と、自分たちの責任回避どうも」

 皮肉だけの言葉にベンジャミンは話の腰を折らせず、発言を続ける。

「重力牽引をするなら相手が動かないことが前提だろ? だが、いきなり停止させたら墜落だ。つまり全身の動きを着実に、ゆっくりと止めていきたいんだよな? それこそパイロットが制御できる範囲内で。有事の時のために。もしそうなら薬物投与は慎重を要する。同じ大きなリスクをとるなら有利なほうがいいし、それでなくとも、計測の結果を鑑みるべきだ。決行するにしても別の策をとるにしても」

 黒制服に耳打ちされて責任長は、わかっている、と小声で返す。

「あんたが急ぐ理由は高度だろ」

 現場の整備士の発言に責任長は顔にしわを刻む。



 ミニッツグラウスの機内ではマクシムが、うろつき、たびたび聞こえる物音に顔をしかめた。
 ピートが、便所なら後ろにあるらしいぞ、と告げてタラップの脇にある膨らんだ個所の扉を指し示す。

「ちっげぇよ! 俺が気にしてんのは物音だ。ったく、一体さっきからこの音はなんだ?」

 彼の指摘通り、あからさまに機体をたたくような激しい音が不規則に鳴っていた。
 マクシムは操縦席に近づきパイロットのヘッドフォンをずらし、問い詰める。

「機体の音がやけに煩いんだが大丈夫だよな?」

 いきなりの訴えと頭上から響いた物音に肩をすくめたアレサンドロは、当惑する。

「成長音か何かだろ。組織の大きさが絶えず変わって、位置が移動して金属部材を曲げてるのかもしれない。内臓とか筋肉とかが活動してるのさ。あんたが投与した薬の作用だよ」

「はぁん……そうかよ。俺のせいかッ。なら、落ちなければいい」

 機内の熱に包まれ、汗にまみれたアレサンドロ。彼の操縦桿を握りしめる手の甲に血管が浮かんだ。



「どういうこと?」

 ソーニャは再生を繰り返す組織に薬剤を注射しつつ、ベンジャミンに尋ねた。

「ナスの限界活動高度は、大きく見積もってもメートル換算で5000。一方この機体ロックは最大で7000まで上昇できる。飛び上がっちまう前に活動を停止させないと、手出しできなくなる。さすがのあんたも万全のロックをヒポグリフで引っ張りまわすバカはしないだろ。今どれくらいだ? 多分もうそろそろ4000か?」

『わかっているなら』

「わかっている。だから、もしあんたの作戦を決行するなら最高の形で実現するべきだ。ソーニャのSmなら確実に犯人を取り押さえられる。そうなれば俺も機内に入って操縦桿を握ることも可能なわけで。機体の制御に問題が発生していたら、その時こそ、あんたの出番だ。俺と一緒に共同作業しよう」

 話の最後、ベンジャミンはソーニャを呼ぶ。
 名を呼ばれた少女は、なに? と応答した。

「お前の作戦。いつ結構できる」

 ソーニャはメスを握る手を止めた。

「いつでも……けど、その、一つ懸念が」

「人質だな?」

 すぐに回答しなかったことがソーニャの苦悩を物語り、理由は心情を伺わせた。

「スロウスで突撃することはできるけど。突撃したところで人質に銃が突き付けられたら、手出しできない、かもしれない……」

 責任長は鼻であしらう。

『結局できないのではないか!』 

「できないんじゃないの! あと一つ。あと一つ心配がなくなれば絶対成功できる。あるいはスロウスが気づかれる前に機内に突入できれば、うわっとッ!」

 足場が傾げたソーニャは転ぶ。しかしスロウスがさっと出した手が受け止め、事なきを得た。

「ソーニャ!」

 エヴァンが無線に呼びかける。

 傾く機内ではマクシムが壁からが忌々し気に体を引き離す。

「一体何なんだ。おい、パイロット何やってる!」

 アレサンドロは若干声を荒げた。

「何もしてない。片方のエンジンの調子がが悪いんだ。それに補助翼も……警報が出てる。これからも、度々こういうことが起こるかもしれない。少し我慢してくれ」

 マクシムは舌打ちした。

「下手な真似したらガキの体に穴が増えるぞ」

 間近で宣告されたアレサンドロは、我が子に銃口が向けられるのを見ることなく理解した。
 彼の手は力み切って震える。

 ソーニャは無線機に応じる。

「大丈夫。ただ、機体が少し暴れただけ。ベンジャミンは?」

「俺は平気だ。ただ、ちっとばかし内部の熱が上がりすぎて辛くなってきたから外の近くに出てる」

 ベンジャミンは胴体と導管を紐で連結し、開口部に近づいて下に広がる町を覗き込んだ。
 その隣では、細く筋張った手足を駆使してナスが外に頭を出す。
 穴の大きさを確保するフレームを外さないように通り過ぎる分別と操縦技術が、ナスの操縦者にあることを確認できた。
 そして手元のモニターでは、心電図とその他の数値が表記される。

「今心拍数は毎秒1500回に到達した」

「それって、この機体としてはどうなの? 普通?」

「いいや、三連拍動心臓にしては多すぎる。幸いなことに内臓温度は一定を保ってる。といっても少し高いがな」

「筋肉の体温は200度近くなってるんじゃ……やけどに気を付けて」

「ああ。その心配はない。外装がないことが功を奏したらしい。心臓から離れたら、むしろ寒いくらいだ」

「こっちの気温は30度に届きそうな程度。多分筋肉が少なくて皮膚が薄いから放熱されてるんだと思う」

「よかった。それなら熱暴走、および脂肪発火のリスクはないな」

 懊悩を極めたソーニャは温度計を鞄にしまう。立ち上がると、またしても振動によって体の重心がぶれる。思わず手を伸ばしたのは太い肋骨。あと少しずれていれば、窓を隠す白い組織を押していた。

「あぶねぇあぶねぇ、窓ガラスぶち破るところだったぜぇ……」

 その時、目を開け、しばし考え込んでから、口を開く。

「ベンジャミン、ミニッツグラウスのガラスって固い?」

「内と外の気圧差に耐えるために一般家庭のものより分厚く強固だが強い力を加えれば割れる」

「スロウスのパワーで一瞬で砕ける?」

「……何をするつもりだ?」

 少女はマスクの中で、厳しいまなざしを作る。

「……今回の犯人たちと同じことをする」

「なんだって? それっていったい……」

 責任長が、つまりどういうことだ? と尋ねたのは黒整備士で。無線は完全に無視していた。

「ここは助力してもらったほうが確実、かと……」

「できるんじゃなかったのか? 我々の力だけで」

「腹腔からの投薬ならば試験部隊でも可能でしょう。しかし強引な手段になるのも事実。正確な情報取得と不足の事態に対処するため、ここは、お互い歩み寄るのが肝要かと」

 格納庫の無線機は突如、ソーニャの声で責任長をという肩書を発する。
 呼ばれた当人は忌々し気に、なんだ、と応えた。

「ソーニャに時間をください」

 何を言い出すかと思えば、と責任長は白けた表情になる。
 それでも、少女は言葉を重ねた。

「今、機体の調子も悪いしソーニャの作戦が失敗したら、その時はどんな責任もソーニャに覆いかぶせればいい。だから、その前にソーニャに一つだけ試させてもらいたい」

「君の提案を聞き入れて私に……ではなく、この空港になんのメリットがあるんだ」

 それは、の続きが思いつかないソーニャ。
 代わりにベンジャミンが語った。

「投薬するならするで構わない。だが薬剤投与で機体にいらぬ内科的ダメージを与えるよりも、Smの突撃によってダメージを局所に抑えて機内を制圧したほうが確実のはずだ」

「でも……」

 わかってる、の一言でベンジャミンは言葉を遮った。
 責任長はあざけるように言った。

「子供の言うことを真に受けて命を懸けるというのか?」

「ああそうだ。直接腹を割って話して確信したんだ。ソーニャは、まだ子供だが、それでも大人よりも肝が据わって信念もある。もし命を懸けるなんてバカげたことをするなら、俺は、信じられる相手に命を預けたいんだ」

「ベンジャミン……」

 ソーニャは生まれも性別も年も違う戦友の名を唱えた。
 ベンジャミンは重圧を押しのけるように、努めて平静な口調で言う。

「もとから命がけの突入だったんだ。なら、なんでも賭けてやる。けど、賭けたものの使い道と託す相手は最後まで選ばせてもらう」

 ソーニャは息を飲む。それは覚悟を試されたからではなく。同じ覚悟を共有し、そして一人ではないことに心を打たれたからだ。

「……うんッ」

 その一言だけで少女の意思は開示され、運命を共にするほかならぬ表明となる。










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