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第01章――飛翔延髄編

Phase 07:傷を見た天使

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《リバーサイド殺人現場火災事件》××○○△年06月21日 ミシガマ州のスリーサウザンドリバーの郊外にあった古いSm整備工場にて、ニコラス・ペンコフスキー氏が何者かが差し向けたSmに惨殺された。被害者は移住者で、Sm技師として修理業を請け負い、近隣の住民とも良好な関係を築いていた。そのため地元当局は近隣住民が犯人である可能性は非常に低いとみている。被害者には娘がいたが、そちらは偶然現場に居合わせた老人に保護され、犯行に使われたSmは回収され、業者に引き渡されたという。しかし犯行現場は地元当局が到着する前に、謎の火災に見舞われ事件の証拠はもちろん被害者の遺留品も焼失した。
〔中略〕
 この事件の不可解な点は他にもある。それは、現場に残された多数のSmの残骸。実は、現場に居合わせた老人の証言によると、火災の前と後で損壊したSmの数が増えていたというのだ。地元当局の調査では、ペンコフスキー氏の個人的なトラブルが事件の原因であるとみているが、未だ手掛かりをつかめずにいる。

――とある地方新聞より抜粋――














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 夕食時を若干逸した頃。空では星が瞬いていた。
 リックは上階の台所でインスタントヌードルを物色し、二つほど選んでソーニャの部屋の扉をノックした。

「ソーニャ。夕食だがインスタントヌードルでいいか? あ、それとも、どこかへ食べに行くか? ヘザーのパンケーキ大好きだろ? 久しぶりに出来立てを食べようじゃないか」

 提案するが、しばらくしても返事がない。

「ソーニャ……寝たのか?」

 やっぱり無反応だ。リックは焦燥に駆られる。

「入るぞ。いいか?」

 これでもかと尋ねたので扉を開けた。
 電気をつけると、少女趣味全開のファンシーな部屋が明るみになる。ピンクとクリーム色の家具に敷物。点在するぬいぐるみ。窓辺では、琺瑯ほうろうびきの器の中で、球根か目が出たジャガイモのような塊がタコの吸盤じみた大きな口を開けて円に並んだ牙を晒していた。
 リックはとりあえず、インスタントヌードルを手近な机に置き、子猫を撫でるような手付きで肉塊と触れ合う。

「おうおうアイザック……元気だなぁ。ご主人様に感謝しろよぉ」

 アイザックの主が眠っていると思い、膨らんだ毛布を覗き込んだ。

「具合でも悪いのか……ソー……ニャ」

 一気に表情を険しくしたリックは毛布を引きはがす。眠っていたのはソーニャ、ではなく、彼女くらい大きいコアラのぬいぐるみであった。
 リックは蒼白になるも、コアラが抱く便箋を手に取り、朗読する。

「リックへ……これを読むころには、わたしは……」

『わたしは、ミッドヒルに向かう飛行機に乗っていることでしょう。危険なのはわかっています。でも、いてもたってもいられなかったのです。マイラを必ず見つけて無事二人で帰ってきますので、待っていてください
 by ソーニャ・ペンタコフスキー』

 リックは目も口も開け放ち、茫然とした。











 場所は変わって、デスタルト空港――機体格納庫



 広く暗い空間でソーニャはヘッドライトの弱い光を方々に向けていた。並ぶ航空機を一機ずつ照らし確認する。プロペラ機、ジェット機、そして、頭を体に添えて眠る怪鳥、翼膜を体に巻き付けるトカゲ、丸く膨らんだ胴体をコクピットにしたコガネムシ。
 足取り慎重なソーニャが抱えているのは大きな木箱。背負っているのは膨らんだ鞄。頼りにしたのはレントンとの会話だった。





「確か、飛行機って、どれも絵が描いてあるんでしょ」

 トミーとリックが内密に話している間。ソーニャもレントンと対話していた。 

「多分そいつはノーズアートってやつだな」

「そうそれそれ! おじさんの飛行機はどんな絵が描いてあるの?」

「俺の機体『ディノモウ』には、インゴットクロコダイルの絵が描いてあるんだ。いかしたデザインで遠くから見てもすぐにわかる。今度、空に注目してみな」





 レントンが去った後ソーニャは、リックが自室にこもったのを見計らい、こっそり部屋から出てスロウスに近づき伏し目がちで、ささやく。

「すぐに戻ってくるから、ついてくんじゃねえ」

 ドアからガレージを出てすぐ、外に放置されていた木箱を回収した。

「よし!」

 夜道を駆け、途中でピックアップトラックのタクシーを捕まえ、荷台席で揺られ、そして今に至る。
 この格納庫はよく知っていた。
 航空用Smの整備の助っ人としてリックが呼ばれたとき、あるいは備品の納入の時について行って何度も訪れた。その時は、危ないからってトラックの運転席から出してもらえなかったが。それでも空港のゲートを守る職員と顔なじみになれた。おかげで、職員に木箱の伝票に書いてる『Sm部品』の文字を見せつけて納得してもらえたし、専門用語を並べ立て、どれほど差し迫った状況であるか、もし入れなければガレージが倒産する、と泣き落とし、結果、秘密裏に中に通してもらえた。

 ソーニャは立ち止まる。

「あった……」

 彼女が見つけたのは、円形の白い枠から飛び出す川に乗る灰色の体色のワニの絵。それを描いた機体は見上げるほど大きいプロペラ機だった。
 ソーニャは腕を組む。

「さてと……話によると出発は早ければ明日の午前9時になるって……言ってたっけ? その前にスケジュール確認があって、荷物の積み出しがあって……この木箱を運んでもらう」

 悪い笑みのソーニャは木箱を見つめて策略を脳内で検めた。
 計画は単純明白である。
 まず使うのは持ってきた木箱。以前、Smのパーツを取り寄せたとき届いた梱包材で、使えるかもと思い今までとっておいた粗大ゴミだ。これに新しい伝票を上から張り付けて、送り主に『ディリジェントビーバーガレージ』の文字を書き綴り、送り先には『ミッドヒル』と書いて輸送の項目には『ディノモウ』レントンの輸送機を明記する。
 こうすれば、この機体に否が応でも積み込まれる。はず! そうでなくとも事情を知っているレントンのもとへ運ばれ、勝手に解釈して、運んでくれると踏んだ。友人のためにあえて危険に行こうとするのだから、いい人に違いない。ならば、わかってくれるはず。
 人の良心を利用する罪悪感も少しあったが、それ以上に自身の計略に感嘆するソーニャ。しかし、ふと気が付いた。

「まてよ……荷物なら倉庫にあるほうが自然か……。だとしたら、今すぐ倉庫に行って、この木箱に入り」

「朝まで運ばれるのを待つか?」

「そうなんだよ……ん?」











 血相を変えたリックは、慌ててガレージのドアを開ける。だがドアは何かにぶつかり阻まれ、ブフ、という不完全な声が響いた。

「ソーニャ?!」

 リックを待ち受けていたのは、赤くなった額を涙ながらに抑えるソーニャ。そしてそんな彼女の首根っこを捕まえていたレントンであった。

「な、なにが起こっとる?」

「実はな……空港に書類の作成を求められて格納庫に立ち入ったんだが……」

 語りだしたレントン。






 ソファーに座らされたソーニャは仁王立ちするリックを上目遣いでうかがう。だが、直視もできず、リックの鋭い眼に縮こまってしまう。

「いったい何を考えてるんだ。不法侵入までして。うちの名前まで使ったそうだな」

「ご、ごめんなさい」

「ごめんで済むわけないだろ! もしものことがあればお前ひとりの責任じゃすまないんだぞ!」

「うぐ」

 ソーニャはもちろん、傍らで聞いていたレントンも身がすくんだ。

「ま、まあ、大事にならなかったんだし、子供のやったことだから」

 リックは外野の言葉を睨みで跳ね除ける。

「そういう問題じゃない……。あんたには迷惑をかけたから偉そうなことは言えんが。でもな、ソーニャのことだけは言わせてもらう。あんたの言う通り、確かにこいつは子供だが悪知恵が働くくらいには物事をわきまえている。なら良し悪しもわかるはずだ。だな?」

「……はい」

「二度とこんなことをするな。わかったな」

 反省の弁や制約を求めて、しばらく待ってみるが、しかし、ソーニャは俯いて何も言わない。
 リックは眉をひそめる。

「返事は?」

 ソーニャは答えない。リックは怒鳴る。

「ソーニャ!」

 それに反応したのは呼ばれた当人ではなく、レントンのほうで、思わず肩を跳ねてしまう。すると

「じゃあ……」

 ソーニャが口を開く。
 酷く聞きにくい語り出しにリックは耳を傾けた。

「なんだ?」

「じゃあ……マイラは、どうするのさ」

 わかりきった問題にリックは渋面した。

「少し先になるが、必ずワシが迎えに行く。だから」

「でも、その前に、もしものことがあったら」

「そんなことにならん」

 言い切ったリックは、ソーニャが顔を上げた途端、息をのんだ。
なぜなら、彼女の目にあふれる涙が痛烈に訴えるからだ。何を言わんとしているかを。

「わからないでしょ? 本当に無事かなんて……。リックだって見たでしょ。マイラのメッセージを。どう考えたって……心配になっちゃうよ」

「だから……」

 顔をそむけたリック。
 ソーニャは声を震わせた。

「だから心配なんだよ。今どうしているか、怪我はしてないか。何もわからないから。だから、今すぐ会いたい」

 大人たちは、もとより分かっていた。どうして少女が暴挙に及んだのかを。だから明確な反論が出てこない。

「ワシだって、無事を確かめたい」

「だったら」

「でも、どうしようもないだろ。市長のいうことを聞かなきゃ。本当にガレージを潰されかねん。そうなればマイラが戻ってくる場所がなくなる。そうならないとしても、この街から出してもらえるかわからん。それに……向こうも約束した。ワシが仕事を果たせばミッドヒルまでの足を用意してくれる、と」

「でも、本当に市長が約束を守ってくれるかわからないよ? 約束を守りたくても。戦況によって、できなくなるかも」

 レントンは視線を下げた。
 リックは正直にうなずく。

「だな、けど約束を破る必要もないはずだ。そして、市長の力を借りるのが一番確実な方法だと思うんだ。いけ好かないが市長にはコネがある。老人一人を遠出させるくらい訳ないはずだ。なんだったら移動手段を用立ててくれるなら、こっちで費用を負担することも掛け合う。それでガレージを手放すことになっても、少なくともマイラのもとに行けるなら……。だから、お前が危険な目に合う必要はない」

 リックはソーニャの肩を優しく掴み、片膝をつくと、諭すように少女の目をまっすぐ見上げる。
 けど、ソーニャは首を縦に振らない。

「いやだ」

「わかってくれ」

 ソーニャは、静かな涙をこぼす。

「わかってるよ……。ぜんぶ、全部……。ソーニャが子供だってことも、リックがソーニャを心配してくれてることも……ソーニャのせいで、リックが行けなくなったのも」

「ソーニャ……」

「ソーニャが、リックに頼まなければ……」

「それは……それだけは違う」

 老人の語気が強まる。

「……」

「お前に技術を教えたことは、誰にも、お前にも、否定させはせんッ」

「リック……」

「お前がマイラを心配する気持ちはわかってる。だが、ワシは、お前にも、危険な目にあってほしくないんだ」

「でも、ソーニャだって、嫌なんだよ。何もできないまま……自分のせいで、家族が傷つくのが」

「ソーニャ……」

 リックが思い出すのは、初めて出会った時の陰惨な光景である。
 ソーニャもまた老人の目を通して彼女自身の記憶を見つめていた。
 暗く、冷たく、残忍で、心を引き裂く悲しい記憶。

「お父さんが死んだときも、ソーニャは何もできなかった。助けられなくて、結局、お父さん、死んじゃった」

 横たわる父親の体からは血が広がった。今よりも幼かった自分は、その赤い海に膝を浸し、縋り付いて泣きじゃくるしかできなかった。笑顔にあふれていた顔は色を失い、表情を失い。いつも優しく抱きしめてくれた腕は硬直して、触れる体には、何の活動も感じられなくなっていた。覗き込んだ瞳に光は消えて、どこまでも深い闇が居座っていた。

「嫌なんだよ……。また、何もできないで、ただ、悲しんでいるのは。つらいよ……マイラに、あいたい」

 ソーニャは溢れる涙で両手を濡らす。

 リックは目を閉じ、天を仰いだ。感情をこらえるように。
 老人のまぶたにも、たくさんの思い出が焼き付いていた。
 赤子を抱える妻の横顔。
 大きくなったわが子の寝顔。
 そして、遠ざかっていく家族の後ろ姿。
 幼子はいつの間にか大きくなって、自らの意思で自分のもとから去っていった。
 
 そして、また巡り合った。
 娘の面影を宿す少女が、身の丈に合わない大きなカバンを持って。
 彼女の利発なまなざしを見て、すぐに、深い絆を感じた。  
 自分にはない聡明さを持った子だと理解した。
 
 
 
 目を開ければ、もう一人の娘が、いま涙を流している。
 そして彼女にもまた、自分にはない力がある。
 
 涙に濡れてもなお、ソーニャの目には決意が宿っていた。確固たる意志を示していた。
 固く結んでいた唇が名前を紡ぐ。

「リック……」

「ソーニャ……本当に、行きたいのか?」

「うん。わたし、マイラの助けになりたいの」

 そういって、ソーニャは己の手を見下ろす。
 幼いころに刻まれたてのひらの熱傷の痕は今も醜く。不均一な肉の歪曲の重なりは、嘲笑のため吊り上げた口角に思えて、己が無力であることを痛烈に非難してくる。
 だけど無視するわけにはいかないとわかっていた。気づかないふりをしていては、一歩も踏み出せない。
 痛みも悲しみも自己嫌悪もすべて包み込むように、両手を握った。

「何もできないかもしれない。マイラの邪魔になるかもしれない。でも、わけもわからないまま大切な人を失いたくないッ……それだけは、いや」

「行けたとして、帰る方法だってわからないんだぞ?」

 ソーニャは首を横に振る。

「帰る方法ならある。必ず見つける」

「マイラと同じくらい危ない目にあう可能性だって十分にある……。お前が……お前が死ぬかもしれない」

 リックの声も震えていた。
 ソーニャは立ち上がる。

「わかってる。でも、何もしないまま、マイラが……」

 ソーニャは、またあふれ出した涙を拭う。恐怖と不安でゆがむ顔を頬を叩いて引き締め直し、そして、まっすぐリックに向かって言った。

「何もしないで家族が傷つくなんて嫌。だからソーニャは行く!」

 リックは。

「……わかった」

 ソーニャは目を大きくした。

「本当?」

「ああ」

 二人が言葉を交わす。

「待ってくれ!」

 レントンが声を上げた。

「あんたら家族の事情に部外者の俺が出る幕はない。けど、言わせてもらう。今のミッドヒルは、こんな子供に行かせられるような場所じゃないぞ。平時だって外は危険なんだ。ましてや戦争になるってんなら荒くれ者は勿論、無法者たちだって大手を振って出張ってくる」
 
 リックはうなずく。

「わかってる。だから、条件があるッ」

 リックの言葉にソーニャは首を傾げた。

「条件?」

「ああ、それは……アイツを連れていくことだ」

 リックが指し示す先を目にしたソーニャは凍りつく。
 レントンも同じものを凝視した。

「さっき俺をにらんでたヤツ……。あれは、なんだ」

 彼らが見たのは壁際で膝を抱えていた巨躯。

「人じゃないぞ」

「わかってるSmだろ。俺が言いたいのは詳しい来歴だ。人型は見たことあるが、あんなぶっ飛んだ見た目のヤツは初めてだ」

 ソーニャは視線を逸らし、震えを我慢する。
 一方のリックはSmへ歩み寄る。
 かつて、ソーニャの父親を惨殺し、そして、ソーニャによって倒された化け物。手枷、足枷はあの時のまま。変わったのは、その慎ましい所作と巨体に見合ったズボンと肌着、首の枷、そして頭部の左半分の欠損を埋めるように広がる血の色の軟組織。

「名前は、スロウス……。といっても正式な名称じゃない。詳しい来歴は、ワシらにもわからん」

「じゃあ違法なヤツ、か? だったら俺の飛行機に乗せるわけにはいかないな」

 リックは鼻で笑った。

「一応、登録番号はもらってあるから合法だ。まあ、それでも謎は多いがな。昔コイツを狙って、バカが忍び込んで返り討ちにあってたっけ」

 リックはソーニャに向き直る。

「ソーニャ、ワシが出す条件は、二つだ。一つは、スロウスを連れていくこと」

 レントンの目に映った少女の顔には、もはや涙はない。だが、その代わりに別の類の恐怖や不安あるいは混乱が読み取れる。
 ソーニャの脳裡のうりに再生され続けてきた凄惨な記憶。
 
 大人の背丈に匹敵する凶器によって貫かれた父が壁に磔にされた。
 犯人であるスロウスが振り返る。
 眼窩に宿る赤い光。

 むごい過去に身動きができなくなるソーニャ。彼女の顔に浮かぶ汗と体の震えは、今日出会ったばかりのレントンにも察知できるほど顕著だ。
 レントンが呼びかけるも、ソーニャは応答しない。
 リックは告げる。

「その条件が飲めないなら。お前を行かせるわけにはいかない」

 レントンが口出しする。

「待ってくれ、仮にこの子が、そのSmを連れて行っても危険なことには変わりないぞ?」

「いや、あのスロウスはそんじょそこらのSmとは違う。自立命令履行式で主の命令さえ聞けばプロの傭兵顔負けの働きができる。いや、こいつの場合命令がなくとも強い。
 実際、ワシはこの目で見た。ヤツが捕縛しようと向かってくる保安兵たちを素手で制圧した様をな」

 覚えているだろソーニャ、お前の父が死に、その現場が火事で焼失した後のこと。町に突如現れたスロウスが、取り囲む保安兵の武器を破壊し、襲い来るSmの口を掴んで引き裂いた。そして、お前が叫んだんだ。





 やめろーッ!!
 
 幼子の声が轟くと、騒乱がやむ。
 地べたで縮こまる保安兵を踏み潰そうとしていたスロウスは、上げた足をゆっくりと引き下げ、幼子に振り返った。





 マイラに負んぶされ、ただ泣くことしかできないと思っていた幼子が、一声で事態を収束させたとき、当時のリックは目を見張ったものだ。そして、今も、幼子の成長に胸を打たれている。

「Smのオーナーなのか、この子が? 自立命令履行式っていうが本当にいうことを聞くのか。そいつが」

「というより、もはやソーニャの言葉しか聞き入れない、といったほうが正しい。ワシたちは、なんの設定もしていないし、グレーボックスをリセットして再条件付けを試みたが、結局、スロウスを従えられなかった。ソーニャを除いて。まあ、ソーニャの命令も完全に聞き入れるわけじゃないが」

「そんなのを引き連れて大丈夫なのか?」

「スロウスの行動原理はわかっている……。ソーニャ。こいつは今お前を守ることを優先している」

 ソーニャは顔を上げた。

「違う!」

「違わないだろ。こいつは、お前がいる場所にしか居られない。事前に待機を命じなければ、お前がいなくなった瞬間、勝手に探しに行ってしまう。しまいには待機を命じられても探しに行くことさえある。そして、お前を守れない状況に、お前を突入させない。だから、マイラのもとへ行くなら、あいつを、スロウスを連れていけ。でなければ」

「一人でも平気……」

 ソーニャの声をかき消したのはリックの声だった。

「この条件だけは絶対に飲んでもらう! 譲歩はない! それが嫌なら、この町から出さん! このワシの命にけても!!」

 リックの決意に満ちた眼差しと言葉の重さに、ソーニャは何も言い返せない。

「ワシが試しているのは、ソーニャ……お前の覚悟だ。お前の意地だ。そして、お前の強さだ。過去にも向き合えないようなひよっこが。目の前の危険に立ち向かえるわけがない! ましてや誰かを助けられるわけがない!
ならば、ここにいろ。それがお前のため、ひいてはマイラのためになる。あいつだって足手まといは要らないだろうからな」

 ソーニャはうつむき、歯を食いしばる。一瞥いちべつをスロウスに向けるだけで、あの忌まわしい記憶が鮮明によみがえる。
 口から血を吐く父の青ざめた顔。裂けた腹からこみ上げる異臭。服にしみ込んだ血の生暖かさ、見開いた眼から光が消える瞬間。

「無理をする必要はない」

 リックは優しく語りかける。

「お前が苦しむ必要はない。たとえ、どんなに時間がかかろうとも必ずワシが行く。そうでなくともマイラなら無事に帰ってくるはずだ。だから」

「……わかった」

 ソーニャが答えを出した。
 リックの肩から力が抜ける。レントンも静かに息をこぼした。
 ソーニャは胸を張る。

「スロウスを連れていく!」

 ……男二人は驚愕に目を見張る。
 ソーニャは改めて表明した。

「連れていく! スロウスを連れて行って絶対にマイラを連れて帰る!」

 レントンは開いた口がふさがらず、老人にすがるような目を向ける。 
 ソーニャのまっすぐな目に射抜かれたリックは、思わず、我が目を手で覆い、唸るように声を絞り出す。

「うちの女どもときたら……どうしてみんな、こうも強いんだ」

 ソーニャはスロウスを睨む。過去からの絶望が全身を痛めつける。けど、目をそらさない。

「スロウスは連れていく。だから、行かせてもらうよ」

 リックは目をぬぐい、少女に言った。

「わかった」

 ソーニャの顔に小さな笑みが戻る。よろしくお願いします、とレントンに改めてお願いする余裕も出る。
 しかし、レントンは微妙な顔だ。
 リックは一呼吸してから、口を開いた。

「それじゃあ……もう一つの条件を果たしてもらうぞ」

 せっかくやる気に満ちたソーニャは、眉をひそめた。



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