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きっかけ ⑥

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 黒川くろかわさんとの体育館裏での出来事の翌日。
 僕に付き合ってほしいなんて言われた経験はなく、加えて姫川ひめかわさんのことやら何やらでもうわけがわからなくなって、どうにかこうにか黒川さんから逃げ出した次の日。

 あれほど女の子から距離を詰められたり、息がかかるほど顔を近づけられたりしたのは初めてで、僕は思い出してはドキドキしてこの日ずっと上の空だった。

 午前中の授業はテストの返却が大半だったとしか記憶がなく、朝から僕を心配して現れたのだろう友人Dにも何と言ったのか覚えていないほどだ。

 それでも昼休みになると毎日のように昼食を食べる場所にと足は向き、今日もみんないる気がしながらドアを開けると誰もいなかったのだが、一人なら一人でいいかといつもの場所で昼休みを過ごした。

 しかし一人で過ごしたからか、昼休みもずっと頭の中は告白するつもりだった姫川さんではなく、逆に告白されたみたいになった黒川さんのことでいっぱいだった。

「へー、屋上ってこんなふうになってるんだ。知らなかったー」
「な、なっ、なんでここに!? どうしてここだと!?」

 そんな状況だったから聞こえた黒川さんの声が幻聴かと一瞬思ったら、現在一番会いたくない黒川さんが本当に目の前に現れて、僕は驚いて椅子から転げ落ちそうになった。
 そして瞬時に「逃げなくては!」と思った。

 だけど、出入り口が一つしかないこの場所では黒川さんの背後にあるドアまでいって逃げだすことも容易ではなかったし。
 実習棟の屋上というこの秘密の場所に彼女が現れた理屈もわからないとなれば、彼女をここに放置したまま逃げだすこともできなかったのだ……。

「教室覗いたらいなかったからー、教えてもらったにゃん♪」
「ここを知ってる人間は僕を除くと四人しかいないんだけどなぁ……」

 誰がここの鍵が壊れたままだという秘密を喋ったのかを明らかにはしなかったけど、黒川さんと同じクラスの友人D。僕と同じクラスの友人Aのどちらかだと思う。
 どちらもが黒川さんに話しかけられ、少し圧をかけられたらダメそうだから……。

 僕が卒業した先輩から教えてもらい、ここに作成した秘密基地のようないつもの場所を失いたくなく、たとえ彼女が目の前に座ろうと逃げだすわけにはいかなかった。
 せめてここのことは喋らないと約束してもらわないと安心できなかったし、ここがバレてしまっていてはもはや安全な場所などなかったわけだし……。

「これじゃ校舎からも貯水タンクで見えないし、入れるなんて知らなければそもそも近づかないよね。あーしもドアノブ回すまで半信半疑だったし」

「卒業した先輩に教えてもらったんだ。それで、その、鍵直されると困るので内密にお願いできますでしょうか」

「いいよ。あーしにもここを使う権利をくれるならね」

「えっ、いや、それはちょっと……」

 なんて僕が言ったところで相手は上手な黒川さんなわけで、「わかるか。いつも混んでる学食か、つまんない教室しかこっちはお昼を食べるとこないんだぞ?」と圧をかけられたら了解するしかなく、次の日から黒川さんは普通にここに現れるようになる(僕のせいではない)。

「で、姫川に回収したラブレターは出したの?」
「出してない……」
「なんで? 早くしないと夏休みになっちゃうよ。ビジネスラブレターに則っての、彼女との夏休みの予定を消化できなくなるよ」

 姫川さんにラブレターを出してない理由は出す先を間違えたからで、内容を友人たちが「酷い」と言ったのが正しいと知ったからで、黒川さんに「姫川さんには彼氏がいる」と聞いたからで。
 本当は特別好きなわけでもない、今現在彼氏がいる女の子に告白する意味がわからなくなったからだ。

「何でって、姫川さんに彼氏いるって昨日言ったよね。流石にそれじゃあ告白できないよ。あると思ってた見込みがないんだから」

「ありゃりゃ、あれは余計だったか。失敗失敗。振られたところに近づいた方がよかったかな。ラブレターも姫川の下駄箱に入れればよかったにゃん?」

 僕がラブレターを入れ間違えずに姫川さんに届いていたら。
 黒川さんが読んでからでも姫川さんの下駄箱に入れていたら。

 その場合の告白の結果は友人たちの予想通りの惨敗で、あった自信は粉々に砕け立ち直れなくなっていただろう(それはどうやら違ったのだが)。

「あー、そうされてたら、」
「ころっとみゆきちゃんに負けていたと。失敗した~」

 本当にころっと負けてしまいそうだった。
 前日も内心パニックにはなったが、「あーしと付き合わない?」と言われて心は傾きかけていたんだから。

 別に誰のことが好きでもない僕に、付き合ってほしいと言う女の子がいるんだ。
 本当はこの瞬間にも「うん」と言いたかった……。
 
一条いちじょうくん、あーしの何がダメなの? こんなチビのギャルだから。それとも姫川と比べてここら辺とかがおっきくないから? それともそれとも、見た目通りに軽そうで誰にでも同じことを言ってそうだから?」

 だけど、黒川さんが行儀悪く五つ並べた机(階段の踊り場から運んできた)に乗り、こちらに迫ってきたりしたから。
 彼女のそういう積極的さ?が耐性のない僕には毒だった。いや、猛毒だったんだ。

「──ってダメ。ダメだよ! 黒川さんちょっと!」
「だから何がダメなの? 答えてよー」
「そうじゃなくて、その、ブラウスの中が見えそうだから!」

 黒川さんの制服のリボンは緩められブラウスのボタンは開いていて、座っている僕からは角度的に白い肌どころか肩紐から胸元への黒いものまで見えているし!
 近づかれるとドキドキするし、いい匂いまでするのでは冷静な判断などできるわけがない!

「別にいいよ? 見せてはあげないけど、見えちゃうのは仕方ないよ。そのくらいは理解してやっているのです」
「うそ、いいの!? って違う!」
「あーしの何がダメなのかにゃ?」
「あっ、そういえばいくとこあったんだ。そういうわけなんで僕はこれで!」

 頭がくらくらして僕の思考は前日と同じところを進み、僕は机の上に乗り迫ってくる黒川さんから逃げた。
 弁当箱もそのままにして、彼女から一目散に撤退を開始した。

 黒川さんは机の上にいて横を通るのは簡単だったし、このままでは危険だと脳内に警報が鳴っているしで、僕は彼女から逃げるしかなかったのだ(仕方ないのだ)。
 そうした場合の後のことを気にするだけの余裕も一瞬で消滅した。

「あっ、ズルい。逃げるなんてズルいぞ!」

 前日に続き二回目となる置き去りは罪悪感しかなかったが、黒川さんに対する自分の感情が制御不能で、理解も不能ではやっぱり逃走は仕方なかったのだ。

「きゃ──」

 しかしドアノブに手をかけたところで聞こえてきたのは、黒川さんの短い悲鳴と机の倒れるような大きな音。
 逃げる行動を取っていても流石にこれは無視できず、僕は慌てて貯水タンクの方へと戻った。

「黒川さん、大丈夫!」
「うぅっ……いたいよ」

 駆けつけると黒川さんは机の横に倒れていて、やはり机の一つと椅子も倒れていて。
 ……だが、僕が倒れている彼女の横に膝をついたところで、背を向けていた彼女は何食わぬ顔で振り返り、僕の首に手を回して「つーかまえた♪」と勝利宣言をした。
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