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Ⅴ
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現在より百年近く前。
まだリリスが魔王だった頃――
玉座の間にて、二人は邂逅した。
「……近頃は耳が遠いものでな。もう一度申してみよ」
リリスは素足で佇み、壁際の飾り棚にかけられた武具の数々を眺めながら、傍らで膝をつく若い魔族を促した。
「何度でも言おう、リリス様」
当時は一介の戦士に過ぎなかったゼオギアは、跪いてもさほど目線の変わらない小柄な女王を、金色の瞳で真っ直ぐに見つめていた。
「魔王の座を俺に譲ってくれ。貴女には、穏やかな余生を送ってほしい」
それを聞いた途端、
「ふざけておるのか、小僧?」
リリスは振り返ってゼオギアを見据えた。その真紅の瞳に、怒りを露わにして。
「貴様も知らぬはずがあるまい。わらわは人間界の侵攻に後一歩のところで届かず、屈辱の辛酸を臣下らに舐めさせた。もはや王としての権威は地に堕ちた……この上は、玉座にしがみつきはせぬ。潔く退こう。しかし――」
彼女はそこで大きく深呼吸した。
そして、覚悟を決めたという面持ちで、改めて真っ直ぐに若き魔族を睨みつける。
「――穏やかな余生じゃと? このリリス、妾上がりとて見くびるでない。そんなものは望んでおらぬわッ」
彼女の小さな掌が、数々の武器が飾られた壁に叩きつけられる。非力な腕に精一杯の力を込めて。
「小僧よ、好きな武器を取れ。そしてこの首切り落とし、新たな魔王となるが良い……!」
リリスは押し殺した声で啖呵を切った。
人間界の征服寸前まで至ったリリスだが、勇者の出現によって盛り返した人間軍に押し返され、やむなく撤退を余儀なくされた。
この大敗は、かなり堪えた。
もはや自身は女としてだけでなく、王としての役目も終わったのだと悟った。
ゼオギアが訪ねてきたのは、そんな時である。
彼が優秀な戦士であるという噂は、彼女の耳にも届いていた。
全盛期のリリスであれば、数多くの男の精を吸い、その魔力は並の魔族を凌駕していた。しかし、老いた今となっては魔力もすっかり衰えている。若く力強い戦士と戦えば、ひとたまりもないだろう。
それでも、リリスは一向に構わなかった。将来有望な魔族に後を任せられるのならば、この場で殺められて悔いはない。むしろ、それが無様にも敗北した魔王に相応しい最期だと。
ゼオギアはじっとリリスの眼差しを受け止めていた。
そして――
「美しい……」
感嘆の溜め息と共にこぼされた一言と、恍惚として緩む男の表情に、リリスは目を見張った。
「な、に……?」
サキュバスとして多くの魔族たちを魅了してきた彼女にとっては、聞き飽きた褒め言葉だ。
だが、状況にあまりにもそぐわなかったので、不意を突かれたのである。
リリスの困惑も構わず、ゼオギアは身を乗り出し、堰を切ったように語りかけてきた。
「強固な意志と怒りに燃える真紅の瞳……どのような宝玉も敵わぬ輝きだ。汚れなき新雪のごとく白い髪と白い肌に際立って、雪原を煌々と照らす熱い炎のよう。見つめられれば、我ら魔族の青く冷たき血さえ燃えたぎる……そして何より、その毅然とした誇り高い佇まい。王に相応しい風格。全盛期のリリス様は絶世の美貌であったと、皆、口を揃えるが、貴女は間違いなく、今こそが最も美しい」
リリスは、愛妾を務めた前魔王にすら囁かれたことのない、愛おしさに満ちた台詞の数々に絶句した。
女王が呆気に取られている間に、ゼオギアは武骨な手を伸ばし、彼女の小さな手を恭しく取った。壁に叩きつけられた掌を労るように、大きな両手で包み込む。
「貴女は今も変わらず、誇り高き魔王だ。願わくば、これからも魔界を、我らを導いてほしかった……しかし、その瞳に時折落ちる憂いの影に、貴女が己を責め、王座を退こうとしていることを感じていた。ならば、俺がその憂いを払いたい。そのか細い肩に伸し掛かる重荷を、引き受けさせてはくれないか?」
敬意と慈しみに満ちた言葉の数々に黙って耳を傾けていたリリスだが、やがて長い睫毛をふっと伏せ、岩のような手の間から、細くたおやかな指をするりと抜き去った。
「……おぬしのそれは、同情か、哀れみか? よもや、このような老婆に懸想したのではあるまいな? あるいは、幼な子の姿に欲情する性質か――」
「そのようなことは断じて!!」
ゼオギアがあまりに大きな声で否定してきたので、リリスはギョッとして、改めて彼を見た。
そして気づいた。己を見つめる男の熱に浮かされた眼差しは、これまで女として何度も向けられてきた視線に似ていた。似ていたが……何かが違っていた。
「その繊細で愛らしき身を守りたいと思いこそすれ、組み敷き、暴こうなどという蛮行、考えられない!」
「は……?」
男たちの愛欲を受け止めるのが務めとも言うべきサキュバスに向かって、およそ相応しくないことを断言されて、リリスはますます混乱する。
「それに何より、貴女は尊敬すべき名君! 俺などが手出しするなど恐れ多い……むしろ俺が抱かれてもいいくらいだ! もし貴女が望むなら、この身を好きして構わないッ!」
「何言っとるんじゃ貴様ぁ!?」
リリスが思わず裏返った声を上げた時、玉座の間の重厚な扉が開かれ、門番を務めていた魔族が踏み込んできた。
「リリス様、如何なされた!?」
まだリリスが魔王だった頃――
玉座の間にて、二人は邂逅した。
「……近頃は耳が遠いものでな。もう一度申してみよ」
リリスは素足で佇み、壁際の飾り棚にかけられた武具の数々を眺めながら、傍らで膝をつく若い魔族を促した。
「何度でも言おう、リリス様」
当時は一介の戦士に過ぎなかったゼオギアは、跪いてもさほど目線の変わらない小柄な女王を、金色の瞳で真っ直ぐに見つめていた。
「魔王の座を俺に譲ってくれ。貴女には、穏やかな余生を送ってほしい」
それを聞いた途端、
「ふざけておるのか、小僧?」
リリスは振り返ってゼオギアを見据えた。その真紅の瞳に、怒りを露わにして。
「貴様も知らぬはずがあるまい。わらわは人間界の侵攻に後一歩のところで届かず、屈辱の辛酸を臣下らに舐めさせた。もはや王としての権威は地に堕ちた……この上は、玉座にしがみつきはせぬ。潔く退こう。しかし――」
彼女はそこで大きく深呼吸した。
そして、覚悟を決めたという面持ちで、改めて真っ直ぐに若き魔族を睨みつける。
「――穏やかな余生じゃと? このリリス、妾上がりとて見くびるでない。そんなものは望んでおらぬわッ」
彼女の小さな掌が、数々の武器が飾られた壁に叩きつけられる。非力な腕に精一杯の力を込めて。
「小僧よ、好きな武器を取れ。そしてこの首切り落とし、新たな魔王となるが良い……!」
リリスは押し殺した声で啖呵を切った。
人間界の征服寸前まで至ったリリスだが、勇者の出現によって盛り返した人間軍に押し返され、やむなく撤退を余儀なくされた。
この大敗は、かなり堪えた。
もはや自身は女としてだけでなく、王としての役目も終わったのだと悟った。
ゼオギアが訪ねてきたのは、そんな時である。
彼が優秀な戦士であるという噂は、彼女の耳にも届いていた。
全盛期のリリスであれば、数多くの男の精を吸い、その魔力は並の魔族を凌駕していた。しかし、老いた今となっては魔力もすっかり衰えている。若く力強い戦士と戦えば、ひとたまりもないだろう。
それでも、リリスは一向に構わなかった。将来有望な魔族に後を任せられるのならば、この場で殺められて悔いはない。むしろ、それが無様にも敗北した魔王に相応しい最期だと。
ゼオギアはじっとリリスの眼差しを受け止めていた。
そして――
「美しい……」
感嘆の溜め息と共にこぼされた一言と、恍惚として緩む男の表情に、リリスは目を見張った。
「な、に……?」
サキュバスとして多くの魔族たちを魅了してきた彼女にとっては、聞き飽きた褒め言葉だ。
だが、状況にあまりにもそぐわなかったので、不意を突かれたのである。
リリスの困惑も構わず、ゼオギアは身を乗り出し、堰を切ったように語りかけてきた。
「強固な意志と怒りに燃える真紅の瞳……どのような宝玉も敵わぬ輝きだ。汚れなき新雪のごとく白い髪と白い肌に際立って、雪原を煌々と照らす熱い炎のよう。見つめられれば、我ら魔族の青く冷たき血さえ燃えたぎる……そして何より、その毅然とした誇り高い佇まい。王に相応しい風格。全盛期のリリス様は絶世の美貌であったと、皆、口を揃えるが、貴女は間違いなく、今こそが最も美しい」
リリスは、愛妾を務めた前魔王にすら囁かれたことのない、愛おしさに満ちた台詞の数々に絶句した。
女王が呆気に取られている間に、ゼオギアは武骨な手を伸ばし、彼女の小さな手を恭しく取った。壁に叩きつけられた掌を労るように、大きな両手で包み込む。
「貴女は今も変わらず、誇り高き魔王だ。願わくば、これからも魔界を、我らを導いてほしかった……しかし、その瞳に時折落ちる憂いの影に、貴女が己を責め、王座を退こうとしていることを感じていた。ならば、俺がその憂いを払いたい。そのか細い肩に伸し掛かる重荷を、引き受けさせてはくれないか?」
敬意と慈しみに満ちた言葉の数々に黙って耳を傾けていたリリスだが、やがて長い睫毛をふっと伏せ、岩のような手の間から、細くたおやかな指をするりと抜き去った。
「……おぬしのそれは、同情か、哀れみか? よもや、このような老婆に懸想したのではあるまいな? あるいは、幼な子の姿に欲情する性質か――」
「そのようなことは断じて!!」
ゼオギアがあまりに大きな声で否定してきたので、リリスはギョッとして、改めて彼を見た。
そして気づいた。己を見つめる男の熱に浮かされた眼差しは、これまで女として何度も向けられてきた視線に似ていた。似ていたが……何かが違っていた。
「その繊細で愛らしき身を守りたいと思いこそすれ、組み敷き、暴こうなどという蛮行、考えられない!」
「は……?」
男たちの愛欲を受け止めるのが務めとも言うべきサキュバスに向かって、およそ相応しくないことを断言されて、リリスはますます混乱する。
「それに何より、貴女は尊敬すべき名君! 俺などが手出しするなど恐れ多い……むしろ俺が抱かれてもいいくらいだ! もし貴女が望むなら、この身を好きして構わないッ!」
「何言っとるんじゃ貴様ぁ!?」
リリスが思わず裏返った声を上げた時、玉座の間の重厚な扉が開かれ、門番を務めていた魔族が踏み込んできた。
「リリス様、如何なされた!?」
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