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2021年7月 私たちのOSCE合格体験記
第1話 総合診療最前線
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2021年7月上旬。
月末から始まる夏休みを控えて、私、解川剖良は総合診療科の病院実習(コア・クリニカルクラークシップ)を回っていた。
「それでは解川さんも胸の音を聞いてみようか。坂崎さん、学生が聴診をさせて頂いても構いませんか?」
「もちろんいいですよ。どうぞ、この老体でよければいくらでもお付き合いします」
総合診療科の後期研修医である三橋先生が学生による身体診察の可否を尋ねると、病室のベッドに腰かけているおばあさんは笑顔で了解の意思を伝えた。
頭を下げてありがとうございます、と答えると私はナイロン製の手提げ袋から聴診器を取り出した。
イヤーピースを逆向きにならないよう気を付けて両耳に装着すると、私は坂崎さんの胸に膜型のチェストピースを押し当てた。
決められた4か所で心臓の音を聴き、異常がないことを確認する。
「呼吸の音を聞きますので、今から聴診器を押し当てたら息を吸って、吐いて頂けませんか?」
「ええ、分かりました」
事前にお願いを伝えると、今度は坂崎さんの胸の右上部にチェストピースを押し当て呼吸音に異常がないかを確かめる。
そのまま左右を交代しつつ8か所の音を聴き、背中も同様に呼吸音を聴取した。
坂崎さんは慢性かつ原因不明の腰痛で入院している患者さんなので呼吸音に異常がある可能性は低いけど、身体所見が正常であることを確かめるのも臨床医の大切な仕事。
心音と呼吸音の聴取が終わると、私は坂崎さんの入院着のボタンを一つずつ留めた。
「心音と呼吸音に異常はないと思います。坂崎さん、ありがとうございました」
「こちらこそ、丁寧に診察して頂けて嬉しいです。最近の医学生さんは真面目ですねえ」
70代後半ぐらいに見えるおばあさんから笑顔で聴診の手技を褒められ、私は心が温かくなった。
「何しろ解川さんはうちの医学生でも特に優秀ですからね。この機会に解川さんに坂崎さんを受け持たせて頂きたいと思うのですがいかがでしょう?」
「全然いいですよ。私も若い女の子と話してみたいですし」
総合診療科のコアクリクラは今日が初日で、三橋先生が私と会ったのも今日が初めてだ。
三橋先生は学生の受け持ち患者を決める時、患者さんに対してはどんな学生でも「この子は特に優秀な医学生です」と伝えることにしているらしく、大げさなようでも患者さんの気持ちに深く配慮した対応だと思った。
「ありがとうございます。では解川さんを置いていきますので、どうぞお話を聞かせてあげてください。解川さん、カルテ記載もよろしくね」
「分かりました。坂崎さん、今日からよろしくお願いします」
この瞬間から私は今日からの4週間で坂崎さんを受け持つことになり、三橋先生は同行していた他の4名の学生を連れて病室を立ち去った。
それからは1時間ほど坂崎さんのお話を傾聴し、明日からも病室にお伺いしますと伝えてから私は病室を後にした。
この大学のコアクリクラでは総合診療科・救急科・麻酔科・輸血部門の4診療科をまとめて総合医療コースが設けられており、私はその中でも総合診療科を中心に4週間の実習期間を過ごすことになっていた。
総合診療科のコアクリクラは医療の最前線での診療体験を重視する田中源弥教授の意向もあって全部で11コースあるコアクリクラの中でも最もハードな実習として知られていて、これまで経験がなくても容赦なく学生自身が身体診察や医療面接(問診)を行うよう命じられる。
私は既にコアクリクラも折り返し地点を過ぎているのでまだ気が楽だけど、コアクリクラ初月となる今年1月に総合診療科を回っていた学生は毎日疲労で倒れそうになっていたらしい。
坂崎さんの病室を立ち去った後、私は大学附属病院内の空いている会議室に入ると備え付けのパソコンを起動し、自らのIDとパスワードでログインして電子カルテに情報を記載し始めた。
現代日本の医療現場における電子カルテの書き方はSOAP式記載法と呼ばれていて、私たち学生はコアクリクラの開始前にこの記載法について教わる。
S(Subjective)は「主観的情報」を意味し、患者さん本人が話していた内容をできるだけそのまま記載する。
O(Objective)は「客観的情報」を意味し、患者さんのバイタルサイン(体温、血圧、心拍数、呼吸数など生命の指標)や各種の検査結果を記載する。「客観的」という言葉の通り、ここには誰が見ても否定できない情報しか記載してはいけない。
A(Assessment)は「評価」を意味し、SとOの情報に基づいて患者さんの状態を自分なりに評価し、同時に患者さんをどのように治療していくかの大まかな方針を記載する。
P(Plan)は「計画」を意味し、今後患者さんに行う検査や治療の具体的な内容を記載する。一例を挙げると、「この患者さんは心臓弁膜症である可能性が高く、なるべく早期に心エコー検査を行う必要がある」という評価と治療方針はAに記載するのに対し、「何月何日に心エコー検査を行う予定である」という具体的な事項はPに記載する。
今回の場合、Sには病室で坂崎さんからお聞きしたことを記載し、Oには病棟の看護師さんが朝に測定した坂崎さんのバイタルサインを記載した。
まだ医師見習いですらない学生の立場ではAとPを自分で考えて書くことは難しく指導医の先生のカルテを参考にして書くことになるけど、それでもAには自分なりに考えた治療方針を書いてみた。
医学生が記載したカルテは電子カルテにおいて「学生カルテ」として記録され、医師や看護師をはじめとしてどの医療スタッフも学生カルテのみに基づいて何らかの決定を下すことは絶対にない。
それでも指導医の先生は学生カルテを毎日チェックしていて、学生の成績評価の材料にするだけでなく学生だけが気づいた患者さんの兆候がないかを確かめている。
患者さんによっては最近の体調や家庭環境などを医療スタッフの前でははっきり話せないが学生にはすんなり話してくれる場合もあり、それによって学生カルテが患者さんを治療するための重要なヒントになることもあるという。
坂崎さんが話してくれたことは明らかに診療に関係ないものを除いてはなるべく全てをカルテに記載し、私は1時間ほどかけてカルテを書き終えた。
午後からは総合診療科の医局で三橋先生の講義を受け、夕方は16時から再びカンファレンスがある。
会議室の時計を見ると時刻は既に12時を回っていて、私は早くロッカーで着替えて学生食堂で昼ご飯を済ませてこようと思った。
月末から始まる夏休みを控えて、私、解川剖良は総合診療科の病院実習(コア・クリニカルクラークシップ)を回っていた。
「それでは解川さんも胸の音を聞いてみようか。坂崎さん、学生が聴診をさせて頂いても構いませんか?」
「もちろんいいですよ。どうぞ、この老体でよければいくらでもお付き合いします」
総合診療科の後期研修医である三橋先生が学生による身体診察の可否を尋ねると、病室のベッドに腰かけているおばあさんは笑顔で了解の意思を伝えた。
頭を下げてありがとうございます、と答えると私はナイロン製の手提げ袋から聴診器を取り出した。
イヤーピースを逆向きにならないよう気を付けて両耳に装着すると、私は坂崎さんの胸に膜型のチェストピースを押し当てた。
決められた4か所で心臓の音を聴き、異常がないことを確認する。
「呼吸の音を聞きますので、今から聴診器を押し当てたら息を吸って、吐いて頂けませんか?」
「ええ、分かりました」
事前にお願いを伝えると、今度は坂崎さんの胸の右上部にチェストピースを押し当て呼吸音に異常がないかを確かめる。
そのまま左右を交代しつつ8か所の音を聴き、背中も同様に呼吸音を聴取した。
坂崎さんは慢性かつ原因不明の腰痛で入院している患者さんなので呼吸音に異常がある可能性は低いけど、身体所見が正常であることを確かめるのも臨床医の大切な仕事。
心音と呼吸音の聴取が終わると、私は坂崎さんの入院着のボタンを一つずつ留めた。
「心音と呼吸音に異常はないと思います。坂崎さん、ありがとうございました」
「こちらこそ、丁寧に診察して頂けて嬉しいです。最近の医学生さんは真面目ですねえ」
70代後半ぐらいに見えるおばあさんから笑顔で聴診の手技を褒められ、私は心が温かくなった。
「何しろ解川さんはうちの医学生でも特に優秀ですからね。この機会に解川さんに坂崎さんを受け持たせて頂きたいと思うのですがいかがでしょう?」
「全然いいですよ。私も若い女の子と話してみたいですし」
総合診療科のコアクリクラは今日が初日で、三橋先生が私と会ったのも今日が初めてだ。
三橋先生は学生の受け持ち患者を決める時、患者さんに対してはどんな学生でも「この子は特に優秀な医学生です」と伝えることにしているらしく、大げさなようでも患者さんの気持ちに深く配慮した対応だと思った。
「ありがとうございます。では解川さんを置いていきますので、どうぞお話を聞かせてあげてください。解川さん、カルテ記載もよろしくね」
「分かりました。坂崎さん、今日からよろしくお願いします」
この瞬間から私は今日からの4週間で坂崎さんを受け持つことになり、三橋先生は同行していた他の4名の学生を連れて病室を立ち去った。
それからは1時間ほど坂崎さんのお話を傾聴し、明日からも病室にお伺いしますと伝えてから私は病室を後にした。
この大学のコアクリクラでは総合診療科・救急科・麻酔科・輸血部門の4診療科をまとめて総合医療コースが設けられており、私はその中でも総合診療科を中心に4週間の実習期間を過ごすことになっていた。
総合診療科のコアクリクラは医療の最前線での診療体験を重視する田中源弥教授の意向もあって全部で11コースあるコアクリクラの中でも最もハードな実習として知られていて、これまで経験がなくても容赦なく学生自身が身体診察や医療面接(問診)を行うよう命じられる。
私は既にコアクリクラも折り返し地点を過ぎているのでまだ気が楽だけど、コアクリクラ初月となる今年1月に総合診療科を回っていた学生は毎日疲労で倒れそうになっていたらしい。
坂崎さんの病室を立ち去った後、私は大学附属病院内の空いている会議室に入ると備え付けのパソコンを起動し、自らのIDとパスワードでログインして電子カルテに情報を記載し始めた。
現代日本の医療現場における電子カルテの書き方はSOAP式記載法と呼ばれていて、私たち学生はコアクリクラの開始前にこの記載法について教わる。
S(Subjective)は「主観的情報」を意味し、患者さん本人が話していた内容をできるだけそのまま記載する。
O(Objective)は「客観的情報」を意味し、患者さんのバイタルサイン(体温、血圧、心拍数、呼吸数など生命の指標)や各種の検査結果を記載する。「客観的」という言葉の通り、ここには誰が見ても否定できない情報しか記載してはいけない。
A(Assessment)は「評価」を意味し、SとOの情報に基づいて患者さんの状態を自分なりに評価し、同時に患者さんをどのように治療していくかの大まかな方針を記載する。
P(Plan)は「計画」を意味し、今後患者さんに行う検査や治療の具体的な内容を記載する。一例を挙げると、「この患者さんは心臓弁膜症である可能性が高く、なるべく早期に心エコー検査を行う必要がある」という評価と治療方針はAに記載するのに対し、「何月何日に心エコー検査を行う予定である」という具体的な事項はPに記載する。
今回の場合、Sには病室で坂崎さんからお聞きしたことを記載し、Oには病棟の看護師さんが朝に測定した坂崎さんのバイタルサインを記載した。
まだ医師見習いですらない学生の立場ではAとPを自分で考えて書くことは難しく指導医の先生のカルテを参考にして書くことになるけど、それでもAには自分なりに考えた治療方針を書いてみた。
医学生が記載したカルテは電子カルテにおいて「学生カルテ」として記録され、医師や看護師をはじめとしてどの医療スタッフも学生カルテのみに基づいて何らかの決定を下すことは絶対にない。
それでも指導医の先生は学生カルテを毎日チェックしていて、学生の成績評価の材料にするだけでなく学生だけが気づいた患者さんの兆候がないかを確かめている。
患者さんによっては最近の体調や家庭環境などを医療スタッフの前でははっきり話せないが学生にはすんなり話してくれる場合もあり、それによって学生カルテが患者さんを治療するための重要なヒントになることもあるという。
坂崎さんが話してくれたことは明らかに診療に関係ないものを除いてはなるべく全てをカルテに記載し、私は1時間ほどかけてカルテを書き終えた。
午後からは総合診療科の医局で三橋先生の講義を受け、夕方は16時から再びカンファレンスがある。
会議室の時計を見ると時刻は既に12時を回っていて、私は早くロッカーで着替えて学生食堂で昼ご飯を済ませてこようと思った。
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