気分は基礎医学

輪島ライ

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2020年2月 病理学発展コース

264 最低最悪

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「……じゃあ、先輩は俺が先輩とキスしたいって言ったらどう思いますか?」
「えっ?」

 2019年のクリスマス、私は柳沢君と神戸市で開催された真田雅敏さんのクリスマスコンサートに行った。

 素敵な楽曲とトークの数々に2人で盛り上がり、楽しく話しながらの帰り道で柳沢君は私にキスをせがんできた。


「え、えーと……」
「すみません。いきなりこんなこと言われたら戸惑って当然ですよね」
「いや、違うの! 柳沢君とキスする覚悟ぐらい、私はできてる。お互い大学生だしそれぐらい大丈夫」
「本当ですか!?」

 お互い大学生なのに、キスぐらいで怯えていては仕方がない。

 そういった教科書的な価値観に従い、私は柳沢君にキスをしてもいいと伝えた。


「だから、今、してもいいよ。……どうぞ」
「先輩、ありがとうございます。……軽く、しますから」

 覚悟を決めた私は、街路樹の下に立って彼に身を任せた。

 目をつぶっている間に彼の上半身が近づいてきて、彼の息遣いが聞こえてきた。

 私と同様に彼も緊張しているらしく、落ち着こうとしているつもりでも彼の息遣いは荒かった。


 はあ、はあ、という彼の息遣いは私の心をきゅっと締め付けて、彼の息が顔にかかった瞬間に私の心拍数が急上昇した。

 そして思わず両目を見開いた私の目の前には、欲望をさらけ出した男性の顔面があった。


 それを直視してしまった私はこの場から逃げ出したいという思いに支配されて、


「……嫌っ! 気持ち悪い!!」


 これ以上ないほど明確な拒絶の言葉を口にして、彼を両手で突き飛ばしてしまった。

 路上に腰から倒れて呆然とした彼を見て、私は自分が最低の行為をしてしまったと自覚した。


 その後はすぐに謝ってもう1回キスしてくれていいと伝えたけど、柳沢君はまた今度で構わないと笑顔で言ってくれた。

 優しい彼の対応に私はほっと安心しつつ、今度はいつキスをせがまれるのだろうと憂鬱になってしまった。

 彼にしてしまったことは本当に問題だと考えて、それから自宅に帰った私は、



>柳沢君、今日は一緒にコンサートに行ってくれてありがとう。本当に楽しかった。

>さっきはひどい態度を取ってごめんね。柳沢君にキスしてって言われると思ってなかったから驚いちゃった。

>今度から柳沢君がそういうことをしたいときは我慢するから、気にしないで言ってね。

>それじゃ、お休み。また大学でもよろしくね。



 本当に何の悪意もなくお詫びのメッセージを送って、彼の心を深くえぐった。

 「柳沢君がキスをしたいときは我慢する」という表現にひどく傷つけられた彼はそのままメッセージで別れを切り出して、私は彼の突然の申し出に驚くと同時にこれでやっと楽になれるという思いがした。

 彼に対して一方的にひどいことをした私にそんな感情を抱く権利はないと分かりつつも私は柳沢君と別れられたのが嬉しくて仕方なくて、同時にそう思ってしまう自分自身が辛くて仕方がなかった。


 メッセージのやり取りだけで別れるのは流石に問題だと考え、私は1月の中旬に彼を図書館前のロビーに呼び出した。

 ここでようやく彼と正式に別れることになるのだろうと思っていた私は、


「いや、ヤミ子先輩に悪意がないのはちゃんと分かってますよ。俺も気が動転してて、ついあんな返事しちゃったんで」
「つい……あ、そうだよね。柳沢君、私と別れる気はなかったんだよね」
「そうですけど……先輩、今日は仲直りしようって話じゃ……?」

 柳沢君の言葉に動揺し、悟られてはいけない気持ちを彼に悟られてしまった。


「前から気づいてたんですけど、先輩って俺のこと好きじゃないですよね?」
「そんなことないよ。私、柳沢君のことはちゃんと好き。……それは、本当」

 気を抜けばその通りだと言ってしまいそうになる自分を必死で抑えて、私は彼をこれ以上傷つけないようにしようとした。

 しかし彼はその時点でこれ以上ないほど傷ついていて、


「じゃあ、俺と解川先輩とどっちが好きですか?」
「えっ……」

 決定的な質問を私に投げつけた。


「もし俺と解川先輩のどちらかとしか付き合えない、もう一人とは二度と会えないとして、先輩はどっちを選びますか!?」
「それならさっちゃん……あっ……」

 この時の返事は私の人生の中で最低最悪の問題発言だったと思う。

 でも人は一度口にした言葉を撤回することはできないし、無理に撤回しても彼の心の傷をなかったことにはできない。

 どうしようもない状態に追い込まれ、無意識的に被害者面をして泣き始めた私に、


「先輩……うっ、うわああああああああああああああ!!」

 柳沢君は絶望した表情になり、そのまま私の前から逃げ出してしまった。
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