気分は基礎医学

輪島ライ

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2019年10月 解剖学発展コース

176 気分はどん底

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 2019年10月1日、火曜日。時刻は午後16時40分。

 この大学の医学部2回生の10月というのは基礎医学の最終章となる薬理学と病理学の授業が始まる時期で、両科目とも昨日の月曜日には先んじて初回の講義が行われていた。

 どちらの科目も講義と実習の両方が予定されており、病理像のプレパラート観察を主体とする病理学実習は12月の試験まで週に1回~2回のペースで実施され動物実験を主体とする薬理学実習は10月下旬の免疫学・微生物学・感染症学の試験の終了後に順次始まるとのことだった。

 1回生の生物学実習の頃から顕微鏡を扱う実習は好きだったし、今のところは病理学教室に最も興味があるので病理学実習は当然楽しみにしている。

 薬理学実習でマウスの解剖を行える機会があれば自分から名乗り出てみようとも考えており、生化学実習や生理学実習の頃と比べると自分自身基礎医学の実験に前向きに取り組めるようになってきていると感じた。

 今月は3科目の試験に加えて毎週病理学実習に参加しながらの解剖学教室発展コース研修となるが、忙しさを言い訳に研修が不十分にならないよう気を引き締めていこうと思った。


 それはそれとして、薬理学の講義が少し早めに終わったので16時には研究棟6階の解剖学教室の会議室に来ていた僕は到着から30分以上が経過しても剖良先輩の姿が見えないことに焦っていた。

 たわら教授はご高齢もあって学生の前にはあまり姿を見せず今日の初回オリエンテーションも剖良先輩が一人で行ってくださると事前に連絡を受けていたのだが、流石にこの時間まで3回生の授業が終わっていないとは考えにくい。

 これといって遅れる旨の連絡はなく先輩にメッセージアプリで連絡してみても既読すら付かず、僕はこのまま何もなく終わったらどうしようと不安になっていた。


 そんな矢先に会議室のドアがバタンと開く音がして、そこには長髪を太めのポニーテールにまとめたクールビューティーの姿があった。

 服装やバッグはいつも通りだが今日の剖良先輩は男の僕が見ても分かるぐらいのノーメイクで、誰が見ても分かるほどに顔色が悪かった。

 不安定な足取りで会議室内を歩くと先輩は僕の隣の丸椅子に腰かけた。


「……じゃあ始めましょうか。解剖学教室の、発展コース……研修を……」

 若干呂律ろれつが回っていない口調で喋り始めた剖良先輩には生気がなく、僕はその様子に不気味さを覚えた。

「あの先輩、大丈夫ですか……?」
「全然大丈夫、大丈夫だから。7か月ぶりの研修だけど、私だってヤミ子に負けないように……うぐっ!」

 マレー先輩と同じようなモチベーションで僕を解剖学教室に勧誘したいらしい剖良先輩は「ヤミ子」という単語を口にした瞬間に顔面蒼白となり、そのまま右手で口を押さえて会議室を飛び出していった。

 先輩は廊下をエレベーターとトイレのある側に向かって走り出し、そのまま10分ほど帰ってこなかった。

 しばらくして帰ってきた先輩は先ほどよりさらにげっそりしていてどうもトイレで嘔吐してきたらしいと察した。


「待たせてごめん。……それで、今日からやることだけど」
「剖良先輩、ヤミ子先輩と何かあったんですか?」
「んぐうっ!」

 辛うじて口を開いた剖良先輩の言葉を遮ると先輩はやはり「ヤミ子先輩」という単語を聞いた辺りで真っ青になり、先ほどと同様に会議室を飛び出した。

 剖良先輩が再びトイレから帰ってきて落ち着く頃には17時を回っていて、果たして今日はまともに研修ができるのだろうかと不安になった。


 胃の中が空っぽになったのかようやく嘔気おうきを催さなくなった剖良先輩に僕は覚悟して話を切り出した。

「剖良先輩、もしかしてヤミ子先輩に彼氏ができたことを……」
「…………」

 先輩は沈黙したまま頷いて、そのまま目に涙をにじませた。

「いやまあショックなのは分かりますけど、何も吐くほどのことなくないですか?」
「そんなことない。だって私、塔也君にはずっと秘密にしてきたけど……」

 先輩はぐすぐすと泣きながらそこまで言って、そして続けて口を開いた。


「ヤミ子のこと、大好きなの。親友って意味じゃなくて、私はずっとヤミ子と恋人になりたかったの」
「先輩……」

 何と声をかければいいのか分からない僕に、先輩は無理に笑顔を作りながら答える。


「ごめんね、いきなりこんな話聞かせて。塔也君も驚いちゃうよね」
「いや、それは知ってましたから驚きませんけど……」
「えっ?」

 率直に返事をすると剖良先輩は心底意外そうな表情で硬直した。


「……誰から聞いたの?」
「別に誰からも聞いてないんですが、何というか剖良先輩の様子を見てれば普通に分かるというか」
「……じゃあ、いつから知ってたの?」
「3月に知り合ってから割とすぐだったような……」

 剖良先輩は自分の恋心については僕に秘密にできていると信じていたらしく、そこまで話すと明らかに戸惑った様子だった。


「あ、もちろん誰にも話してませんから。そこは安心してください」
「大丈夫、塔也君なら面白半分で言いふらしたり私を遠ざけたりしないのは分かってるから。……でも、そうだったんだ」

 思いもよらぬこととはいえ気持ちを分かってくれる相手がいるのはありがたかったのか、剖良先輩は少なくともネガティブな感情にはなっていないようで少し安心した。
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