気分は基礎医学

輪島ライ

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2019年8月 病理学基本コース

127 気分は研究・教育・臨床

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「唐突だが、これまでの5教室での基本コース研修のことは今すぐ忘れろ。もちろん習った知識は忘れなくていいが、この教室でお前が今月やることに比べればこれまでの研修なんてのはお遊びみたいなもんだ」
「は、はあ……」

 2019年8月1日、木曜日。

 2回生の夏休み2日目となるこの日、僕は朝9時から研究棟5階にある病理学教室の教授室に呼び出されていた。

 豪華なリクライニングチェアにどっしりと座っている独特なヘアスタイルの巨漢は紀伊教授で、今は僕に病理学教室基本コース研修の初回オリエンテーションを行ってくださっている。

 僕の隣の椅子に腰かけているのは綺麗に整えられたボブカットが特徴的な女の子で、彼女は医学部3回生にして病理学教室所属の研究医養成コース生である山井やまい理子りこ先輩、通称ヤミ子先輩だった。


「解剖学教室の免疫染色、生化学教室の科学的リテラシー、生理学教室の実験テーマ探し、薬理学教室の統計処理、微生物学教室のEBM的思考。お前が習ってきたことは研究医を志す人間にとってどれも必須のスキルだが、それ単体では何の意味もない。自分の手で実験を行って初めてこういうスキルの出番が来るんだ。病理学なら何と言っても動物実験が一番分かりやすい例だろう。お前は今月自分の手でマウスに注射して、自分の手でマウスを解剖して、自分の手で組織標本を作製し、自分の眼で顕微鏡観察してデータを出すんだ。いいな?」
「あ、はい。頑張ります……」

 紀伊教授の説明は具体例が端折はしょられすぎていていまいちピンと来なかったが、ともかく積極的に動物実験に参加することになるらしい。

「俺はこれから術中迅速があるから後のことはヤミ子に任せた。美人の先輩と好きなだけイチャコラしてくれればいいが、明日の朝9時にここに来るという約束は死んでも守れ。それに備えて今日中に道具の準備はしておくようにな」
「分かりました。遅れないよう気を付けます」

 明日の朝9時からは早速マウスを用いた動物実験をやるらしく、夏休みに入ったからといって寝坊しないようスマホのアラームを複数かけておこうと思った。


 そのままヤミ子先輩に連れられて教授室を出て各種の試薬や器具が置かれている実験室に入ると、僕はようやく一息つくことができた。

 初回オリエンテーション後は実験室に入ると決まっていたからか先輩は朝に出会った時から白衣を身にまとっており、僕も教授室に入る前に白衣を羽織って名札を装着していた。

「いやー、疲れました。これまでの初回オリエンテーションでは色々前置きをしてから説明してくださる先生が多かったんですけど紀伊教授はいきなり本題でしたね」
「普段からあんな感じって訳じゃないんだけど、病理学の先生は他の基礎医学の先生と違って研究と教育に加えて臨床もバンバンやらないといけないんだよね。病理診断は知ってると思うけど術中迅速診断って聞いたことある?」

 3月から月1回開催されている論文抄読会の終了後に紀伊教授は迅速診断で先に部屋を出る機会が多く、その用語については気になったので自分で調べていた。

「はい、以前調べて知りました。確かがんとかの手術中に病変の一部が切り出されて病院の病理部まで持ってこられて、すぐに病理医が顕微鏡で観察して診断を下すんですよね」
「そうそう。自分から調べてくれてるなんて感心だねー」

 インターネットで調べた内容をそのまま話すとヤミ子先輩はいつもの軽い口調で褒めてくれた。

「この大学では臨床病理と研究病理は特に分けられてなくて、どの先生も医師免許を持ってる病理医なんだよ。大学によっては二つの病理部門が完全に分かれてて研究病理では病理学教員だけど医師免許を持ってない先生もいるんだって。私は病理研究者なら研究も教育も臨床も全部できた方がいいと思うから、この大学みたいな体制が好きなんだよね。白神君がもしうちの教室に来てくれるなら病理診断もできるように頑張ってみて」
「分かりました。まだ病理学自体習ってない段階ですけど授業はできるだけ真面目に聞いてみます」

 2回生の病理学の授業が始まるのは10月なので今のところ知識はゼロに近いが、来年2月にも病理学教室の発展コース研修がある以上は授業が始まったら真面目に勉強しようと思った。


「授業で勉強してくれるのはとてもありがたいんだけど、今月の研修では病理像の基礎知識を私から白神君にレクチャーすることになってるんだよね。今月はマウスを解剖して病理標本を作ってそれを顕微鏡で観察してデータ出しする所までやらないといけないから。まだ10時前だけど今日っていつまで空いてる?」
「1日中予定空けてあるので夕方までかかっても大丈夫ですよ。頑張ってお付き合いさせて頂きます」

 本音を言えば16時までには終わって欲しかったが、初日にわがままを言える立場ではないので僕はそう答えた。

「ありがとう。遅くても15時には終わるようにするから一緒に顕微鏡見て勉強しようね。その前に今から明日の実験の準備しましょう」
「分かりました!」

 それからヤミ子先輩と共に実験室の奥の資材置き場まで歩き、マウスへの薬剤の注射や解剖に使う各種の道具の説明を受けつつスーパーの手提げカゴのような容器(というか多分スーパーにあるのと同じもの)に手分けして器具や消耗品を入れた。
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