気分は基礎医学

輪島ライ

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2019年7月 微生物学基本コース

121 愛憎のエンディング

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 そして時は流れ、2019年7月28日、日曜日。

 この7月28日というのは俺と美波にとって初デートの記念日で、浪人生の頃からこの日は二人で遠出すると決めていた。

 海内塾京都校に通っていた2015年の7月下旬、これまでは予備校の近くで食事をしたり一緒に書店やゲームセンターに行ったりするだけだった俺と美波はお互い1日中休講だったその日に初めて大阪の梅田まで足を延ばした。

 美波の希望でファッションビルのウインドウショッピングに付き合い、俺の希望で巡見堂じゅんけんどう書店の梅田店を隅々まで見て回り、浪人生にとってはやや高級なレストランで夕食を済ませた。

 少し遠出したというだけで実際に初デートだったかどうかも曖昧なのだが、この日から俺と美波はお互いを正式に恋人と見なすようになったからこの日は俺たちにとって大事な記念日だった。


 にも関わらず今年だけはこの日が文芸マーケット大阪の開催日と重なってしまい、文芸研究会の一大イベントに主将の俺が参加しない訳にはいかなかった。

 俺は断腸の思いで美波に嘘をつき、この日は微生物学教室のイベントに呼ばれているから申し訳ないがデートはできないという旨を伝えた。

 また後日必ず埋め合わせをすると言うと美波は納得してくれたが、美波は俺のスマホに監視アプリをインストールしているのでスマホの位置情報が大学周辺になければ後で追及を受けるのが目に見えていた。

 そのため俺は当日の朝にスマホの電源を落とし、そのまま自宅の机に置いておいた。

 文芸マーケット開催中の部員との連絡にはタブレット端末を使えばいいし、美波に何か聞かれても「あの日はスマホのバッテリーが切れているのに気づかなかった」と言えばいい。


 この日持って行った小型のタブレット端末は2年前の美波の誕生日にプレゼントした際に自分も同じ機種のセルラーモデルを買ったもので、美波は俺とお揃いのタブレット端末を今も愛用してくれていた。

 畿内医大では医学部の学生には一人一台Wi-Fiモデルのタブレット端末を購入してくれるが畿内歯科大ではそういう制度はなく、美波は俺がプレゼントしたタブレット端末で電子書籍を読むのが趣味になっていた。


 何事もなく文芸マーケットを楽しむはずだった俺の1日は、美波が突然会場に現れたことでぶち壊しになった。

 文芸研究会の部員や他のサークルの前で美波に騒がれると困るので俺は自分から持ち場を離れて美波を連れ出し、ビルの同じ階のバルコニーまで移動した。

 美波は自分に嘘をついて初デート記念日に付き合わなかった俺に激怒しており、俺はこんなことになるのなら最初から事情を正直に話せばよかったと後悔した。


「……それより俺がここに来てるって誰に聞いたんだ。今日の用事は親父にも生人いくひとにも話してないぞ」
「まれ君、まさか私がスマホにしか監視アプリ入れてないとでも思ってたの? そのタブレットは4Gで通信できるんだから当然そっちにも入れてたの」
「はあ、そうか……」

 別の大学に入学してから美波は嫉妬心に支配されがちになり、今の彼女ならそれぐらいのことはしていてもおかしくなかった。

 それでも監視アプリを入れるならせめて事前に話して欲しかったし、スマホの時は彼女もそうしてくれていた。


「なあ美波、そんなに俺のことを信用できないか? いつも言ってるけど俺は君のことが世界で一番大事だし、他の女の子に目移りしたことなんて一度もない。俺が君を不安にさせるようなことをしてるなら改善するから言って欲しい」

 美波がこういう調子なのはずっと苦痛だったので、俺は最大限の譲歩をして彼女にそう尋ねた。

「まれ君がこれまで私を裏切ったりしてないのは知ってる。だけど人の気持ちなんていつ変わるか分からないし、まれ君は今日、私に嘘をついたよね。……監視アプリ入れといてよかった。そうじゃなきゃ私は騙されたままだったから」
「騙された、って……」

 その一言を聞き、俺の中にふつふつと怒りが湧いてきた。


 この俺が、君を騙すものか。

 世界で一番大切な君を、騙したりするものか。


「何よ、文句があるなら言えばいいじゃない。さあ、どうぞ」

 挑発するように言葉をぶつける美波に、再び俺の頭の中の制御装置が外れた。

「ああ、最近の君には文句しかない。俺の私生活を際限なく束縛する、俺の女友達に絡んで迷惑をかける、ちょっとした嘘でここまで激怒する。そんな君を見ているのが、俺は不快で仕方がない」
「そう。私のことが不快だっていうのね」
「そういう意味じゃない……」

 美波の存在を不快だと思ったことなど俺は一度もない。

 俺は美波を愛しているから、美波が人間として間違った行為を繰り返して自分自身をおとしめていくのを見ていられないのだ。

 はっきりとそう言うべきだったのに、俺は彼女に真意を伝える機会を逃してしまった。


「……大体、いくら婚約者だからって俺のスマホやタブレットに監視アプリを入れていい訳がないだろう。ああいうのは同意がなければ犯罪にもなるんだぞ!!」
「はあ、同意? 将来を誓った相手のことなんだから常に居場所を把握したいっていうのは当然のことでしょ。そんなにやましいことでもあるの?」
「2人とも落ち着いてください。人前でそんなに言い争うのは……」

 美波が言い返してきたタイミングで、心配して様子を見に来たらしい白神君と三原君が仲裁に入ってきた。

 それから美波はまた看護学生である三原君に暴言を吐き始めたので俺は右手で美波の口を塞ぎ、その間に三原君を逃がした。


「どうしてそんなにあの女の肩を持つの。私よりあんなのがいいって言うの?」
「何度でも言うが、彼女はただの部活の後輩だ。いいから君はもう帰ってくれ」
「やだ。帰るならまれ君も一緒」

 ここまで話しても俺の気持ちは美波に通じず、俺はこのまま泣き出してしまいそうな気分になった。

 だが、俺は美波のことが好きだから、彼女の前で涙を流すことはできない。


 その時、俺の脳裏に美波に全てを理解させる方法がひらめいた。


「……それなら、俺の答えはこれだ」

 咄嗟とっさにズボンからタブレット端末を取り出すと、俺はそれを美波の目の前でコンクリートの地面に叩きつけた。


「……あ、ああ…………」

 お揃いで愛用していたタブレット端末を目の前で叩き割られ、美波は愕然としてうめいた。


「これで君との関係は終わりだ。こんなものがないと信用されないなら俺は君とは付き合えない。今すぐここから立ち去って、二度と俺の前に現れないでくれ。なあ、宇都宮さん」

 彼女を根本から拒絶する台詞は、その一言一言を口にする度に全身が引き裂かれるかのような思いがした。


「……そんなのってないよ。ねえまれ君、私、どうすれば許して貰えるの?」
「俺は君のことが好きだったから何をされても許してきたけど、もう許せないんだよ。分かるよね? もう君のことが好きじゃないからだよ」

 本当は今すぐ美波を抱きしめて、俺が悪かったと伝えたい。

 でも、ここで美波を甘やかしてしまえば、彼女は今のまま自分自身を貶め続けるだけなのだ。


「ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……」

 涙を流して必死で俺に謝り続ける美波の姿を見て。


 俺は、心の底から彼女を愛しく思った。

 だからこそ、俺は。


「泣かれたってどうとも思わないよ。いいからさっさと出てけよ!!」

 今この場で、美波を拒絶することにしたのだった。
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