気分は基礎医学

輪島ライ

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2019年6月 薬理学基本コース

72 気分はピラニア

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 その翌週、6月10日の月曜日。

 放課後に僕はヤッ君先輩と薬理学教室で落ち合い、そのまま本地教授にデータ出し課題のチェックを受けていた。

「思ったより量が少ないけどよう考えたら白神君は統計について詳しくは習っとらんのやな。一から教えられてこれだけデータ出しやってくれたんやからまあ量としては十分やろ。実験条件の説明とかはまだ不十分やけど、今月はまだ長いから頑張ってな」
「分かりました。試験もありますけど頑張って取り組みます」


 本地教授のチェックは30分ほどで終わり、僕とヤッ君先輩はいつものように図書館のコンピュータルームに来ていた。

 この部屋はいつもいているので、今日のチェックのフィードバックをやる前に僕は先輩と話をした。

「今日も来てくださってありがとうございます。先輩に付きっきりで教えて頂いて、少なくとも統計処理の部分はミスをせずに済みました」
「それなら良かった。実験の条件とかを正確に文章にまとめるのにはボクでもまだまだ苦労するから、これからゆっくり慣れてくれればいいよ」

 キャスター付きの椅子の背もたれを抱くようにして座っている先輩に、僕は気になっていた話題について尋ねてみることにした。

「ところで先週の火祭は大変でしたね。実はあの場にいたんですけど、先輩が不良に絡まれて暴力を振るわれたりしたらどうしようって心配でした」
「ああ、あの男子高生たちか。新歓イベントのリハーサルでコスプレしてたら何か広場で学ランの高校生が迷惑かけてるって聞いたから見に行ってみたの。制服に見覚えがあったから面倒な連中だってすぐ分かったよ」
「どこの不良かご存じだったんですか?」

 そう言うとヤッ君先輩は彼らの在籍する皆月市立第二高校について教えてくれた。

 畿内医大から歩いて15分ほどの場所にある公立高校で、名前が似ている私立の皆月高校とは偏差値が25ほど離れているらしい。

「今は制服がブレザーになったからあんまりないだろうけど、ボクが高校生だった頃は皆月高校もあっちも学ランだったから第二高校の生徒が問題を起こしたのに皆月高校に通報されることもあったんだよ。名前が似てるのは誰のせいでもないけど本当に迷惑だった」
「そういう事情だったんですね……」

 全体的に線が細く男らしい顔つきではないヤッ君先輩が学ランを着ている姿はあまり想像できないが、それはそれで面白い光景かも知れない。


 続いて僕が口にしたのは、最も重要な話題だった。

「あの、皆月のピラニアって何なんですか?」
「…………」

 気まずい表情で沈黙した先輩に、僕は自分がまた地雷を踏んだのではと狼狽ろうばいした。

「あっ、すみません、聞いちゃ駄目な話題で」
「そうだね、白神君には話してもいいかも」

 慌ててごまかそうとすると先輩は真剣な面持おももちでそう言った。


 先ほどまで椅子の背もたれを抱いてリラックスしていたヤッ君先輩は、素早く椅子に座り直すとキャスターを転がして僕の方に向いた。

 そして覚悟を決めた表情で、

「あのね、白神君。ボク、皆月高校では学年をシメてたの」
「し、しめる……?」
「暴力で支配するって意味ね」

 不良漫画に出てきそうな用語を口にしたのだった。


「皆月高校は中高一貫校で一応進学校って呼ばれてるんだけど、当時は男子校だったこともあって荒れてる学年も多かったの。ボクのいた学年はその中でも特にひどくて、中学校の頃から校内では複数のグループが割拠かっきょしてた。もちろん親や先生の前では優等生で、裏で抗争を続けてた感じ」
「こうそう……?」
「集団での長期的かつ大規模な喧嘩って意味ね」

 先輩は今度は任侠映画に出てきそうな用語を口にした。


「ボクは背が低かったから入学して早々にいじめられそうになったんだけど、幸い喧嘩の才能があったみたい。クラスで一番偉そうにしてたアメフト部員をタイマンで倒したら次の日からはその子の取り巻きがボクに敬語を使ってた」
「は、はあ……」
「それからは小さいグループを潰すのが楽しくなって中学3年の終わり頃には学年を平定できたの。そのおかげか分かんないけど高校では学年内での暴力沙汰がなくなって、先生方は奇跡的に途中で治安が回復した学年だって思ってたみたいだよ」
「それは何というか、凄いですね……」

 目の前の小柄でキュートなヤッ君先輩の姿からはその過去が全く想像できず、僕はひたすら相槌あいづちを打つしかなくなっていた。


「誰が付けたか分かんないけど、身体が小さいのに先制攻撃で相手を倒すのが得意だったからボクはいつからか皆月のピラニアって呼ばれてた。高校に上がってからは地元の商店街とかで他校の不良と喧嘩してたから、その通称は彼らも知ってたみたい」

 もはや現実の話とは思えないが、皆月のピラニアという言葉を聞いた不良たちが恐れをなして逃げ出した姿は実際に目にしたので先輩の話は嘘ではないのだろう。


「といっても喧嘩ばっかしてる学校生活は大変だったから、大学生になったら絶対に喧嘩はしないって決めてたの。中高は染髪禁止だしメイクもできなかったけど、大学ではお洒落も色々試してみて今では愛玩動物みたいな扱いになれた。男らしくないとか気持ち悪いって言う人もたまにいるけど、かわいく振る舞っていつもニコニコしてた方が人生はよっぽど楽なんだよ」
「確かにそれはその通りですね。僕もいつも喧嘩してるヤッ君先輩より優しくて綺麗なヤッ君先輩の方がいいと思います」

 大学デビューというと一般には地味な高校生だった人が大学生になってから派手な格好になることを指すが、高校まではやんちゃしていた人が大人しい大学生になるのもそれはそれで立派な大学デビューだろう。

「ありがとう。まあ大学から変わったって言っても皆月高校の知り合いはうちの大学にも多いから、ボクが不良だったことは3回生には割と知られてるの。今回も人前で男子高生を叩きのめしちゃったけど、あれで友達がボクを見る目が変わるってこともないと思う」
「なるほど、それなら僕も安心です」

 ヤッ君先輩はこれまで付き合ってきた感想からするととても優しい先輩だと思うので、あまり学内で不自由な思いはして欲しくない。


 そこまで話すと先輩は少しだけ暗い表情になって、

「色々話したけど、白神君はボクのことを怖いと思う?」

 目の前の僕に問いかけた。


「確かに火祭でのことは驚きましたけど、僕は先輩が戦う姿をかっこいいと思いましたよ。ヤッ君先輩は外見こそ中性的だと思いますけど中身はすごく男らしいと思います。同じ男として僕は心から尊敬します」

 本心からそう伝えると先輩はいつものニコニコ笑顔に戻って、

「……そう言ってくれて、すごく嬉しい。ボクも白神君に頼られる先輩のままでいたいから、これからも頑張って指導するね」

 と言うとそのまま統計ソフトの使い方を指導してくれた。


 この前会った時は女の子にモテないと話していたが、先輩の中身の男らしさを知れば異性としての魅力を感じてくれる女の子も現れるだろうと思った。
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