気分は基礎医学

輪島ライ

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2019年5月 生理学基本コース

52 気分は研究テーマ

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「……5つ目のテーマは新幹線による通勤・通学がヒトの健康に及ぼす影響です。僕らの同級生に岡山県内からこの大学まで新幹線で通学している人がいますが、あの速度の乗り物で毎日通学して健康に影響がないとは思えません。日本では通勤・通学に新幹線を使う人は一定数いるので調べてみる価値があると思います」

 僕がWordで作ってきた原稿を読みつつ発表を終えると、会議室内にいる天地教授と壬生川さんはパチパチと拍手をした。

「いいねえ。いかにも医学らしい研究テーマでは壬生川さんに軍配が上がるけど、白神君は身近な話題から面白い研究テーマを見つけるのが上手いんだね」

 5つの研究テーマの説明が書かれたレジュメに目を通しながら天地教授は発表会の感想を述べた。

「新幹線通学の話も面白かったけど、ショートスリーパーの人のうち適度に昼寝をしている人と昼寝すらしない人の健康状態を比較するっていうのも面白そうね。被験者を集めるのが大変かもだけど」

 同様に感想を述べる壬生川さんは昨日からコンタクトレンズをやめて眼鏡をかけたまま大学に来るようになっていた。

 高級ブランドの服を着なくなったことに続く大学デビューだが、元々美人な女の子は眼鏡をかけたところで美人なので学内では単なるイメチェンとしか思われていないらしい。


 2019年5月10日、金曜日。時刻は17時頃。

 天地教授から「自分自身が面白いと思えるテーマを毎週5本見つけてくること」と指示された僕と壬生川さんは生理学教室の会議室で初の発表会に臨んでいた。

 発表会は毎週金曜日の16時30分に開催されることになっていて、今回は天地教授しか来ていないが次回からは別の先生も同席して頂けるらしい。

 最終回以外は同じ形式で5月31日までに合計4回実施され、全部で20本考えた研究テーマから僕らは最終的に3つを絞り込むことになる。

 その3つは僕らが実際に研究する訳ではないが天地教授がコレクションしている歴代の学生研究員の研究テーマ一覧に加えられるらしく、後輩の目にも触れる以上はちゃんとしたテーマを考えたいと思った。


「まだ1週目だからそこまで期待はしてなかったんだけど、相当意欲を持ってやってくれたみたいだね。生理学教室の実験設備について聞きに来てくれた時は驚いたし最新の生理学研究に関連したテーマまで考えてきてくれた。まだ基礎医学すら学び終えてないのにこのモチベーションは凄いよ」

 会議室の一角にある椅子に座り、天地教授は満足そうに言った。

「壬生川さんのおかげです。他の教室の先輩にアイディアを貰いに行ったり昼休みや放課後に何度も図書館に行って調べたり、僕だけでは絶対にできませんでした」
「いえいえ、白神君はまだ初心者なので私がそれぐらいやるのは当たり前です。今後も一緒に研究テーマを探していければと思います」

 僕が正直に言うと壬生川さんは軽くフォローしてくれた。

「今回の発表はすごく良かったけど次回からも毎週5本考えてくるのは簡単じゃないよ。図書館で調べるのはもちろんもっと色んな人からアドバイスを貰うといいんじゃないかな。とにかく君たち自身が面白いと思えるかどうかを最優先に考えてね」
「分かりました。来週も頑張ります」

 僕が会釈して答えると天地教授はそのまま席を立って会議室を後にした。

 のんびりした人に見えて研究活動は相当忙しいらしく、病理学教室の紀伊教授や生化学教室の成宮教授と比べて僕は天地教授とはほとんど雑談をしたことがない。


 天地教授が立ち去ってから腕時計を見ると時刻は17時15分頃だった。

「壬生川さん、今週は色々ありがとう。教授にも言ったけど剖良先輩と話す機会を作ってくれたり図書館に連れて行ってくれたりして助かったよ。あとお弁当もすごくありがたいです」

 背もたれ付きの椅子で一息ついていた壬生川さんに軽い調子で話しかける。

「さっちゃん先輩とかカナちゃんほど上手にはできないけど、あたしも一応あんたの研修の指導担当だから。来週からも付き合いなさいね」

 現在この会議室には二人きりなので壬生川さんはいつものラフな態度に戻っていた。

「大学デビュー計画だけど来週からはどうするの?」
「今週はブランドの服をやめてコンタクトから眼鏡に変えたけど、大事なのは振る舞い方だと思うの。人前で猫被ってたんじゃノーメイクにでもしない限りイメチェンの域を出ないし。まずは女友達を名前で呼んでみようかなって思ってる」
「へえー、それは結構いいんじゃない?」

 壬生川さんは女友達でも全員名字で呼んでいるが、ゴージャスなお嬢様という扱いを脱したいならばその習慣は早めに改めるべきだろう。

 事実、今の彼女も僕の前では剖良先輩はさっちゃん先輩、カナやんはカナちゃんと名前(あだ名)で呼んでいる。


「あんたとお昼ご飯を一緒に食べてるのも知られてきてるみたいで、付き合ってるのかと聞かれることも時々あるわ。今は適当に流してるけど、さっさと大学デビューを済ませてそのまま5月を終わらせて有耶無耶うやむやにしたいわね。どうせ彼女もいないんだし今月末までは付き合って貰うわよ」
「僕も食費が浮いて……いや、まあお弁当は嬉しいからよろしくお願いします」

 そう言って座ったまま頭を下げると壬生川さんはバッグを持って立ち上がった。

「今日は部活?」
「部活はないけど帰る前にちょっと寄る所があるの。また来週よろしくね」

 壬生川さんはそう言うと軽く右手を上げて会議室を後にした。
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