気分は基礎医学

輪島ライ

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2019年3月 解剖学基本コース

6 気分は想定外

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 2019年3月9日、土曜日。時刻は朝の9時ちょうど。

 集合時刻に遅れないよう僕は7時には起きて朝食を済ませ、ヤミ子先輩から指示された通りに白衣と名札を準備して下宿を出ていた。

 基礎医学系の実験室に入る際は白衣の着用が望ましいし、僕は現在どの教室の所属でもないからこの1年間は白衣に実習用の名札を着用するようにとのことだった。


 昨日のミーティングルームとは異なり研究棟6階の解剖学教室には1回生の後半に何度か訪れていたので集合場所には苦労なくたどり着けた。

 この大学の主要な教室には必ず会議室があり、定例ミーティングなどで使用されている時以外は誰でも入ってよいことになっている。

 教員のいる部屋に勝手に入っていいのは学生研究員に限られるが会議室への入室はどの学生にも許可されており、教員と話したい学生は内線電話やメールでアポを取った上でこの会議室で面会するのが一般的だ。


 ちなみに、この大学における学生研究員というのはヤミ子先輩や解川先輩のような研究医養成コース生とイコールではない。

 医学生の段階から各種の教室に所属して研究を行うこと、いわゆる「学生研究」の門戸はすべての学生に開かれており大学も積極的な参加を奨励している。

 研究医養成コースに所属していない学生でも自ら申し出れば学生研究に取り組めるが、その場合は学費減免といった優遇措置は一切適用されない。

 その代わりに在学中並びに卒業後の義務は一切課されず、研究を途中で中断したり卒業後に市中病院で臨床医になったりしても何一つ文句は言われない。

 「研究医養成コース生 ⇒ 学生研究員」という命題は成り立つが、「学生研究員 ⇒ 研究医養成コース生」という命題は成り立たないのだ。


 このような事情からも分かるように研究医養成コースの存在意義は学生研究の奨励という訳ではなく、コースの設置は慢性的な基礎系教員不足への対応を目的としている。

 研究医養成コースの学生は卒後10年間は必ず大学に残り、基礎医学系の教室で教員として勤務する義務がある。

 ヤミ子先輩なら病理学、解川先輩なら解剖学の教員になることが内定している訳で、大学としても学費減免と引き換えに教員を確保できるメリットは大きいだろう。

 僕がどの教室の教員を目指すことになるのかは1年後まで分からないが、ともかく後悔しないような選択をしたいと思った。


 そういったことを考えながら僕は解剖学教室の会議室のドアを開いた。

 誰でも入室自由である関係上、呼び出しを受けて教員室に入る時のようにノックをする必要はない。


 部屋の中には誰もいなかったが、適当な椅子に腰かけているとすぐに再びドアが開いた。

 振り向いた先には予想通り解川先輩がいて、僕はすぐさま脳内でシミュレーションしていた対応を行動に移した。


「解川先輩、おはようございます!」

 といっても立ち上がって普通に挨拶するだけである。

 医学部は学生数の少なさのせいで非常に世間が狭いので、自分を敬遠する相手にも最大限の礼儀を尽くすのが賢い生存戦略ということになる。


「おはよう、白神君」

 えっ?


「朝早くから呼び出してごめん。初回の説明は先生にやって貰う必要があるから、土曜日でも昼過ぎからって訳にはいかなくて」

 この展開はシミュレーションになかった。


「……どうしたの?」

 想定外の展開に思考停止していると、解川先輩は不思議そうに尋ねた。


「あ、いや、何でもないです」

 辛うじてそう答えると、解川先輩は昨日の冷たいというレベルではない態度が嘘だったかのように僕を何事もなく教員室へと案内した。

 会議室はあくまで集合に使っただけで、今から講師の先生に別室で教室説明を受けるらしい。


「私とかヤミ子は春休みも夏休みも研究で大学に行くのが当たり前だけど、白神君は慣れてないから大変ね」
「え、ええ。そうですね……」

 昨日とは打って変わって僕の方から中々会話を展開できない。

 この人はいわゆるジキルとハイド的な感じなのだろうか。


 ぎこちなく会話しながら教員室にたどり着き、僕と解川先輩は教室説明担当の先生に挨拶した。

 解剖学教室講師の佐川先生とは講義や解剖実習で以前から既に知り合いであり、先生も僕が研究医養成コースに転入したと聞いて驚いたらしい。

 佐川先生はもうすぐ40歳になるが若々しくやる気に溢れた男性で、学生からの人気も高かった。


 医学部教員の階級は世間にはあまり馴染みがないので、この大学での例を簡単に説明しておく。

 階級が高い順に教授>準教授>講師>助教>助教補となっており、基礎医学教室では30代後半~40代ぐらいの人が講師である場合が多い。

 年功序列が徹底されている社会ではないので50代前半で教授になる人もいれば定年退官が近くなっても講師のまま勤務している先生もいる。

 基礎医学教室では誰もが昇格を望む訳ではなく、研究者としての人生設計は人それぞれなので「万年講師」といった蔑称はナンセンスだということは僕も入学後に学んでいた。


 佐川先生は教室説明のためにスライド資料を用意してくれていて、受講者となる僕はもちろん僕の指導を担当する解川先輩も改めて先生の説明を聞いていた。

 その眼差しはとても真剣で、解川先輩が実際どういうキャラクターなのかはよく分からないが少なくとも研究には真面目なのだろうと思われた。
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