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三田界の神
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時空の狭間に存在する三田界は、命名の法がすべてを司る世界である。
この世界に生まれた人間は生まれながらにして名字を持ち、大多数の人々は神聖なる文字「田」をその名に持って命を授かる。
三田界の三田とは陸地を統べる野田、水上を統べる河田、大気を統べる山田という三つの法を意味し、三田界の社会構造は生産、消費、教育、福祉、そして軍事とあらゆる面がこの三つの法に基づいている。
三田界は野田・河田・山田の法によって維持されているが、生まれてくる人間の中にはごくまれに「田」を名字に持たないものも存在する。
鈴木、佐藤、山本といった名字の人々は無田人と呼ばれて差別され、世界の果てにある収容所に送られる。
無田人収容所は隔離施設とは名ばかりの強制労働施設であり無田人たちは三田界において忌避される過酷な労働に従事させられる他、一部の無田人は他の世界との戦争に使役される。
三田界の隣には野村・河村・山村の法に基づく三村界、野島・河島・山島の法に基づく三島界といった異なる神聖文字に基づく世界があり、異なる法に基づく世界同士の争いは絶えなかった。
「……私は無田人高等弁務官として、三田界における無田人差別の禁止を提言致します。確かに無田人は神聖なる文字の加護を受けられず、一般の人間よりも野蛮な性質を持つ者が多いのは事実です。ですが彼らの多くは過酷な収容所にありながらも勤勉に働き、一部には私のような名誉三田人として社会で暮らしている者もいます。このことを考慮すれば私たちに無田人を差別する正当性はありません」
三田界政府の小委員会で演説を行う彼は、名を佃といった。名字に田という文字を持たない彼は本来であれば無田人として社会から隔離されるが、佃という文字は田という文字を含んでいるため神聖文字の加護を部分的に受けられる彼は名誉三田人として一般社会で暮らしていた。
佃は過酷な境遇を強いられる無田人たちを救うために幼い頃から勉学に励み、差別を受けながらも現在では三田界政府直属の無田人高等弁務官として働いていた。
「しかし弁務官殿、神聖文字の加護を受けられない無田人たちを突然解放してもすぐに社会に溶け込めるとは考えられません。神聖文字の加護を受けている三田人との衝突も予想されますし、まずは名誉三田人の適応拡大から始めるべきではありませんか」
新田総務大臣がそう指摘すると、和田防衛大臣も続けて口を開いた。
「私としても弁務官殿のお気持ちは理解できますが昨今では三村界の侵攻が勢いを増しており、国土の防衛に無田人たちの協力は不可欠です。我々は名誉三田人認定を彼らへの報酬としなければ市民を守れない状況になってしまっているのです」
大臣たちの提案した対案は無田人差別の根本的な解決にはなっていないが、社会情勢を考慮すると現時点では名誉三田人の適応拡大を行うしかないと思われた。
「分かりました。皆様のご意見を受け、ひとまずは名誉三田人法の改正を国会で提案致します。各省の大臣には現状に甘んじることなく、無田人の地位向上を行えるよう社会情勢の安定化に向けた努力をお願いします」
佃がそう言うと小委員会は解散となった。
「この世界を変えたくてここまで来たが、なかなか上手くはいかないな……」
高等弁務官室のデスクに向かい、佃は国会で名誉三田人法改正法案を通過させる方法を考えていた。
「失礼します。今日もお掃除に参りました」
扉を3回ノックして入ってきた初老の男性は高等弁務官事務局の清掃を担当している神田だった。
「どうも神田さん。いつもありがとうございます」
「いえいえ、これも私の仕事ですから。面倒な仕事は無田人に押しつける風潮のせいで若い人は清掃業を敬遠しがちですが、まったく情けないことです」
無田人たちが世界の果ての収容所でごみ処理や危険作業に従事させられていることは表向き秘密になっているが、近年ではインターネットの発達によって一般市民にも知られてきていた。
「ええ。一言に面倒といっても社会に必要不可欠な仕事なのですから、特定の人に強制するのではなく相応の報酬を与えた上で希望者に担当して貰うべきです」
「確かにその通り。流石は弁務官さんですな」
神田はそう言うと、かっかっかと大きな声を出して笑った。
佃がデスクワークに戻ろうとした瞬間、神田は突然真剣な表情になると佃に向けて呼びかけた。
「ところで弁務官さん。この世界を今すぐ変えてみたいと思われますかな?」
「……というと?」
神田のただならぬ雰囲気に、佃は何かを察して問い返した。
「今から言うことは信じられんでしょうが、私はこの世界を創造した存在です。いわば神とでも言いましょうか。正確にはこの神田という男はただの人間で、私は神田という名字を依代にしてあなたに呼びかけている訳です」
この世界では名字はただの名前ではなく、それに含まれる文字が特別な効果を発揮する。今まさに目の前にいるのは神田という名字の男に憑依して自らに語りかけている神なのだと、佃は直感的に理解した。
「あなたが本当に神だというのならお聞きしたい。全能の神であるはずのあなたが、なぜ三田界に無田人という被差別階級を創造したのですか」
佃がそう問いかけると、神は冷徹な表情で答えた。
「名字が単なる記号としての価値しか持たない世界もありますが、そういった世界には差別が存在しない訳ではなく、能力や容姿といった個人の特性に基づく差別が行われています。私はこの世界を創造する時に個人の特性が名字で規定されることにして、差別されるのは本人のせいではなく名字のせいであるという社会を組み立てました。そうすれば差別される側は自らを責めずに済む訳です」
三田界における無田人とは神聖文字である「田」の加護を受けられない人々であり能力や容姿に劣っている他、性格に問題のある者が多いとされる。実際には無田人だから差別されるのではなく、差別されるような特性を持つ人間が無田人として生まれてきていたのだろう。
「弁務官さんが無田人を救いたいなら、私はこの世界に手を加えて神聖文字という概念を無くしてしまうこともできます。そうすれば無田人が差別されることはなくなりますが、その代わりに個人が特性に基づいて差別される社会が出来上がるでしょうね。あなたはその社会が今の三田界よりも幸せだと思われますか」
神にそう問いかけられ、佃は答えに窮してしまった。
「……分かりました。今はあなたの力をお借りすることはせず、この世界を上手く修正していく方法を考えます」
「それがいいでしょう。あなたが神に出会った記憶は消しておきますから、後は自分の力を信じてくださいな」
神がそう告げると佃の意識はプツリと途切れた。
意識が戻った時には佃は神と出会った記憶を失っており、目の前ではただの初老の男性である神田が部屋の掃除に励んでいた。
数日後。三田界の立法機関である国会で、佃は無田人高等弁務官として新規立法を提案する演説を行っていた。
無田人を隔離されるべき存在として扱う既存の法律を改め、無田人を社会に保護されるべき存在として扱うよう提案する法案は一定の支持を集めた。
特定の無田人だけを優遇する名誉三田人制度は廃止され、一般市民に忌避される仕事に従事する無田人の待遇は大幅に改善された。
各地の収容所は無田人作業所と改名され、無田人を恵まれない境遇にありつつも社会に大きく貢献する人々という評価に押し上げた佃の名は後世まで無田人の英雄として語り継がれた。
(完)
この世界に生まれた人間は生まれながらにして名字を持ち、大多数の人々は神聖なる文字「田」をその名に持って命を授かる。
三田界の三田とは陸地を統べる野田、水上を統べる河田、大気を統べる山田という三つの法を意味し、三田界の社会構造は生産、消費、教育、福祉、そして軍事とあらゆる面がこの三つの法に基づいている。
三田界は野田・河田・山田の法によって維持されているが、生まれてくる人間の中にはごくまれに「田」を名字に持たないものも存在する。
鈴木、佐藤、山本といった名字の人々は無田人と呼ばれて差別され、世界の果てにある収容所に送られる。
無田人収容所は隔離施設とは名ばかりの強制労働施設であり無田人たちは三田界において忌避される過酷な労働に従事させられる他、一部の無田人は他の世界との戦争に使役される。
三田界の隣には野村・河村・山村の法に基づく三村界、野島・河島・山島の法に基づく三島界といった異なる神聖文字に基づく世界があり、異なる法に基づく世界同士の争いは絶えなかった。
「……私は無田人高等弁務官として、三田界における無田人差別の禁止を提言致します。確かに無田人は神聖なる文字の加護を受けられず、一般の人間よりも野蛮な性質を持つ者が多いのは事実です。ですが彼らの多くは過酷な収容所にありながらも勤勉に働き、一部には私のような名誉三田人として社会で暮らしている者もいます。このことを考慮すれば私たちに無田人を差別する正当性はありません」
三田界政府の小委員会で演説を行う彼は、名を佃といった。名字に田という文字を持たない彼は本来であれば無田人として社会から隔離されるが、佃という文字は田という文字を含んでいるため神聖文字の加護を部分的に受けられる彼は名誉三田人として一般社会で暮らしていた。
佃は過酷な境遇を強いられる無田人たちを救うために幼い頃から勉学に励み、差別を受けながらも現在では三田界政府直属の無田人高等弁務官として働いていた。
「しかし弁務官殿、神聖文字の加護を受けられない無田人たちを突然解放してもすぐに社会に溶け込めるとは考えられません。神聖文字の加護を受けている三田人との衝突も予想されますし、まずは名誉三田人の適応拡大から始めるべきではありませんか」
新田総務大臣がそう指摘すると、和田防衛大臣も続けて口を開いた。
「私としても弁務官殿のお気持ちは理解できますが昨今では三村界の侵攻が勢いを増しており、国土の防衛に無田人たちの協力は不可欠です。我々は名誉三田人認定を彼らへの報酬としなければ市民を守れない状況になってしまっているのです」
大臣たちの提案した対案は無田人差別の根本的な解決にはなっていないが、社会情勢を考慮すると現時点では名誉三田人の適応拡大を行うしかないと思われた。
「分かりました。皆様のご意見を受け、ひとまずは名誉三田人法の改正を国会で提案致します。各省の大臣には現状に甘んじることなく、無田人の地位向上を行えるよう社会情勢の安定化に向けた努力をお願いします」
佃がそう言うと小委員会は解散となった。
「この世界を変えたくてここまで来たが、なかなか上手くはいかないな……」
高等弁務官室のデスクに向かい、佃は国会で名誉三田人法改正法案を通過させる方法を考えていた。
「失礼します。今日もお掃除に参りました」
扉を3回ノックして入ってきた初老の男性は高等弁務官事務局の清掃を担当している神田だった。
「どうも神田さん。いつもありがとうございます」
「いえいえ、これも私の仕事ですから。面倒な仕事は無田人に押しつける風潮のせいで若い人は清掃業を敬遠しがちですが、まったく情けないことです」
無田人たちが世界の果ての収容所でごみ処理や危険作業に従事させられていることは表向き秘密になっているが、近年ではインターネットの発達によって一般市民にも知られてきていた。
「ええ。一言に面倒といっても社会に必要不可欠な仕事なのですから、特定の人に強制するのではなく相応の報酬を与えた上で希望者に担当して貰うべきです」
「確かにその通り。流石は弁務官さんですな」
神田はそう言うと、かっかっかと大きな声を出して笑った。
佃がデスクワークに戻ろうとした瞬間、神田は突然真剣な表情になると佃に向けて呼びかけた。
「ところで弁務官さん。この世界を今すぐ変えてみたいと思われますかな?」
「……というと?」
神田のただならぬ雰囲気に、佃は何かを察して問い返した。
「今から言うことは信じられんでしょうが、私はこの世界を創造した存在です。いわば神とでも言いましょうか。正確にはこの神田という男はただの人間で、私は神田という名字を依代にしてあなたに呼びかけている訳です」
この世界では名字はただの名前ではなく、それに含まれる文字が特別な効果を発揮する。今まさに目の前にいるのは神田という名字の男に憑依して自らに語りかけている神なのだと、佃は直感的に理解した。
「あなたが本当に神だというのならお聞きしたい。全能の神であるはずのあなたが、なぜ三田界に無田人という被差別階級を創造したのですか」
佃がそう問いかけると、神は冷徹な表情で答えた。
「名字が単なる記号としての価値しか持たない世界もありますが、そういった世界には差別が存在しない訳ではなく、能力や容姿といった個人の特性に基づく差別が行われています。私はこの世界を創造する時に個人の特性が名字で規定されることにして、差別されるのは本人のせいではなく名字のせいであるという社会を組み立てました。そうすれば差別される側は自らを責めずに済む訳です」
三田界における無田人とは神聖文字である「田」の加護を受けられない人々であり能力や容姿に劣っている他、性格に問題のある者が多いとされる。実際には無田人だから差別されるのではなく、差別されるような特性を持つ人間が無田人として生まれてきていたのだろう。
「弁務官さんが無田人を救いたいなら、私はこの世界に手を加えて神聖文字という概念を無くしてしまうこともできます。そうすれば無田人が差別されることはなくなりますが、その代わりに個人が特性に基づいて差別される社会が出来上がるでしょうね。あなたはその社会が今の三田界よりも幸せだと思われますか」
神にそう問いかけられ、佃は答えに窮してしまった。
「……分かりました。今はあなたの力をお借りすることはせず、この世界を上手く修正していく方法を考えます」
「それがいいでしょう。あなたが神に出会った記憶は消しておきますから、後は自分の力を信じてくださいな」
神がそう告げると佃の意識はプツリと途切れた。
意識が戻った時には佃は神と出会った記憶を失っており、目の前ではただの初老の男性である神田が部屋の掃除に励んでいた。
数日後。三田界の立法機関である国会で、佃は無田人高等弁務官として新規立法を提案する演説を行っていた。
無田人を隔離されるべき存在として扱う既存の法律を改め、無田人を社会に保護されるべき存在として扱うよう提案する法案は一定の支持を集めた。
特定の無田人だけを優遇する名誉三田人制度は廃止され、一般市民に忌避される仕事に従事する無田人の待遇は大幅に改善された。
各地の収容所は無田人作業所と改名され、無田人を恵まれない境遇にありつつも社会に大きく貢献する人々という評価に押し上げた佃の名は後世まで無田人の英雄として語り継がれた。
(完)
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