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16.オーディション

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 謝罪会見をしてから恋の周囲は一時的に騒がしかったけれど、恋は気にせずにコンディションを整えていた。雅親の原作の舞台のオーディションが近いのだ。
 以前ならばオーディションに出れば恋は注目を浴びたし、役も勝ち取ってきた。
 今回は不倫騒動というイメージを落とすことがあってからのオーディションになるから、気合を入れなければいけなかった。

 二週間の雅親の家での引きこもり状態を解かれて、なまっていた体も鍛え直し、ボイストレーニングにも通った。肉体的にも喉も最高の状態で迎えたオーディションだった。

 天音の車でオーディションの会場に行くと注目されているのが分かる。
 気合を入れて一番の乗り込んだのだが、続いて席に座っていく他の俳優たちが小声で恋のことを話している。

「不倫のイメージがついたんじゃ、主役は無理だろう」
「監督もここで逆島恋を選ぶことはないだろう」

 不倫というのが一般的にどれだけイメージを崩すのか、他の俳優や女優の不倫騒動があるたびに実感していなかったわけではなかったが、自分がその渦中に陥るとは思っていなかった。
 この役を落としたら、雅親に舞台を見てもらえないかもしれない。

 監督や演出のひとたちが揃って、俳優たちが座っている前のテーブル席に着く。
 最初に呼ばれたのは恋だった。

「名前と所属をお願いします」
「佐倉芸能事務所所属の逆島恋です」

 立ち上がって挨拶をすると、監督が鋭い目つきで恋を見てくる。

「原作は読みましたか?」
「この作者の本はほとんど読んでいます。原作になった小説は特に好きなものです」
「主人公の蔵に閉じ込められた神の台詞を一つ、演じてもらえますか?」

 こういう無茶ぶりをされるのには慣れている。
 主人公の蔵に閉じ込められた神は、穏やかで物静かで、全てを諦めたようなところがあった。それを嫁となる少女が解放していくのだ。
 結んでいた髪を解くと、肩を超す長い黒髪がさらさらと揺れる。
 小説の中で蔵の中に閉じ込められた神が初めて声を出すのは、少女に出会ってからだった。

「『あ……あぁ……ずっと声を出していないから、出し方を忘れてしまった気がします。私の声は、怖くありませんか?』」

 軽く咳払いをして、喉から絞り出すような声から、穏やかな声に変わっていくのを周囲の俳優たちが聞いて息を飲んでいる。

「あれ、逆島恋の声か?」
「全く別人じゃないか」

 ざわめきを治めるように監督が声を上げた。

「ありがとうございます。着席くださって結構です」

 一礼して座ろうとした恋に、演出家が声を上げた。

「蔵に閉じ込められた神は少女のことを一途に思う役です。家庭のある女性と恋愛をしたあなたが、その役を務められると思っていますか?」

 座りかけた足を伸ばし、背筋を正して恋は答える。

「私には演技しかない。私は最善を尽くすのみです。後は見た方が解釈するでしょう」

 小説について雅親に何度か聞いたことがあった。
 この小説の中で主人公はどういう考えを持っているのか。
 そのときに雅親は、読者に委ねるとだけ言って、答えをくれなかった。

 その雅親の小説が原作の作品を演じるにあたって、恋が最適だと思った答えはそれだった。

 オーディションが終わって、結果は後日と言われて帰るときに、天音が恋に零す。

「私が笠井雅親の姉だから、逆島恋はひいきされるんじゃないかって言ってたやつもいましたね」
「雅親さんは選考に全く関わらないのに」
「まさくんの部屋で二週間過ごしたことが公になったら、また雑誌を騒がせそうな気がします」
「そうであっても、僕にやましいことは一つもないよ」

 答えたものの、やましいことがなかったかと言えば噓になる。
 恋は雅親にやましい感情を抱いている。
 雅親が自分がいなくなって喪失感を覚えていればいいと思っている。

「『まさくん』って呼ぶの、やめたんですね」
「最初からそうしていればよかった。僕は卑怯だった。天音さんの呼び方に乗じて、雅親さんの懐に入ろうとしたんだ」

 恋が雅親のことを「まさくん」と呼んでいたのは、あの二週間、天音と何度も電話をしていたので知られている。
 家族の様に迎えてほしかった気持ちがあったのは確かだ。
 それが甘えであったことは今ならはっきり分かる。
 今からでも間に合うなら、恋は雅親の呼び方を改めて、一人の男性として雅親の前に立ちたかった。

「顔つきが変わりましたね。もしかして、本気なんですか?」
「何が?」
「弟のこと」

 「もし」と仮定の話では口に出していたが、雅親の姉にそれを告げるのはあまりにも恥ずかしいし、雅親にとってもよくないと思って恋は口を閉じる。
 一緒に暮らす時間を伸ばしたいくらいに執着していた。
 恋は雅親が好きなのだと思う。

 最初は自分のできないことを教えてくれて、丁寧に知らないことを説明してくれる雅親に惹かれた。しかし、それ以前に雅親の小説を読んで雅親に惹かれていたのは確かだし、小説だけでなく実物に会うと知的で物静かで、そばにいて居心地がよくてますます惹かれた。

「僕の気持ちは、最初に本人に伝える。天音さんに伝えるかどうか決めるのは、それからだ」

 はっきりと言えば、天音はそれ以上恋を追及してこなかった。

 オーディションの結果が届くまで、恋は粛々と体を鍛え、ボイストレーニングをして、コンディションを整えていた。
 オーディションの結果が天音経由で届いたのは数日後のこと。
 恋は主役の蔵に閉じ込められた神の役だった。

 神託を文字に綴って毎週蔵の隙間から出すだけで、声を発することもなくずっと閉じ込められていた神に、さらなる繁栄をもたらしてもらおうと、少女の花嫁が差し出される。
 最初は花嫁などいらないと拒否した神だが、少女が行き場のない立場だと知って、蔵に受け入れる。
 それまで食事も毎日運ばれてきていたが口を付けることがなかったのに、少女との食事は楽しくて、少しずつ口数も多くなってくる神と、虐げられていたがゆえに最初は神を恐れているがだんだんと打ち解けてくる少女。
 そのうちに少女は閉じ込められた神を解放することを考え出す。

 不倫のスキャンダルで二週間閉じ込められたような生活だった恋。
 台本を手にして思い出すのは雅親のことだ。
 雅親はこの蔵に閉じ込められた神の様に自分を閉じ込めているのではないだろうか。

 雅親に心を和ませる花嫁の存在はいない。
 閉じた世界で毎日変わらない生活をして、自ら閉じ込められているようだ。

 雅親の世界を解放したいだなんて、傲慢なことは言わない。
 雅親があの生活で満足しているのを恋は知っているし、無理やりにこじ開けるように世界を広げられるのは恋も不快だった。
 ただ、あの世界の中に恋くらいは入れてほしい。

 恋は少女の花嫁にはなれないが、雅親の何かになれるのではないだろうか。
 雅親の近くにいられる何かになりたい。

 そのためにも、この舞台を成功させて雅親に認めてもらいたい。

「今週末にはポスターの写真撮影がありますからね」
「頑張ります」

 それまでには役を掴んでおいて、カメラの前でその役を完全に再現しなければいけない。
 オーディションで選ばれたのに、恋に対して雑誌は不倫騒動を持ち出して「逆島恋、本当に誠実な神になれるのか」とか書き立てているが、それを全部黙らせる演技をしなければならないだろう。

 演技だけが恋の全てなのだから。
 演技の神様に命は捧げている。

 自分の最高の演技を雅親に見てもらう。
 舞台が終わったら、恋は雅親に聞いてほしいことがあった。

 泣いて縋って、好きだと言えば雅親は絆されてくれるかもしれない。
 演技も台詞を言うのも恋は得意中の得意だ。
 それで雅親が自分のものになるのならば手段は選ばない。

 それだけ恋も必死に雅親のことを求めていた。
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