世界最強の魔術師の恋 ~最強のはずなのに弟子が怖いんですけど~

秋月真鳥

文字の大きさ
上 下
9 / 30

9.

しおりを挟む
 プレーンな食パンと、ナッツとレーズンを入れて黒糖で甘くしたパンを作ってオーブンで焼く。プレーンな食パンは食事のために、ナッツとレーズンを入れて黒糖で甘くしたパンはバターをたっぷり塗って食べるとおやつにもなる。パンの焼けるいい香りがキッチンとリビングに充満する中、セイジは昨夜のことについて考えていた。
 毒で汚染された川にイオのせいで落ちてしまって、目と喉をやられて術式が紡げずにいるセイジをカマルは聖なる水源に導いてくれた。カマル自身も毒に侵されていて苦しかったに違いないのに、そんなところは見せずにセイジを必死に助けてくれた。
 その後に倒れたカマルを助けるために服を脱がせたのも、口移しに聖なる水を飲ませたのも、必要な処置だった。
 これまで誰にも頼ったことなどなかったし、そんな場面に陥ることもなかったセイジが、自分を犠牲にしてまでセイジを助けようとしたカマルの心根に惹かれて口付けてしまったのを、カマルは勘違いした。健康な成人男性なのだからカマルの身体に惹かれないはずはないが、セイジはカマルの望まないことをするつもりはない。

――私はセイジ様になら何をされてもいい。それは覚えていてください

 セイジになら何をされてもいいというカマルの気持ちはどうなのだろう。
 自分の気持ちもはっきりと分かっていないまま、セイジはカマルのことばかり考えていた。

「いい匂いがするのです。師匠、オーブンの中でパンが焼けているのではないですか?」
「あ、もう焼けたかな」

 ひょっこりとキッチンに顔を出したイオに言われてセイジはオーブンを開けて中を確かめる。パン生地はしっかりと膨らんで綺麗な薄茶色に焼けていた。天板をオーブンから出して、パンを型から出して粗熱を取ろうとしているとイオの手が伸びる。

「待て、イオ! これは昼御飯だ!」
「こっちはイオのおやつのために作ってくれたのでしょう?」
「もうすぐ昼ご飯だろう。おやつは後だ」

 レーズンとナッツを入れて黒糖で甘くしたパンはイオの大好物である。食事をどれだけ食べさせてもすぐに「お腹が空いた」と言って来るイオが小さな頃からこれを与えていれば落ち着いていた。ただし、一斤の半分は一度に食べる。

「カマルさんの分を残させないと……」
「カマルさんにもおやつを作ってもらえば解決ですね」

 まだ食べたそうにしているイオを牽制しつつ、セイジはパンに魔術で作った小さな網をかけて虫が近寄らないようにしておいた。

「お洗濯、終わりました。お昼ご飯の準備に入りますか? すごくいい香り……」

 小屋の外で洗濯物を干していたカマルが戻って来て、玄関で靴を脱ぎながら室内に充満するパンの焼けた香りを吸い込んでいる。イオの目は爛々と輝いていて油断がならないので、セイジはそのまま昼食の準備に取り掛かることにした。

「カマルさん、氷室からひき肉を取って来てくれるか?」
「はい!」

 いい返事で洗濯籠を置いたカマルが再び靴を履いて外の氷室に向かう。今日は薄いハンバーグを焼いてパンに挟んで食べよう。そう決めて玉ねぎを刻もうと手に取ったところで、外からカマルの悲鳴が聞こえた。

「カマルさん!? どうしたのです!?」
「イオ! 落ち着け!」

 靴を履いて外に駆けていくイオを追いかけて、セイジも小屋の外に出た。氷室にしている倉庫は小屋の横にあって、小屋の庭を囲む柵にほど近い場所だった。


 氷室の近くに立っているカマルには鞭のようなものが絡み付いていて、柵の外から際どい服装の褐色の肌の女性がカマルを結界の外に引きずり出そうとしている。

「魔王様は姉君の不在に傷付いておいでです。早く戻って差し上げるのです」
「やめてください! 私は戻りません!」
「今は彼らもあなたを受け入れているかもしれませんが、勇者はいずれ魔王様とまた敵対する身。魔王様の異母姉であるあなたも共に処刑されるだけですよ」

 抵抗して身を捩って鞭から逃れようとするカマルに、際どい黒い革の服を着た女性は顔を歪める。

「あれだけ魔王様によくしていただいておきながら、裏切り者! 魔王様が異母弟だから体を満たしてくれなくて、持て余して、男を咥え込んだのですね」

 セイジの姿に血赤の瞳を向ける褐色の肌の女性は魔族だろう。カマルの言っていた魔王と関係のあった女性かもしれない。

「私は、そんなこと……」
「カマルさんを放すのです!」

 駆け付けたイオの放つ衝撃波が鞭を切っただけでなく、褐色の肌の女性にまで向く。避けきれず、褐色の肌の女性は腕に傷を負った。女性の背中に漆黒の翼が広がって空に飛びあがる。

「魔王様は決して諦めませんよ。あなたに逃げ場所などないのです」

 魔王の元に戻って共に生きて死ぬか、魔王の異母姉として処刑されるか、選択肢は二つしかないのだと言い放って魔族は飛び去って行った。氷室の傍に座り込むカマルにセイジが駆け寄ると、震えながらカマルの手がセイジに縋って来る。

「私は自由にはなれない……当然のことですね。ここの暮らしが幸せだっただけに、忘れていました……」
「カマルさん、そんなことはない。ここの暮らしは嫌か?」
「いえ……私にはもったいないくらい大事にしていただいていると思います」

 震えるカマルの身体をセイジは抱き締める。下心などない。傷付いて苦しんでいるカマルを癒したい気持ちだけだった。

「俺もイオもカマルさんとの暮らしに満足している。カマルさんはずっとここにいていいんだ」
「セイジ様……」
「カマルさんを俺もイオも全力で守る」

 宣言していると、イオが庭を区切る柵を検分していた。木の杭と有刺鉄線を境界線に結界が張ってあるはずなのだが、それを抜けて魔族の女性は鞭をカマルに絡ませてきた。勘の鋭いイオが不審に思うのは当然だった。
 じっと青い目を凝らして見ていたイオが、やれやれとため息をつく。

「師匠、ここの結界に綻びが出ています」
「なんでだ?」

 渋々カマルから離れて柵を見に行くと、木の杭にべっとりと血がついていて、それで奇妙な模様が書かれている。それが魔族の禁呪だということは、セイジにも一目で分かった。

「結界の強化が必要だな」
「私のせいで、またセイジ様とイオ様にご迷惑をおかけしてしまう」

 憂い顔のカマルを振り向いてセイジは笑顔を作る。

「悪いのはカマルさんじゃない」
「そうですよ。なんですか、あの女は! カマルさんのことを変な風に言うし!」

 ほっぺたを膨らませて怒っているイオは先ほどの女性の魔族の言葉も全然聞いていなかったのかもしれない。下品で聞かせたくもなかったので、こういうときだけは全くひとの話を聞かないイオの性質にセイジは安心する。

「イオがこの汚い血は流しておくので、師匠は美味しいお昼ご飯を作ってください」

 珍しくイオが自分から仕事を引き受けたので任せて、セイジは氷室からひき肉を取ってカマルと一緒に小屋に入った。ショックを受けているカマルを落ち着かせるためにも、一度小屋に戻った方がいいのはイオも分かっていたのだろう。
 玄関で靴を脱いでルームシューズに履き替えてセイジはキッチンに立つ。躊躇っていたがカマルにも手伝ってもらうことにした。

「カマルさん、玉ねぎのみじん切りはできるか?」
「やったことがないので教えてもらえますか?」

 包丁を握るカマルにセイジが玉ねぎのみじん切りの方法を教える。根っこの部分を残したまま皮を剥いて、最初に根っこの部分を残して上に向かって切り目を入れる。その後で横に切り目を入れたら最後に残るのは根っこの部分だけで綺麗に玉ねぎがみじん切りになる。

「目に沁みます」

 ほろりと金色の目から零れた涙に、セイジは自然と吸い寄せられるようにカマルの目元に口付けていた。口付けられてカマルがびくりと身体を震わせて固まってしまう。

「セイジ、さま?」
「カマルさんの涙があまりに綺麗だったから、つい」

 潤んだ瞳で見上げてくるカマルのふっくらとした唇に口付けたい。柔らかな感触をもうセイジは知っている。セイジが顔を近付けるとカマルが長い睫毛を伏せて目を閉じるのが分かった。
 そのまま口付けようとしたセイジだが、酷いタイミングでドアが開いた。

「お昼ご飯はもうできましたか?」

 元気よく入って来たイオに、セイジはカマルから慌てて身体を離したのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

神嫌い聖女と溺愛騎士の攻防録~神様に欠陥チートを付与されました~

咲宮
恋愛
 喋れない聖女×聖女を好きすぎる護衛騎士の恋愛ファンタジー。  転生時、神から祝福として「声に出したことが全て実現する」というチートを与えられた、聖女ルミエーラ。しかし、チートに欠陥が多いせいで喋れなくなってしまい、コミュニケーションは全て筆談に。ルミエーラは祝福を消そうと奮闘するもなかなか上手くいかない。  そして二十歳の生誕祭を迎えると、大神官は贈り物と称して護衛騎士の選択権を授けた。関係構築が大変だとわかっているので、いらないのが本音。嫌々選択することになると、不思議と惹かれたアルフォンスという騎士を選択したのだが……。  実はこの男、筆談なしでルミエーラの考えを読める愛の重い騎士だった!? 「わかりますよ、貴女が考えていることなら何でも」 (なんか思っていたのと違う……!?)  ただこの愛には、ある秘密があって……? ※小説家になろう様・カクヨム様でも掲載しております。 完結いたしました!!

【完結】22皇太子妃として必要ありませんね。なら、もう、、。

華蓮
恋愛
皇太子妃として、3ヶ月が経ったある日、皇太子の部屋に呼ばれて行くと隣には、女の人が、座っていた。 嫌な予感がした、、、、 皇太子妃の運命は、どうなるのでしょう? 指導係、教育係編Part1

雪解けの白い結婚 〜触れることもないし触れないでほしい……からの純愛!?〜

川奈あさ
恋愛
セレンは前世で夫と友人から酷い裏切りを受けたレスられ・不倫サレ妻だった。 前世の深い傷は、転生先の心にも残ったまま。 恋人も友人も一人もいないけれど、大好きな魔法具の開発をしながらそれなりに楽しい仕事人生を送っていたセレンは、祖父のために結婚相手を探すことになる。 だけど凍り付いた表情は、舞踏会で恐れられるだけで……。 そんな時に出会った壁の花仲間かつ高嶺の花でもあるレインに契約結婚を持ちかけられる。 「私は貴女に触れることもないし、私にも触れないでほしい」 レインの条件はひとつ、触らないこと、触ることを求めないこと。 実はレインは女性に触れられると、身体にひどいアレルギー症状が出てしまうのだった。 女性アレルギーのスノープリンス侯爵 × 誰かを愛することが怖いブリザード令嬢。 過去に深い傷を抱えて、人を愛することが怖い。 二人がゆっくり夫婦になっていくお話です。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

【完結】『飯炊き女』と呼ばれている騎士団の寮母ですが、実は最高位の聖女です

葉桜鹿乃
恋愛
ルーシーが『飯炊き女』と、呼ばれてそろそろ3年が経とうとしている。 王宮内に兵舎がある王立騎士団【鷹の爪】の寮母を担っているルーシー。 孤児院の出で、働き口を探してここに配置された事になっているが、実はこの国の最も高貴な存在とされる『金剛の聖女』である。 王宮という国で一番安全な場所で、更には周囲に常に複数人の騎士が控えている場所に、本人と王族、宰相が話し合って所属することになったものの、存在を秘する為に扱いは『飯炊き女』である。 働くのは苦では無いし、顔を隠すための不細工な丸眼鏡にソバカスと眉を太くする化粧、粗末な服。これを襲いに来るような輩は男所帯の騎士団にも居ないし、聖女の力で存在感を常に薄めるようにしている。 何故このような擬態をしているかというと、隣国から聖女を狙って何者かが間者として侵入していると言われているためだ。 隣国は既に瘴気で汚れた土地が多くなり、作物もまともに育たないと聞いて、ルーシーはしばらく隣国に行ってもいいと思っているのだが、長く冷戦状態にある隣国に行かせるのは命が危ないのでは、と躊躇いを見せる国王たちをルーシーは説得する教養もなく……。 そんな折、ある日の月夜に、明日の雨を予見して変装をせずに水汲みをしている時に「見つけた」と言われて振り向いたそこにいたのは、騎士団の中でもルーシーに優しい一人の騎士だった。 ※感想の取り扱いは近況ボードを参照してください。 ※小説家になろう様でも掲載予定です。

黒の神官と夜のお世話役

苺野 あん
恋愛
辺境の神殿で雑用係として慎ましく暮らしていたアンジェリアは、王都からやって来る上級神官の夜のお世話役に任命されてしまう。それも黒の神官という異名を持ち、様々な悪い噂に包まれた恐ろしい相手だ。ところが実際に現れたのは、アンジェリアの想像とは違っていて……。※完結しました

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【番外編完結】聖女のお仕事は竜神様のお手当てです。

豆丸
恋愛
竜神都市アーガストに三人の聖女が召喚されました。バツイチ社会人が竜神のお手当てをしてさっくり日本に帰るつもりだったのに、竜の神官二人に溺愛されて帰れなくなっちゃう話。

処理中です...