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二部 晃と霧恵編
弱いアルファでいいですか? 4
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撮影の仕事が長引いて、家に帰ったのは日付が変わる頃だった。
リビングの端の棚に飾ってある、ロットワイラーの血が入っていると思われる黒い大型の雑種犬と一緒に写った写真に「ただいま」を言って、霧恵は冷蔵庫から缶ビールを出そうとして、動きを止めた。
冷蔵庫の中に常備してあるはずの缶ビールが切れている。
「先週飲んだのが最後だったのかしら……やだわぁ」
週末にしか飲まないと決めているので、日付が開くとビールがなくなっていて買い足していないことを忘れてしまうことがある。焼酎の炭酸割りにでもするかともう一度冷蔵庫を開けて、炭酸水を確認すると、完全に炭酸が抜けていた。
「買いに行きましょうかねぇ」
疲れてはいたが、せっかくの金曜日で明日は休みなのだし、風呂上がりに一杯飲みたい。思いながら仕事用のカバンからお財布と携帯だけの最低限の荷物を出した霧恵は、携帯に着信が入っていることに気付いた。もう4時間も前の着信だが、その相手が晃であることに妙な胸騒ぎを覚える。
『これから電話しでも良いですか?』
丁寧にメールでそう聞いてくるが、一度も良いと言っていないので、晃は強引に霧恵に電話をかけてくるようなことはなく、メールだけでやり取りをしていた。メールを確認しても何も入っていないのに、着信だけが一回、入っているのが気になる。
遅い時刻なので憚られたが、霧恵は晃が心配で電話をかけた。
『きりえ、しゃん……』
ワンコールで出た晃は、泣いているようだった。
「どうしたの? 襲われた? 今どこにいるの?」
『い、いえの、ちかくの、ファミレス……』
「すぐ行くから、そこでじっとしてなさい」
アルファだがオーラのない晃は、オメガと間違われて襲われかけていたし、可愛い顔立ちなので痴漢にも遭っていた。最悪の事態を想定して、オメガが強姦された関係で伝のある警察や病院を携帯で調べつつ、車を飛ばして行ったファミレスの奥の席で、晃はドリンクバーだけ頼んで、ぷるぷると震えていた。
店員に「連れがいるから」と断って晃の隣りに腰掛けると、泣きながら抱き付いてくる。その髪や服が湿っていて、クーラーの風に肌が冷え切って鳥肌が立っているのに、霧恵はジャケットを脱いで晃に羽織らせた。
「ゆっくりで良いわ、言えることだけで構わない、話してくれる?」
「お、おうち、なくなって、しもた……」
「お家……あのアパートが?」
狭くて物が少ない印象が、玄関先から覗いただけでもしていたあの古いアパート。一階に住んでいた晃は二階の住人が不審火を出したので、消防車が駆け付けて、消火、その結果として、焼けはしなかったが部屋が全部水浸しになってしまったのだという。
唯一無事だったのは、尻のポケットに入れていた少しだけお金の入った財布と、防水の携帯だけ。大急ぎで濡れた預金通帳や印鑑など、大事なものは持って出たが、着ているのは薄いタンクトップと短パンという出で立ちで、細い脚が震えてクーラーに晒されていかにも寒々しい。
「4時間もここにいたの?」
「他に行くとこ、なかってん……教科書も、全部買い直さなあかんし、新しいお家……む、無理や……そんなお金、ない」
こういう場合火災保険が降りるのだろうが、あの安アパートは家賃を安くする代わりに保険に入っていなかったようなのである。不審火を出した上の住人も金がなくて、慰謝料を払ってくれるような状態ではないし、晃は携帯電話一つ買うために食費を切り詰めていたような生活をしていたのだ、すぐに次の住居を契約できるお金どころか、教科書を買い直すお金すらあるかどうか分からない。
「ご飯は食べたの? メールは来てなかったけど」
食事の時間に来るメールもそういえば来てなかったと問いかければ、それどころではなかったと晃が首を振る。きゅるるるると薄い腹が切なく鳴いた。
「本格的にあたしのペットになるしかない運命みたいね。おいでなさい」
手を差し伸べると、その手を握ってほろほろと晃は涙を流した。頼れる両親も親戚もなく、たった一人でクーラーの風の当たるファミレスの席で、タンクトップに短パンという部屋着姿でどれだけ心細かったのだろう。
「寒くない?」
「しゃむい……うち、クーラーなかってん」
クーラーのない部屋だったから、初夏なのに蒸し暑くてできるだけ涼しい格好をしていたら、突然の火災、消防車のサイレン、天井から降ってきた水に、貴重品だけを抱いて逃げてきた晃は、捨てられた子犬のようだった。
車に乗せて連れ帰ると、霧恵のTシャツとパンツを貸して、バスルームに押し込む。シャワーを浴びてほこほこになって出てきた晃は、真っ青だった唇に色が戻っていた。身長は霧恵の方が高いし、身体つきも鍛えているのでしっかりしているから、霧恵の服の丈は問題なかったが、晃の細い体は布の幅がかなり余っている。
「簡単なものしか作れないわよ」
「ええの?」
「それ以上痩せたら食べるところなくなっちゃうわ」
くすりと笑って、シーフードピラフとわかめスープを作ると、ものすごい勢いで晃はかき込んでいた。
来客用の歯ブラシを渡して洗面所に連れて行って、歯磨きが終わって出てきた晃がまた泣いているのに、霧恵は苦笑して引き寄せて豊かな胸に抱き締める。鍛え上げているので、たっぷりとした胸の下には胸筋があって、程よい弾力に、晃が「ほわぁ」と感銘を受けている。
「大変だったわね、チワワちゃん。今日はうちに泊まりなさい」
「今日だけ? 霧恵さん、やさしぃしてくれるけど、でも、俺、お礼もできへんのや。ほんま、こんだけしかないんです」
押し付けられた預金通帳の残高は、携帯電話の通信料と家賃と水光熱費を引けば、ゼロに近付くような金額だった。
「これは、もらえないわ。アナタのだもの」
「バイト、増やすさかい、家賃……」
それ以上は言わせないと、霧恵は指先で晃の顎を掬い上げた。口付けると、素直に唇を開けた晃の口蓋を舐め、舌を引っ張り出して吸って、舌先を甘く噛む。同じことを必死に返そうとする晃のしたいようにさせて、舌を絡めて、唇を離すと、べったりと口紅のついた晃は蕩けた表情になっていた。
「うち、広いのよ。この子が、あたしが18歳まで飼ってたミナよ。保健所からもらったときにはもう成犬で、大型犬は貰い手がいないから処分されるかもしれないって言われて、放っておけなかったの」
写真立ての写真を見せる霧恵に、晃がそれを手にとってじっと見つめる。ロットワイラーの血が入っている黒い大型犬は、10歳の霧恵にもらわれて、それから8年間一緒に過ごした。寝るのも一緒、ランニングをするのも一緒、学校に行っている間以外は、勉強中も足元にずっといてくれた。
「18歳で一緒に寝てたら、朝起きたら動かなくなってたのよね。最後までそばにいてくれた……もう犬は飼うことはないと思ってたけど、仕方ないわ、死にそうなチワワちゃんを放って置けないものね」
「俺を、飼うてくれるん?」
「部屋は余ってるし、出て行きたくなるまで、うちにいると良いわ」
ワンフロアぶち抜きのマンションの最上階は広くて、一人暮らしには寂しすぎる。かつては両親と飼い犬のミナと一緒に暮らしていたのだが、両親は霧恵が成人してから、海外に行ってしまった。
「こんなに、やさしぃしてくれるひとは、初めてや……霧恵さん、好きや」
「はいはい、良い子ね。ベッドの準備をするから、待ってて」
「ふぇ……ひ、一人で寝らなあかんの?」
「そりゃそうでしょ」
当然のように答えれば、「きゅぅん」と晃は犬のような声をあげた。
「俺、霧恵さんのチワワやろ? ミナちゃんとは寝とったんやろ?」
「……なにか不埒なことしたら、追い出すわよ?」
「せぇへん! 霧恵さんがしてくれるなら、喜んでされるけど」
胸を張って宣言する晃は、今まで体を交わしたアルファの誰よりも純粋な目をしていて、チワワが霧恵のような獰猛な肉食獣を食べられるとも思えなかった。
シャワーを浴びて、シャンパンゴールドの薄いパジャマを着てベッドに入ると、晃もそそくさと入ってくる。ぎゅっと抱き付いて、胸に顔を埋める様子は、欲情した雄というよりも、母親を求める幼子のようなイメージで、撫でていると今日一日の怒涛のような恐怖に滲んだ涙で胸が濡れた気がしたが、健やかな寝息が聞こえてきた。
痩せて、お目目だけが大きな、震えるチワワ。
その日から、霧恵は晃をペットとして飼うことになる。
リビングの端の棚に飾ってある、ロットワイラーの血が入っていると思われる黒い大型の雑種犬と一緒に写った写真に「ただいま」を言って、霧恵は冷蔵庫から缶ビールを出そうとして、動きを止めた。
冷蔵庫の中に常備してあるはずの缶ビールが切れている。
「先週飲んだのが最後だったのかしら……やだわぁ」
週末にしか飲まないと決めているので、日付が開くとビールがなくなっていて買い足していないことを忘れてしまうことがある。焼酎の炭酸割りにでもするかともう一度冷蔵庫を開けて、炭酸水を確認すると、完全に炭酸が抜けていた。
「買いに行きましょうかねぇ」
疲れてはいたが、せっかくの金曜日で明日は休みなのだし、風呂上がりに一杯飲みたい。思いながら仕事用のカバンからお財布と携帯だけの最低限の荷物を出した霧恵は、携帯に着信が入っていることに気付いた。もう4時間も前の着信だが、その相手が晃であることに妙な胸騒ぎを覚える。
『これから電話しでも良いですか?』
丁寧にメールでそう聞いてくるが、一度も良いと言っていないので、晃は強引に霧恵に電話をかけてくるようなことはなく、メールだけでやり取りをしていた。メールを確認しても何も入っていないのに、着信だけが一回、入っているのが気になる。
遅い時刻なので憚られたが、霧恵は晃が心配で電話をかけた。
『きりえ、しゃん……』
ワンコールで出た晃は、泣いているようだった。
「どうしたの? 襲われた? 今どこにいるの?」
『い、いえの、ちかくの、ファミレス……』
「すぐ行くから、そこでじっとしてなさい」
アルファだがオーラのない晃は、オメガと間違われて襲われかけていたし、可愛い顔立ちなので痴漢にも遭っていた。最悪の事態を想定して、オメガが強姦された関係で伝のある警察や病院を携帯で調べつつ、車を飛ばして行ったファミレスの奥の席で、晃はドリンクバーだけ頼んで、ぷるぷると震えていた。
店員に「連れがいるから」と断って晃の隣りに腰掛けると、泣きながら抱き付いてくる。その髪や服が湿っていて、クーラーの風に肌が冷え切って鳥肌が立っているのに、霧恵はジャケットを脱いで晃に羽織らせた。
「ゆっくりで良いわ、言えることだけで構わない、話してくれる?」
「お、おうち、なくなって、しもた……」
「お家……あのアパートが?」
狭くて物が少ない印象が、玄関先から覗いただけでもしていたあの古いアパート。一階に住んでいた晃は二階の住人が不審火を出したので、消防車が駆け付けて、消火、その結果として、焼けはしなかったが部屋が全部水浸しになってしまったのだという。
唯一無事だったのは、尻のポケットに入れていた少しだけお金の入った財布と、防水の携帯だけ。大急ぎで濡れた預金通帳や印鑑など、大事なものは持って出たが、着ているのは薄いタンクトップと短パンという出で立ちで、細い脚が震えてクーラーに晒されていかにも寒々しい。
「4時間もここにいたの?」
「他に行くとこ、なかってん……教科書も、全部買い直さなあかんし、新しいお家……む、無理や……そんなお金、ない」
こういう場合火災保険が降りるのだろうが、あの安アパートは家賃を安くする代わりに保険に入っていなかったようなのである。不審火を出した上の住人も金がなくて、慰謝料を払ってくれるような状態ではないし、晃は携帯電話一つ買うために食費を切り詰めていたような生活をしていたのだ、すぐに次の住居を契約できるお金どころか、教科書を買い直すお金すらあるかどうか分からない。
「ご飯は食べたの? メールは来てなかったけど」
食事の時間に来るメールもそういえば来てなかったと問いかければ、それどころではなかったと晃が首を振る。きゅるるるると薄い腹が切なく鳴いた。
「本格的にあたしのペットになるしかない運命みたいね。おいでなさい」
手を差し伸べると、その手を握ってほろほろと晃は涙を流した。頼れる両親も親戚もなく、たった一人でクーラーの風の当たるファミレスの席で、タンクトップに短パンという部屋着姿でどれだけ心細かったのだろう。
「寒くない?」
「しゃむい……うち、クーラーなかってん」
クーラーのない部屋だったから、初夏なのに蒸し暑くてできるだけ涼しい格好をしていたら、突然の火災、消防車のサイレン、天井から降ってきた水に、貴重品だけを抱いて逃げてきた晃は、捨てられた子犬のようだった。
車に乗せて連れ帰ると、霧恵のTシャツとパンツを貸して、バスルームに押し込む。シャワーを浴びてほこほこになって出てきた晃は、真っ青だった唇に色が戻っていた。身長は霧恵の方が高いし、身体つきも鍛えているのでしっかりしているから、霧恵の服の丈は問題なかったが、晃の細い体は布の幅がかなり余っている。
「簡単なものしか作れないわよ」
「ええの?」
「それ以上痩せたら食べるところなくなっちゃうわ」
くすりと笑って、シーフードピラフとわかめスープを作ると、ものすごい勢いで晃はかき込んでいた。
来客用の歯ブラシを渡して洗面所に連れて行って、歯磨きが終わって出てきた晃がまた泣いているのに、霧恵は苦笑して引き寄せて豊かな胸に抱き締める。鍛え上げているので、たっぷりとした胸の下には胸筋があって、程よい弾力に、晃が「ほわぁ」と感銘を受けている。
「大変だったわね、チワワちゃん。今日はうちに泊まりなさい」
「今日だけ? 霧恵さん、やさしぃしてくれるけど、でも、俺、お礼もできへんのや。ほんま、こんだけしかないんです」
押し付けられた預金通帳の残高は、携帯電話の通信料と家賃と水光熱費を引けば、ゼロに近付くような金額だった。
「これは、もらえないわ。アナタのだもの」
「バイト、増やすさかい、家賃……」
それ以上は言わせないと、霧恵は指先で晃の顎を掬い上げた。口付けると、素直に唇を開けた晃の口蓋を舐め、舌を引っ張り出して吸って、舌先を甘く噛む。同じことを必死に返そうとする晃のしたいようにさせて、舌を絡めて、唇を離すと、べったりと口紅のついた晃は蕩けた表情になっていた。
「うち、広いのよ。この子が、あたしが18歳まで飼ってたミナよ。保健所からもらったときにはもう成犬で、大型犬は貰い手がいないから処分されるかもしれないって言われて、放っておけなかったの」
写真立ての写真を見せる霧恵に、晃がそれを手にとってじっと見つめる。ロットワイラーの血が入っている黒い大型犬は、10歳の霧恵にもらわれて、それから8年間一緒に過ごした。寝るのも一緒、ランニングをするのも一緒、学校に行っている間以外は、勉強中も足元にずっといてくれた。
「18歳で一緒に寝てたら、朝起きたら動かなくなってたのよね。最後までそばにいてくれた……もう犬は飼うことはないと思ってたけど、仕方ないわ、死にそうなチワワちゃんを放って置けないものね」
「俺を、飼うてくれるん?」
「部屋は余ってるし、出て行きたくなるまで、うちにいると良いわ」
ワンフロアぶち抜きのマンションの最上階は広くて、一人暮らしには寂しすぎる。かつては両親と飼い犬のミナと一緒に暮らしていたのだが、両親は霧恵が成人してから、海外に行ってしまった。
「こんなに、やさしぃしてくれるひとは、初めてや……霧恵さん、好きや」
「はいはい、良い子ね。ベッドの準備をするから、待ってて」
「ふぇ……ひ、一人で寝らなあかんの?」
「そりゃそうでしょ」
当然のように答えれば、「きゅぅん」と晃は犬のような声をあげた。
「俺、霧恵さんのチワワやろ? ミナちゃんとは寝とったんやろ?」
「……なにか不埒なことしたら、追い出すわよ?」
「せぇへん! 霧恵さんがしてくれるなら、喜んでされるけど」
胸を張って宣言する晃は、今まで体を交わしたアルファの誰よりも純粋な目をしていて、チワワが霧恵のような獰猛な肉食獣を食べられるとも思えなかった。
シャワーを浴びて、シャンパンゴールドの薄いパジャマを着てベッドに入ると、晃もそそくさと入ってくる。ぎゅっと抱き付いて、胸に顔を埋める様子は、欲情した雄というよりも、母親を求める幼子のようなイメージで、撫でていると今日一日の怒涛のような恐怖に滲んだ涙で胸が濡れた気がしたが、健やかな寝息が聞こえてきた。
痩せて、お目目だけが大きな、震えるチワワ。
その日から、霧恵は晃をペットとして飼うことになる。
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