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僕が抱かれるはずがない! ~僕の可愛いひと~
僕の可愛いひと 1
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紆余曲折あって、パン焼き器は今日も活躍している。
最初の目的は、ジェイムズがアメリカで気に入っていた甘いふわふわのパンを作ることだった。砂糖が多めになると、パンはよく膨らんでふわふわになる上に、甘く美味しくなる。
「太って振られてしまえ」とはジェイムズのアメリカでの同僚だった女性、ハリエットのセリフだが、趣味でジムに通うジェイムズは不思議と太らない。それどころか、頭脳労働なので低血糖になりやすいのか、顔色が悪いことも多い。
エルドレッドと一緒に暮らすまでは、食生活も睡眠も不摂生で不規則な生活をしていたようなので、結婚する前から気を配ってはいた。結婚してからは更に気を付けている。
パン焼き器は、捏ねる作業だけをさせることもできて、今はピザ生地を捏ねている。その間にエルドレッドはピザ用のトマトソースを煮詰めていた。
妊娠していた兄、ラクランの手伝いのために家に行って、ついでに父のヘイミッシュから料理を習っていた時期に、エルドレッドは甘いパンの作り方を教えてもらった。実際に作ってみたのだが、材料を計る、混ぜて捏ねて纏める、発酵させる、形を整えて焼き型に入れる、発酵させるという手順に、何時間もかかることが信じられなかった。
時間がかかるので他のことをしていると、すっかり忘れてしまって、発酵したパン生地が潰れてカチカチになってしまったこともある。
料理のセンスはヘイミッシュやラクランに似て悪くないと思いたいのだが、エルドレッドは集中してしまうとそのことだけに頭が向いて、他のことを忘れてしまう悪い癖があった。その集中力で勉強や論文はこなせるのだが、マルチタスクの作業となると急に効率が悪くなってしまう。
パン作りに挫折しかかっていたときにかかった一本の電話。
『エルドレッド、あなたのパン作りに救世主が現れたかもしれないわ』
「その話なんだけど……やっぱり、僕には向いてないっていうか。言いたくないけど、経験不足なんだよね」
貴族の子息として、甘やかされて育った自覚はある。アメリカでのジェイムズのアパートの狭さに驚き、ジェイムズがエルドレッドのマンションの広さに驚いていたことで、どれだけ自分が世間知らずかは思い知っていた。
料理だって、ジェイムズのことを好きになって、その食生活が酷いものだと知らなければ、身に付けようともしなかったかもしれない。
『大丈夫よ、エルドレッド、あなたは良くやってるわ』
ヘイミッシュが慰めてくれるけれど、エルドレッドはあのパン作りの行程に慣れる気がしなかったし、あれだけ時間を取られること自体が苦痛でならなかった。
「努力はしたんだけど……無理かもしれない……」
美味しいパンをジェイムズに食べて欲しかった。その苦悶が残る声で言えば、ヘイミッシュは一つの提案をする。
『材料を計って入れるだけで、残りを全部してくれる機械があるらしいのよ』
「……本当に? それなら、試してみようかな」
懐疑的な気持ちはあったが、もしそんなものがあるのならば使ってみても良いかもしれない。
その通話を、パンを焼くのに失敗して、カチカチのパンを自分一人で齧って処分した恥ずかしい思い出をジェイムズに知られたくない一心で、別の部屋でしたのが問題だったようだ。
翌朝、エルドレッドはベッドサイドのテーブルに置いた携帯電話の向きが違うことに気付いた。これに触れられることも、中身を見られることも、ジェイムズならば特に抵抗はない。出会った日の思い出に、ジェイムズとエルドレッドが始めて競ったクロスワードパズルの完成までの時間の差を秒数で、ストップウォッチで計っていたのを小数点以下まで計算した数字。ロックにそれを使っていることは、聡いジェイムズならばすぐに気が付いただろう。
それにしても、なんで携帯電話を見たのか。
その答えが、家に戻ってからのジェイムズの態度だった。
バスルームで倒れていないか覗いたら、自分で後ろに触れていたのには驚いたが、それよりも体調が悪くて早退したというのをエルドレッドは心配していた。そんなエルドレッドを肩に担いで、ジェイムズはベッドまで運んで、自分を抱けと迫った。
くつくつと鍋の中で、炒めて香りを出したニンニクを入れて塩胡椒で味付けしたトマトソースが沸騰している。お玉で掻き混ぜて、小皿に取って味見をしてみると、水っぽさはなくなっていた。みじん切りにしたパセリを入れて、仕上げにかかる。
パン焼き器はごとごとと音を立てて、ピザ生地を捏ね上げている。電子音と共に止まったパン焼き器からピザ生地を取り出して、丸く形を整えて、濡れた布巾をかけてラップをかけて発酵させる。
その間にベーコンを薄切りにして、玉ねぎとピーマンを細切りにした。サラダとスープも作っておく。
仕上げは夕食の直前で構わない。
具材は冷蔵庫に入れて、ピザ生地は常温で置いておいて、エルドレッドは携帯電話でタイマーをかけ、ソファに移動して論文を読み始めた。
あの日に、ジェイムズが勇気を出してくれなければ、エルドレッドとジェイムズはすれ違ったままだったかもしれない。一人前に稼げるようになるまでは結婚はしないなんて格好付けて、相談すらしなかったエルドレッドに、ジェイムズは不安になって出て行ってしまっていたかもしれない。
体当たりでぶつかってきてくれたからこそ、エルドレッドは全身でジェイムズを受け止めることができた。
焦げ茶色の目から溢れる涙が、愛しく、可愛かった。
初めて会ったときから、長身で体付きはしっかりしているが、ふわふわの巻き毛は寝癖が付いていたり、シャツはアイロンがかけられてピシッとしているのにネクタイが曲がっていたり、襟が裏返っていたり、妙なところで抜けていて可愛いひとだと思っていた。
日常生活がだらしなくて、不摂生なのに、頭はやたらと良くて、ラクランと肩を並べる研究者だという。ハワード家の人間は優秀で当然だと思っていたが、他にこんなに議論を交わせて、共に過ごす時間が楽しくて、素晴らしいひとがいるなんて想像もしていなかった。
ジェイムズ・キャドバリーはエルドレッドの理想の男性だった。
抱かれたくないと逃げられたときには、幼さもあって泣きそうになったし、つらかったが追いかけて行った先でジェイムズはエルドレッドの口説き文句に負けてくれた。
そして、パン焼き器に嫉妬するという不可思議な事件をきっかけに、彼はエルドレッドに抱かれることを受け入れてくれた。
盛大な勘違いと空回りに関しては、ジェイムズは相当恥ずかしくて後悔しているようだが、エルドレッドにとってはそれすらも可愛くて、男前で、惚れ直す要素でしかなかった。
「子どもを産むとかは、まだ、考えられないけど、君に抱かれてもいいかもしれない」
誤解が解けた後で、ジェイムズは恥じらいながらもそう言ってくれた。思い切ってくれたことに、エルドレッドは喜びで目の前のあられのない姿のジェイムズに襲い掛かりそうになったが、暴走しそうになる若い欲望を抑える。
「無理をしていない? 流されてない? 僕、理性的であろうとはしているけれど、許しを得て一度始めたら、途中で止まれないかもしれないよ」
すぐにでもジェイムズを抱きたい気持ちはあったが、エルドレッドは約束したことを覚えていた。この関係は性行為を伴わないからこそお互いに安心して続けてこられた。それを壊すくらいなら、我慢することは苦ではない。引き離されることの方が、エルドレッドにとってはずっとつらいのだから。
「僕だって男だよ。本気で嫌なら、君をベッドから蹴り落とすくらいのことはできる」
対するジェイムズの返答は、非常に男らしいもので惚れ惚れする。けれど、簡単な問題ではないから、エルドレッドは慎重にことを運んだ。
「あなたは、優しくて、男らしくて、潔いひとだから、一度決めたことは覆せないと我慢してしまうかもしれない」
「我慢したんだったら、するだけの価値が君にあるってことだよ。信念を変えても構わないってくらい、僕は君に夢中なんだから」
不安を吹き飛ばす信頼に、エルドレッドはジェイムズを抱いた。
初めは快感よりも恐怖や躊躇いが強かったジェイムズも、回数を重ねると乱れてくれるようになる。
タイマーの音で我に帰ったエルドレッドは、発酵した生地を伸ばして、ピザソースを塗って、具材を乗せていく。オーブンで焼いていると、ジェイムズの帰ってくる気配がした。
「ただいま、良い香りがしてるね」
「あのパン焼き器でピザ生地も作れるって説明書に書いてあったから、挑戦してみたんだ」
オーブンから天板を取り出すと、もっちりとした厚手の生地が、こんがりと焼けている。車輪型の刃物のついたピザカッターで切り分けて皿に乗せると、ジェイムズが一切れ掠め取った。
「お、うまい」
「もう、ジェイムズ、手くらい洗ってからにしてよね」
うまいという言葉は嬉しいが、つまみ食いは許さないと目を釣り上げれば、「焼きたてだったから、つい」と謝られた。
パン焼き器には明日の分のパンの材料をセットして、タイマーを朝食に合わせて焼けるように設定する。
すれ違いの原因になったパン焼き器は、夕食に朝食に、大活躍している。
最初の目的は、ジェイムズがアメリカで気に入っていた甘いふわふわのパンを作ることだった。砂糖が多めになると、パンはよく膨らんでふわふわになる上に、甘く美味しくなる。
「太って振られてしまえ」とはジェイムズのアメリカでの同僚だった女性、ハリエットのセリフだが、趣味でジムに通うジェイムズは不思議と太らない。それどころか、頭脳労働なので低血糖になりやすいのか、顔色が悪いことも多い。
エルドレッドと一緒に暮らすまでは、食生活も睡眠も不摂生で不規則な生活をしていたようなので、結婚する前から気を配ってはいた。結婚してからは更に気を付けている。
パン焼き器は、捏ねる作業だけをさせることもできて、今はピザ生地を捏ねている。その間にエルドレッドはピザ用のトマトソースを煮詰めていた。
妊娠していた兄、ラクランの手伝いのために家に行って、ついでに父のヘイミッシュから料理を習っていた時期に、エルドレッドは甘いパンの作り方を教えてもらった。実際に作ってみたのだが、材料を計る、混ぜて捏ねて纏める、発酵させる、形を整えて焼き型に入れる、発酵させるという手順に、何時間もかかることが信じられなかった。
時間がかかるので他のことをしていると、すっかり忘れてしまって、発酵したパン生地が潰れてカチカチになってしまったこともある。
料理のセンスはヘイミッシュやラクランに似て悪くないと思いたいのだが、エルドレッドは集中してしまうとそのことだけに頭が向いて、他のことを忘れてしまう悪い癖があった。その集中力で勉強や論文はこなせるのだが、マルチタスクの作業となると急に効率が悪くなってしまう。
パン作りに挫折しかかっていたときにかかった一本の電話。
『エルドレッド、あなたのパン作りに救世主が現れたかもしれないわ』
「その話なんだけど……やっぱり、僕には向いてないっていうか。言いたくないけど、経験不足なんだよね」
貴族の子息として、甘やかされて育った自覚はある。アメリカでのジェイムズのアパートの狭さに驚き、ジェイムズがエルドレッドのマンションの広さに驚いていたことで、どれだけ自分が世間知らずかは思い知っていた。
料理だって、ジェイムズのことを好きになって、その食生活が酷いものだと知らなければ、身に付けようともしなかったかもしれない。
『大丈夫よ、エルドレッド、あなたは良くやってるわ』
ヘイミッシュが慰めてくれるけれど、エルドレッドはあのパン作りの行程に慣れる気がしなかったし、あれだけ時間を取られること自体が苦痛でならなかった。
「努力はしたんだけど……無理かもしれない……」
美味しいパンをジェイムズに食べて欲しかった。その苦悶が残る声で言えば、ヘイミッシュは一つの提案をする。
『材料を計って入れるだけで、残りを全部してくれる機械があるらしいのよ』
「……本当に? それなら、試してみようかな」
懐疑的な気持ちはあったが、もしそんなものがあるのならば使ってみても良いかもしれない。
その通話を、パンを焼くのに失敗して、カチカチのパンを自分一人で齧って処分した恥ずかしい思い出をジェイムズに知られたくない一心で、別の部屋でしたのが問題だったようだ。
翌朝、エルドレッドはベッドサイドのテーブルに置いた携帯電話の向きが違うことに気付いた。これに触れられることも、中身を見られることも、ジェイムズならば特に抵抗はない。出会った日の思い出に、ジェイムズとエルドレッドが始めて競ったクロスワードパズルの完成までの時間の差を秒数で、ストップウォッチで計っていたのを小数点以下まで計算した数字。ロックにそれを使っていることは、聡いジェイムズならばすぐに気が付いただろう。
それにしても、なんで携帯電話を見たのか。
その答えが、家に戻ってからのジェイムズの態度だった。
バスルームで倒れていないか覗いたら、自分で後ろに触れていたのには驚いたが、それよりも体調が悪くて早退したというのをエルドレッドは心配していた。そんなエルドレッドを肩に担いで、ジェイムズはベッドまで運んで、自分を抱けと迫った。
くつくつと鍋の中で、炒めて香りを出したニンニクを入れて塩胡椒で味付けしたトマトソースが沸騰している。お玉で掻き混ぜて、小皿に取って味見をしてみると、水っぽさはなくなっていた。みじん切りにしたパセリを入れて、仕上げにかかる。
パン焼き器はごとごとと音を立てて、ピザ生地を捏ね上げている。電子音と共に止まったパン焼き器からピザ生地を取り出して、丸く形を整えて、濡れた布巾をかけてラップをかけて発酵させる。
その間にベーコンを薄切りにして、玉ねぎとピーマンを細切りにした。サラダとスープも作っておく。
仕上げは夕食の直前で構わない。
具材は冷蔵庫に入れて、ピザ生地は常温で置いておいて、エルドレッドは携帯電話でタイマーをかけ、ソファに移動して論文を読み始めた。
あの日に、ジェイムズが勇気を出してくれなければ、エルドレッドとジェイムズはすれ違ったままだったかもしれない。一人前に稼げるようになるまでは結婚はしないなんて格好付けて、相談すらしなかったエルドレッドに、ジェイムズは不安になって出て行ってしまっていたかもしれない。
体当たりでぶつかってきてくれたからこそ、エルドレッドは全身でジェイムズを受け止めることができた。
焦げ茶色の目から溢れる涙が、愛しく、可愛かった。
初めて会ったときから、長身で体付きはしっかりしているが、ふわふわの巻き毛は寝癖が付いていたり、シャツはアイロンがかけられてピシッとしているのにネクタイが曲がっていたり、襟が裏返っていたり、妙なところで抜けていて可愛いひとだと思っていた。
日常生活がだらしなくて、不摂生なのに、頭はやたらと良くて、ラクランと肩を並べる研究者だという。ハワード家の人間は優秀で当然だと思っていたが、他にこんなに議論を交わせて、共に過ごす時間が楽しくて、素晴らしいひとがいるなんて想像もしていなかった。
ジェイムズ・キャドバリーはエルドレッドの理想の男性だった。
抱かれたくないと逃げられたときには、幼さもあって泣きそうになったし、つらかったが追いかけて行った先でジェイムズはエルドレッドの口説き文句に負けてくれた。
そして、パン焼き器に嫉妬するという不可思議な事件をきっかけに、彼はエルドレッドに抱かれることを受け入れてくれた。
盛大な勘違いと空回りに関しては、ジェイムズは相当恥ずかしくて後悔しているようだが、エルドレッドにとってはそれすらも可愛くて、男前で、惚れ直す要素でしかなかった。
「子どもを産むとかは、まだ、考えられないけど、君に抱かれてもいいかもしれない」
誤解が解けた後で、ジェイムズは恥じらいながらもそう言ってくれた。思い切ってくれたことに、エルドレッドは喜びで目の前のあられのない姿のジェイムズに襲い掛かりそうになったが、暴走しそうになる若い欲望を抑える。
「無理をしていない? 流されてない? 僕、理性的であろうとはしているけれど、許しを得て一度始めたら、途中で止まれないかもしれないよ」
すぐにでもジェイムズを抱きたい気持ちはあったが、エルドレッドは約束したことを覚えていた。この関係は性行為を伴わないからこそお互いに安心して続けてこられた。それを壊すくらいなら、我慢することは苦ではない。引き離されることの方が、エルドレッドにとってはずっとつらいのだから。
「僕だって男だよ。本気で嫌なら、君をベッドから蹴り落とすくらいのことはできる」
対するジェイムズの返答は、非常に男らしいもので惚れ惚れする。けれど、簡単な問題ではないから、エルドレッドは慎重にことを運んだ。
「あなたは、優しくて、男らしくて、潔いひとだから、一度決めたことは覆せないと我慢してしまうかもしれない」
「我慢したんだったら、するだけの価値が君にあるってことだよ。信念を変えても構わないってくらい、僕は君に夢中なんだから」
不安を吹き飛ばす信頼に、エルドレッドはジェイムズを抱いた。
初めは快感よりも恐怖や躊躇いが強かったジェイムズも、回数を重ねると乱れてくれるようになる。
タイマーの音で我に帰ったエルドレッドは、発酵した生地を伸ばして、ピザソースを塗って、具材を乗せていく。オーブンで焼いていると、ジェイムズの帰ってくる気配がした。
「ただいま、良い香りがしてるね」
「あのパン焼き器でピザ生地も作れるって説明書に書いてあったから、挑戦してみたんだ」
オーブンから天板を取り出すと、もっちりとした厚手の生地が、こんがりと焼けている。車輪型の刃物のついたピザカッターで切り分けて皿に乗せると、ジェイムズが一切れ掠め取った。
「お、うまい」
「もう、ジェイムズ、手くらい洗ってからにしてよね」
うまいという言葉は嬉しいが、つまみ食いは許さないと目を釣り上げれば、「焼きたてだったから、つい」と謝られた。
パン焼き器には明日の分のパンの材料をセットして、タイマーを朝食に合わせて焼けるように設定する。
すれ違いの原因になったパン焼き器は、夕食に朝食に、大活躍している。
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