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十一章 ネイルアートとフィンガーブレスレット

42.クリスタちゃんの願い

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 部屋の前まで送ってきてくださったエクムント様がわたくしに言う。

「今日はお疲れでしょう。ゆっくり休んでくださいね」
「ありがとうございます、エクムント様」

 お辞儀をして部屋に入ろうとすると、エクムント様の手がわたくしの手を引く。腕の中に抱きこまれてしまってわたくしは身じろぎすることもできない。長身でしっかりとした体付きのエクムント様の腕が、わたくしを抱き締めている。

「このまま攫ってしまいたい。エリザベート嬢」
「エクムント様!?」

 攫ってしまいたいというのはどういうことなのだろう。
 わたくしは二年後には辺境伯領に嫁ぐことが決まっている。攫わなくてもわたくしはエクムント様のものになるのだ。

「わたくしは、エクムント様のものです」
「いいえ、エリザベート嬢は一生エリザベート嬢。私を含めて誰かのものになる必要などありません」
「でも、エクムント様の妻になります」
「それは私も楽しみにしています」

 逞しい腕に抱かれて、エクムント様の言う意味を考えようとするのだけれど、エクムント様と密着しすぎて、わたくしの心臓の音がエクムント様に聞こえているような気がして落ち着かない。
 エクムント様のものにわたくしがなりたいと思っていても、エクムント様は誰のものになる必要もなく、わたくしはわたくしだと尊重してくれる。そんな紳士なところがまた憎らしいお方という単語をわたくしの脳裏に浮かべさせる。

「お休みなさい、エリザベート嬢」
「お休みなさい、エクムント様」

 エクムント様の手がわたくしの頬を撫でて、前髪を掻き上げて、額に口付けが落ちる。おでこへのキスは子どもに対しても行うお休みのキスだが、こんな風に抱き締められてキスをされるのは初めてでわたくしは心拍数が上がるのを抑えきれない。
 するりとエクムント様の腕が解けて、わたくしは一抹の寂しさを感じる。もっとエクムント様の体温を感じていたかった。もっとエクムント様に抱き締められていたかった。
 けれどもうお休みの挨拶もしたのだから、部屋に戻らなければいけない。
 ドアを開けてエクムント様を振り返ったら、そのままの位置で動かずにわたくしに手を振ってくださっていた。わたくしも手を振り返して部屋に入った。

「お姉様!」
「クリスタちゃん!?」
「お帰りなさいませ、エリザベートお姉様」
「レーニちゃんも!」

 部屋に入るとクリスタちゃんとレーニちゃんが寝る準備をしているところだった。二人とももうお風呂に入ってパジャマに着替えている。

「先に帰っていたのですか」
「晩餐会で疲れてしまって、舞踏会までは参加できませんでした。ハインリヒ殿下が送ってくださって、先に部屋に戻っていました」
「わたくしも、パートナーがいないのに舞踏会に行くのはつまらないし、疲れていたので母に言って先に帰らせてもらいました」

 クリスタちゃんもレーニちゃんも最初から舞踏会に参加していなかったようだ。背伸びをして大人ぶって舞踏会に参加してみたが、わたくしも夜が遅くなってきて疲れてしまっていた。

「わたくしは舞踏会に参加しましたが、疲れてしまって、エクムント様に送っていただいて帰ってきました」
「足音がドアの前で止まってから、しばらく時間が経っていませんでしたか?」
「クリスタちゃん、聞き耳を立てていたのですか!?」
「だって、お姉様は秘密主義で、わたくし、気になるんですもの!」

 クリスタちゃんは聞き耳を立てていたようだ。わたくしは変な声を出すようなことがなくてよかったと思っていた。

「そういう風に探るのはお行儀がよくないですよ」
「分かっていますが、お姉様は大人の恋愛をなさっているのに、わたくしは全然そんな気配がなくて、どうすればいい雰囲気になるのか教えてほしかったのです」
「そんな気配が、とは?」
「ハインリヒ殿下は、わたくしの手にもキスをしてくださらないのです」

 手の甲にキスならば、わたくしはエクムント様に小さいころにされたことがある。あれは婚約式のときだっただろうか。手の甲へのキスは敬愛の意味もあるので、年齢は関係なくしていいはずなのだが、ハインリヒ殿下はクリスタちゃんに触れることに躊躇いを覚えているらしい。
 それもそのはず、ハインリヒ殿下はまだ十六歳なのだ。エクムント様のようにスマートにキスをしたりできるはずがない。

「ハインリヒ殿下はまだ十六歳なのですよ。クリスタちゃんもまだ十四歳だし」
「わたくしは、手の甲にくらいキスをしてくださってもいいと思うのです」
「それはそうですが、クリスタちゃんはハインリヒ殿下に多くを望みすぎではないのですか?」

 「愛している」と言ってほしいとか、プロポーズを自分の意志でしてほしいとか、手の甲にキスをしてほしいとか、クリスタちゃんはハインリヒ殿下に夢を持ちすぎているような気がする。
 ハインリヒ殿下はまだ十六歳なのだから、人前で「愛している」と言ったり、プロポーズを自分の意志でしたり、手の甲にキスをしたりするのが恥ずかしいかもしれないのだ。人前でなければいいと思うかもしれないが、ハインリヒ殿下ともなると、常に護衛はついている状態で、その他にも部屋には空気のように使用人が何人もいる。
 その状態でクリスタちゃんといい雰囲気になるというのも難しすぎるだろう。

「婚約者に望んではいけないことですか?」
「エクムント様は大人で、二十七歳になられました。エクムント様と同じことをハインリヒ殿下に望むのはいささかハードルが高いと思うのです」
「わたくしは、恋人同士になりたいのです」

 婚約者というのと恋人同士というのは若干意味合いが違うかもしれない。婚約者は将来の結婚を誓った相手だが、恋人同士はお互いに好き合って一緒に過ごす間柄といったところか。
 元々ハインリヒ殿下とクリスタちゃんも最初の出会いは最悪だったが、徐々に絆を深めてお互いに望んで婚約者になった。いわば両想いの恋人同士が婚約しているような状態のはずである。

「ハインリヒ殿下とクリスタちゃんは婚約しているし、恋人同士ではないのですか?」
「ハインリヒ殿下は婚約してから、わたくしへの態度が変わった気がします」
「何が不満なのですか?」
「わたくし、ハインリヒ殿下ともっと触れ合いたいのです。エクムント様とお姉様が羨ましいのです」

 二十七歳の大人のエクムント様と十六歳のまだ青年で思春期のハインリヒ殿下を比べること自体おかしいような気がするのだが、クリスタちゃんは真剣だった。

「わたくしも、ハインリヒ殿下にキスしてほしいのです!」

 はしたないと言われるかもしれないが、はっきりと口にしたクリスタちゃんに、それまで静かに聞いていたレーニちゃんが反応した。

「わたくしの婚約者のふーちゃんはまだ七歳です」
「レーニちゃん?」
「七歳ですが、ふーちゃんは自分のできる限りでわたくしに好意を伝えてきてくれます。わたくしはそれが嬉しくて、ふーちゃんのことが大好きで可愛いと思っています」
「レーニちゃんはふーちゃんのことを想っているのですね」
「はい。まだ恋愛感情ではないかもしれないけれど、わたくし、誰も男性を愛せないと思っていたけれど、ふーちゃんのことは特別に思っています。エクムント様はエクムント様なりに、ハインリヒ殿下はハインリヒ殿下なりに、ふーちゃんはふーちゃんなりに愛情を伝えてくる、それを比べるのは一番よくないことではないのでしょうか」

 レーニちゃんの言葉にクリスタちゃんは自分が言っていたことに気付いたようだ。ずっとエクムント様とハインリヒ殿下を比べて、羨ましいとばかり言っていたクリスタちゃん。

「レーニちゃんの言う通りですわ。わたくし、間違っていました。ハインリヒ殿下はハインリヒ殿下、エクムント様と比べてはいけませんでした」
「クリスタちゃんが理解してくれてよかったです」

 それでその場はおさまって、わたくしはお風呂に入ってパジャマに着替えて寝る準備をした。
 婚約者が年上で紳士だということは、クリスタちゃんにも羨ましがられるようなことなのだと思うと、エクムント様がわたくしを抱き締めた腕の逞しさ、胸の厚さ、体温を思い出して体が熱くなる。
 両手で頬を押さえて布団に入ると、エクムント様の姿が目の裏に浮かんでいた。
 格好良くて、素敵で、大人なエクムント様。
 攫ってほしいとあのとき答えたらどうなっていたのだろう。

 エクムント様の腕の中にいられるならば、どこに攫われてもわたくしは幸せな予感しかしていなかった。
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