エリザベート・ディッペルは悪役令嬢になれない

秋月真鳥

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五章 妹の誕生と辺境伯領

7.四年前の決断

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 妹のまーちゃんが生まれて子ども部屋は賑やかになった。
 ふーちゃんはまーちゃんを常に気にしていて、お着替えをするときには覗き込み、ミルクを飲んでいるときにはべったりと引っ付いている。
 母は時々お乳を飲ませに来ていた。
 母に抱っこされてまーちゃんがお乳を飲んでいると、ふーちゃんは母の膝に座ろうとする。

「フランツ、マリアがいますから、お乳をあげ終わった後に抱っこしてあげますからね」
「まっまー! ふー、らっこ!」
「少しだけ我慢してください」
「やー! まっまー!」

 泣き出してしまうふーちゃんは、ヘルマンさんに抱っこされても納得しない。
 そういうときにクリスタちゃんが大活躍した。

「可愛いフランツ。ねぇねが抱っこしてあげますよ」
「ねぇね!」
「おいで、フランツ」
「ねぇね! ねぇね!」

 母でないならクリスタちゃんでもいいようでふーちゃんは抱っこされに両手を広げてクリスタちゃんのところに歩いていく。クリスタちゃんはふーちゃんの両脇の下に手を入れて、一生懸命抱き上げる。
 八歳の子どもがふくふくとした一歳の子どもを抱っこしているのでバランスが悪いのは仕方がない。わたくしが抱っこしようとしても、ふーちゃんはクリスタちゃんの抱っこを気に入っているようで、クリスタちゃんの方に行ってしまう。

「いい子ですね、フランツ。ねぇねが詩を読んであげましょう」
「ち!」
「クリスタ、わたくし絵本を持ってきましたのよ。フランツ、絵本を読んであげましょうね」
「えぽん!」

 クリスタちゃんがふーちゃんに詩を吹き込まないようにわたくしも必死だった。持ってきた絵本はクリスタちゃんも好きな物語だ。絵本を見せるとソファに座って膝の上にふーちゃんを抱いたクリスタちゃんも、真剣な表情になっていた。
 わたくしは絵本のページを捲って物語を読む。クリスタちゃんもふーちゃんも引き込まれるようにして聞いているのが分かる。

「わたくし、八歳にもなったのに、まだ絵本を読んでもらうのが嬉しいだなんて、恥ずかしくないかしら」
「全然恥ずかしくないですよ。わたくしも絵本を読んでくれるひとがいたら呼んでもらった方が嬉しいですからね」

 頬を染めるクリスタちゃんにわたくしが言えば、クリスタちゃんは笑顔になった。ふーちゃんは絵本を読み終わると手を叩いて拍手をしてくれる。

「絵本をわたくしが読めればよかったんですけどね」

 ぽつりと呟くレギーナに、ヘルマンさんが首を傾げる。

「レギーナさんは字が読めないのですか?」
「お恥ずかしながら、わたくしは学校に行ったことがないのです」

 学校に行かずにレギーナはずっと働いてきたようだ。
 平民は六歳から十二歳まで学校に行く。貴族のように家庭教師に習うことがないからだ。
 十二歳まで学校に行った後で、成績優秀者や裕福なものが十八歳まで高等学校で学んで、大学に当たる専門課程まで進むのはほんの一握りだ。
 専門課程には貴族も進学するので、専門課程の生徒はほとんど貴族だという。

 医者になるためには専門課程に進学するのが条件なので、医者の数が少ないのも納得ができる。

「わたくしは字も読めないから、妹にはしっかりと学んでほしくて公爵家で働くことにしたのです」
「文字と簡単な計算でしたら、わたくしが休憩時間にでも教えましょうか?」
「いいのですか、ヘルマンさん!?」

 貴族の出身であるヘルマンさんは若いが教育はきちんとされている。ヘルマンさんに習うことができればレギーナも文字や簡単な計算を覚えることができるだろう。

「乳母に教養があることが将来のマリア様のためになってきます。しっかりと学んでください」
「はい、ありがとうございます。わたくしが文字や計算を学べるなんて……」

 目に涙を溜めてレギーナは胸を押さえていた。自分には学習の機会など訪れない。だからこそ妹にはしっかりと学習して欲しいと思っていたのだろう。
 レギーナに訪れた学習の機会に、わたくしもクリスタちゃんも母も、まーちゃんを育てるひとが教養を持ってくれることはよいことだと考えていた。

 まーちゃんにお乳をあげ終わった母がふーちゃんに手を伸ばすと、ふーちゃんは満面の笑顔で母に突撃していく。母の膝の上に乗って満足そうにしているふーちゃんのふわふわの金髪を母は撫でていた。

「フランツの髪を刈らなければいけませんね」
「え!? フランツの髪を刈ってしまうのですか?」
「そうです。赤ん坊のときの髪の毛を保存するのと同時に、赤ん坊のときと幼児になったときでは髪質が変わってくるので、一度刈って、生え変わらせるのです」

 ふーちゃんが坊主になってしまう。
 ふわふわのふーちゃんの金髪は長くなっていて目に入りそうになっていたが、まさか刈られるとは思っていなかった。
 ショックを受けていると、クリスタちゃんがふーちゃんを撫でて言う。

「フランツ、髪はすぐに伸びます。それに、坊主になっても可愛いわ」
「ふわふわのフランツの髪の毛が……」
「お姉様がショックを受けると、フランツも泣いてしまいます」

 クリスタちゃんに言われてわたくしは表情を引き締めた。これはふーちゃんが大きくなるためには必要な試練に違いない。わたくしがショックを受けている場合ではなかった。

 髪の毛を短く刈られてもふーちゃんは気にした様子はなかった。坊主のふーちゃんも可愛くてわたくしはショックを受けるほどでもなかったと思い直す。
 にこにこと愛想よくわたくしのところに歩いてくるふーちゃんの頭を撫でると、しょりしょりして気持ちいい。

「フランツの頭は涼し気になりましたね」
「お母様、マリアはそんなことしませんよね?」
「マリアは女の子なので髪は伸ばしますよ」
「よかった……」

 まーちゃんは守られると知ってクリスタちゃんは胸を撫で下ろしている。わたくしもまーちゃんの坊主姿は見たくなかった。

「エリザベートは生まれてから一度も髪を切っていませんし、クリスタもその長さならば髪を切ったことはないでしょう。女性にとって髪は命ですから、大事にするのですよ」
「わたくし、そう言えば髪を切ったことはなかった気がします」
「わたくしもだわ。一度ローザがハサミを持って追いかけてきたけれど、逃げ延びたもの」

 クリスタちゃんはローザ嬢に髪を切られそうになったことがあるようだ。ローザ嬢とクリスタちゃんが一緒に暮らしていたのはローザ嬢が三歳、クリスタちゃんが四歳の頃なので、その頃からローザ嬢が性格悪くクリスタちゃんの髪を切ろうとしていたとはぞっとしてしまう。
 ローザ嬢に捕まっていたら、クリスタちゃんの艶々とした豊かな金髪も不揃いに切られていたことだろう。

「クリスタは怖い思いをしましたね。逃げ延びられてよかったです」

 思わずわたくしがクリスタちゃんを抱き締めると、クリスタちゃんが当時を思い出したのか水色のお目目に涙を浮かべている。

「ハサミは刃物だから、あんな小さな子に持たせて……わたくし、とても怖かったのです。髪の毛はまた伸びるし痛くはありませんが、顔を切り裂かれていたらきっと傷が残ってしまっていたわ」
「そんなことにならなくてよかったです」

 つるつるすべすべのクリスタちゃんの頬を撫でて、額を撫でて、慰めると、クリスタちゃんは目にいっぱい溜まった涙を一粒だけ零した。抱き締めるとクリスタちゃんがしっかりとしがみ付いてくるのが分かる。

「お姉様はわたくしを安全な場所に連れて来てくれて、公爵家にわたくしが引き取られるようにお父様とお母様に話してくれて、わたくしのために泣いてくれた。あのときにはどうしてお姉様が泣いているのかわたくし分からなかったけれど、お姉様の優しい心がわたくしを救うために泣いてくださったのですね」

 ほろりほろりと大粒の涙がクリスタちゃんの目から流れ落ちる。
 四歳のクリスタちゃんを公爵家で引き取ったのは、わたくしにとっては誤算だった。
 あの頃わたくしは前世を思い出して、『クリスタ・ノメンゼンの真実の愛』の主人公とは絶対に関わりにならないようにしようと思っていた。

 それなのにクリスタちゃんが継母に苛められて虐待を受けていることを知って、わたくしはそれを見逃すことなどできなかった。

 あのときの決断が、今のクリスタちゃんやふーちゃんやまーちゃんとの幸せな生活に繋がっている。
 あのときわたくしが選んだことは間違いではなかったと言われているような気がして、わたくしは強くクリスタちゃんを抱き締めた。
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