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二章 ノメンゼン子爵の断罪
27.ノメンゼン子爵夫人の疑惑
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気が付けばクリスタ嬢と出会ってから一年の年月が経っていた。
一年前このお屋敷で開かれたお茶会に出席したクリスタ嬢は、ノメンゼン子爵夫人に虐待されていて、それを見てしまったわたくしはクリスタ嬢を放っておけなくて、ディッペル家にクリスタ嬢を引き取ってもらえるように両親にお願いした。
あのときはひとが叩かれている場面など初めて見たのでショックを受けていたが、今思うとぞっとしたのはそのことだけではなかった。
クリスタ嬢の異母妹でノメンゼン子爵夫人の娘のローザ嬢。ローザ嬢は異母姉のクリスタ嬢が叩かれている場面を目の当たりにしながらも、唇の両端を吊り上げて笑っていたのだ。
クリスタ嬢を一刻も早く公爵家の正式な養子にしたい気持ちは大いにあったが、ノメンゼン子爵家の後継者がローザ嬢になるのだけはいただけない。
ローザ嬢は自分の父親であるノメンゼン子爵がクリスタ嬢を捕まえようと追いかけ回して、ハインリヒ殿下に助けられて、ノメンゼン子爵が観葉植物に激突してスラックスのお尻が破けたときも、ノメンゼン子爵と子爵夫人が退場していくのを見て「つまんなぁい」などと呟いていたのだ。
ローザ嬢はクリスタ嬢の一つ年下なので四歳になっているだろうが、この時点で既に取り返しのつかない性格の悪さを身に着けている気しかしない。
ローザ嬢がノメンゼン子爵家を継ぐとなれば、遠縁のディッペル家も巻き込むような問題が起きそうな気がしてならないのだ。
わたくしはこのことに関してまだ両親に相談していなかったのを思い出して、朝食の席で両親に話をした。
「一年前、クリスタ嬢がディッペル家のお手洗いで叩かれているときに、ローザ嬢はそれを見て嘲笑うような表情をしていたのです……。ノメンゼン子爵のスラックスが破れて下着が見えたときも、ノメンゼン子爵が急いで逃げて行くのを見て『つまんなぁい』と呟いているのも聞きました」
正直に起きたことを口にすれば、両親は眉を顰めている。
「姉が叩かれているのを見て嘲笑うなど、どのような根性をしているのだろう」
「信じられませんね。ローザ嬢には絶対にノメンゼン家を継がせてはなりません」
クリスタ嬢をディッペル家の養子に迎えたい気持ちは、わたくしも両親も同じだった。クリスタ嬢が正式な妹になればどれだけ嬉しいことだろう。バーデン家もクリスタ嬢に手出しができなくなるので、全てが丸くおさまる。
それを妨害するのがローザ嬢の存在だった。
クリスタ嬢をディッペル家の養子にしてしまうと、ローザ嬢がノメンゼン子爵家の跡継ぎになる。それだけは避けなければいけない。
「ローザ嬢とノメンゼン子爵夫人をどうにか排除しないとクリスタ嬢をディッペル家の養子に迎えることはできない」
「わたくし……心当たりがありますのよ」
「テレーゼ、何かいい案があるのか?」
ノメンゼン子爵夫人について、母は何か考えがあるようだった。
「ノメンゼン子爵夫人は、子爵夫人の座を手に入れていますが、その権利がないのではないかと思っていますの」
「それはどういうことですか、お母様?」
身を乗り出して聞くわたくしに、母が言いにくそうに声を潜める。
「妊娠期間というのがありますでしょう?」
「えーっと、一般的に十月十日と言われていますね」
「それは計算上のことで、実際にはもう少し短いのですよね。ですが、クリスタ嬢は春生まれ、ローザ嬢は冬の始まりの生まれと聞いています。明らかに妊娠期間がおかしいのですよ」
母に言われてわたくしも気付いた。
クリスタ嬢は出産の際に母親を亡くしているが、その七か月後には異母妹のローザ嬢が生まれているというのは、早すぎる。
「ノメンゼン子爵夫人は早産であったと言っていますが、ノメンゼン子爵は妹のマリアの生きている頃からノメンゼン子爵夫人と浮気をしていたのではないでしょうか?」
「その証拠があれば、ノメンゼン子爵夫人は子爵夫人どころか、ただの妾だ。ローザ嬢にもノメンゼン子爵家の後継となる地位はなくなる」
「ノメンゼン子爵夫人……と呼びたくないですが、彼女のお産に立ち会った医者から話を聞いてみましょう」
事態が動き出す。
もしもこれでノメンゼン子爵夫人が母の妹のマリア様の生きているときに浮気をした末に生まれたのがローザ嬢だとすれば、ローザ嬢にノメンゼン子爵家の継承権はなくなるはずなのだ。
「浮気の末にできた子どもを後継者に据えようとするのは、ものすごい醜聞になりますね」
「クリスタ嬢の誕生日にそのことを暴いて、わたくしの兄のシュレーゼマン子爵の子どもをノメンゼン子爵家の後継にするのはどうでしょう」
「それならば問題なくクリスタ嬢を養子にできるし、我が一族の結束も強まるな」
両親がしっかりと考えてくれているおかげで、ノメンゼン子爵夫人の化けの皮が剥がれそうな気配がしている。
「おねえさま、ローザはわたくしのいもうとではないの?」
「妹ですが、再婚をして正式に生まれた妹と、浮気をして生まれた妹では全然違うのです」
「どういうことなのか、わたくし、よくわからないのだけど」
「ノメンゼン子爵夫人が、クリスタ嬢のお母様が亡くなってからノメンゼン子爵とお付き合いを始めて、結婚したのだったら、ノメンゼン子爵夫人になりますが、クリスタ嬢のお母様が生きているうちからお付き合いをしていて、ローザ嬢ができたのであれば、ローザ嬢は浮気の末にできた妾腹の子どもということになります。妾腹の子どもには基本的に爵位の継承権はありません」
母に教えてもらったことをわたくしが説明すると、クリスタ嬢は目を丸くして驚いていた。その大きな水色の目に見る見るうちに涙が溜まってくる。
「おかあさまは、うわきされていたの?」
「残念ながら、そう考えるしかありません。女性の妊娠中に他の女性と浮気する男性は多いのです」
「そんな……おかあさまは、わたくしをいのちをかけてうんだのに、そのあいだ、ノメンゼンししゃくは、うわきをしていたの!?」
ショックのあまりぽろぽろと涙を流すクリスタ嬢をわたくしは抱き寄せる。命を懸けて母親がクリスタ嬢を産んでいる間にも、父親は他の女と会っていたなんてことが分かったらショックに違いない。
「おかあさま、おかわいそう……」
「わたくしの妹、マリアをそんな目に遭わせたノメンゼン子爵をわたくしは許しません」
「おばうえ、どうか、せいばいしてください」
「えぇ、成敗しますとも!」
力強く母が言ってくれるのにわたくしも勇気をもらっていた。
なかなか泣き止めないクリスタ嬢は顔を洗って、ミルクティーを飲んで少し休んでいた。
母親が妊娠している間に、父親とも思っていないが母親の伴侶が浮気をしていたと知ったらそれは相当な衝撃だろう。特にクリスタ嬢は亡くなった母親のことをとても大事に思っている。
クリスタ嬢の水色の目から流れた涙が、ミルクティーの濁った水面に波紋を作る。クリスタ嬢の肩を抱き寄せて、わたくしはクリスタ嬢を慰めていた。
「おねえさま、ひとはしんだら、どうなるの?」
「それは、わたくしにも分かりません」
わたくしは前世の記憶を持って生まれ変わったが、こういうケースはごく稀なのだろう。他に聞いたことがないし、死んだ後にひとがどうなるかという難しい問いかけにわたくしは答えられなかった。
「どうすれば、おかあさまとおはなしできるのかしら」
ぐすぐすと洟を啜りながら呟くクリスタ嬢に、そばで見守ってくれている母が優しく声をかける。
「マリアのお墓にお参りに行きますか?」
「おはかにおまいりすると、おはなしができますか?」
「お話はできないかもしれないけれど、お墓に語り掛けることはできますよ。可愛い娘が来てくれたら、マリアもきっと喜ぶでしょう」
「わたくし、おはかにおまいりにいきたいです」
クリスタ嬢の願いを聞いて両親は頷いている。
「クリスタ嬢がこれだけ成長したことを報告しないとね」
「マリアのお墓にお参りに行きましょうね」
「はい、おじうえ、おばうえ」
マリア叔母様のお墓にお参りに行くことでクリスタ嬢の涙は止まったようだった。
「いちばんかわいいふくをきて、かってもらったくつをはいていくの。おばうえ、かみかざりをつけていってもいいですか?」
「クリスタ嬢が五歳のお誕生日にもらった髪飾りですものね。薔薇でも牡丹でも、好きな方を付けていくといいですよ」
「おねえさまもいっしょにつけてくださる?」
「わたくしでよければ」
約束をしたクリスタ嬢は泣き止んで、冷えてしまったミルクティーに口を付けた。
一年前このお屋敷で開かれたお茶会に出席したクリスタ嬢は、ノメンゼン子爵夫人に虐待されていて、それを見てしまったわたくしはクリスタ嬢を放っておけなくて、ディッペル家にクリスタ嬢を引き取ってもらえるように両親にお願いした。
あのときはひとが叩かれている場面など初めて見たのでショックを受けていたが、今思うとぞっとしたのはそのことだけではなかった。
クリスタ嬢の異母妹でノメンゼン子爵夫人の娘のローザ嬢。ローザ嬢は異母姉のクリスタ嬢が叩かれている場面を目の当たりにしながらも、唇の両端を吊り上げて笑っていたのだ。
クリスタ嬢を一刻も早く公爵家の正式な養子にしたい気持ちは大いにあったが、ノメンゼン子爵家の後継者がローザ嬢になるのだけはいただけない。
ローザ嬢は自分の父親であるノメンゼン子爵がクリスタ嬢を捕まえようと追いかけ回して、ハインリヒ殿下に助けられて、ノメンゼン子爵が観葉植物に激突してスラックスのお尻が破けたときも、ノメンゼン子爵と子爵夫人が退場していくのを見て「つまんなぁい」などと呟いていたのだ。
ローザ嬢はクリスタ嬢の一つ年下なので四歳になっているだろうが、この時点で既に取り返しのつかない性格の悪さを身に着けている気しかしない。
ローザ嬢がノメンゼン子爵家を継ぐとなれば、遠縁のディッペル家も巻き込むような問題が起きそうな気がしてならないのだ。
わたくしはこのことに関してまだ両親に相談していなかったのを思い出して、朝食の席で両親に話をした。
「一年前、クリスタ嬢がディッペル家のお手洗いで叩かれているときに、ローザ嬢はそれを見て嘲笑うような表情をしていたのです……。ノメンゼン子爵のスラックスが破れて下着が見えたときも、ノメンゼン子爵が急いで逃げて行くのを見て『つまんなぁい』と呟いているのも聞きました」
正直に起きたことを口にすれば、両親は眉を顰めている。
「姉が叩かれているのを見て嘲笑うなど、どのような根性をしているのだろう」
「信じられませんね。ローザ嬢には絶対にノメンゼン家を継がせてはなりません」
クリスタ嬢をディッペル家の養子に迎えたい気持ちは、わたくしも両親も同じだった。クリスタ嬢が正式な妹になればどれだけ嬉しいことだろう。バーデン家もクリスタ嬢に手出しができなくなるので、全てが丸くおさまる。
それを妨害するのがローザ嬢の存在だった。
クリスタ嬢をディッペル家の養子にしてしまうと、ローザ嬢がノメンゼン子爵家の跡継ぎになる。それだけは避けなければいけない。
「ローザ嬢とノメンゼン子爵夫人をどうにか排除しないとクリスタ嬢をディッペル家の養子に迎えることはできない」
「わたくし……心当たりがありますのよ」
「テレーゼ、何かいい案があるのか?」
ノメンゼン子爵夫人について、母は何か考えがあるようだった。
「ノメンゼン子爵夫人は、子爵夫人の座を手に入れていますが、その権利がないのではないかと思っていますの」
「それはどういうことですか、お母様?」
身を乗り出して聞くわたくしに、母が言いにくそうに声を潜める。
「妊娠期間というのがありますでしょう?」
「えーっと、一般的に十月十日と言われていますね」
「それは計算上のことで、実際にはもう少し短いのですよね。ですが、クリスタ嬢は春生まれ、ローザ嬢は冬の始まりの生まれと聞いています。明らかに妊娠期間がおかしいのですよ」
母に言われてわたくしも気付いた。
クリスタ嬢は出産の際に母親を亡くしているが、その七か月後には異母妹のローザ嬢が生まれているというのは、早すぎる。
「ノメンゼン子爵夫人は早産であったと言っていますが、ノメンゼン子爵は妹のマリアの生きている頃からノメンゼン子爵夫人と浮気をしていたのではないでしょうか?」
「その証拠があれば、ノメンゼン子爵夫人は子爵夫人どころか、ただの妾だ。ローザ嬢にもノメンゼン子爵家の後継となる地位はなくなる」
「ノメンゼン子爵夫人……と呼びたくないですが、彼女のお産に立ち会った医者から話を聞いてみましょう」
事態が動き出す。
もしもこれでノメンゼン子爵夫人が母の妹のマリア様の生きているときに浮気をした末に生まれたのがローザ嬢だとすれば、ローザ嬢にノメンゼン子爵家の継承権はなくなるはずなのだ。
「浮気の末にできた子どもを後継者に据えようとするのは、ものすごい醜聞になりますね」
「クリスタ嬢の誕生日にそのことを暴いて、わたくしの兄のシュレーゼマン子爵の子どもをノメンゼン子爵家の後継にするのはどうでしょう」
「それならば問題なくクリスタ嬢を養子にできるし、我が一族の結束も強まるな」
両親がしっかりと考えてくれているおかげで、ノメンゼン子爵夫人の化けの皮が剥がれそうな気配がしている。
「おねえさま、ローザはわたくしのいもうとではないの?」
「妹ですが、再婚をして正式に生まれた妹と、浮気をして生まれた妹では全然違うのです」
「どういうことなのか、わたくし、よくわからないのだけど」
「ノメンゼン子爵夫人が、クリスタ嬢のお母様が亡くなってからノメンゼン子爵とお付き合いを始めて、結婚したのだったら、ノメンゼン子爵夫人になりますが、クリスタ嬢のお母様が生きているうちからお付き合いをしていて、ローザ嬢ができたのであれば、ローザ嬢は浮気の末にできた妾腹の子どもということになります。妾腹の子どもには基本的に爵位の継承権はありません」
母に教えてもらったことをわたくしが説明すると、クリスタ嬢は目を丸くして驚いていた。その大きな水色の目に見る見るうちに涙が溜まってくる。
「おかあさまは、うわきされていたの?」
「残念ながら、そう考えるしかありません。女性の妊娠中に他の女性と浮気する男性は多いのです」
「そんな……おかあさまは、わたくしをいのちをかけてうんだのに、そのあいだ、ノメンゼンししゃくは、うわきをしていたの!?」
ショックのあまりぽろぽろと涙を流すクリスタ嬢をわたくしは抱き寄せる。命を懸けて母親がクリスタ嬢を産んでいる間にも、父親は他の女と会っていたなんてことが分かったらショックに違いない。
「おかあさま、おかわいそう……」
「わたくしの妹、マリアをそんな目に遭わせたノメンゼン子爵をわたくしは許しません」
「おばうえ、どうか、せいばいしてください」
「えぇ、成敗しますとも!」
力強く母が言ってくれるのにわたくしも勇気をもらっていた。
なかなか泣き止めないクリスタ嬢は顔を洗って、ミルクティーを飲んで少し休んでいた。
母親が妊娠している間に、父親とも思っていないが母親の伴侶が浮気をしていたと知ったらそれは相当な衝撃だろう。特にクリスタ嬢は亡くなった母親のことをとても大事に思っている。
クリスタ嬢の水色の目から流れた涙が、ミルクティーの濁った水面に波紋を作る。クリスタ嬢の肩を抱き寄せて、わたくしはクリスタ嬢を慰めていた。
「おねえさま、ひとはしんだら、どうなるの?」
「それは、わたくしにも分かりません」
わたくしは前世の記憶を持って生まれ変わったが、こういうケースはごく稀なのだろう。他に聞いたことがないし、死んだ後にひとがどうなるかという難しい問いかけにわたくしは答えられなかった。
「どうすれば、おかあさまとおはなしできるのかしら」
ぐすぐすと洟を啜りながら呟くクリスタ嬢に、そばで見守ってくれている母が優しく声をかける。
「マリアのお墓にお参りに行きますか?」
「おはかにおまいりすると、おはなしができますか?」
「お話はできないかもしれないけれど、お墓に語り掛けることはできますよ。可愛い娘が来てくれたら、マリアもきっと喜ぶでしょう」
「わたくし、おはかにおまいりにいきたいです」
クリスタ嬢の願いを聞いて両親は頷いている。
「クリスタ嬢がこれだけ成長したことを報告しないとね」
「マリアのお墓にお参りに行きましょうね」
「はい、おじうえ、おばうえ」
マリア叔母様のお墓にお参りに行くことでクリスタ嬢の涙は止まったようだった。
「いちばんかわいいふくをきて、かってもらったくつをはいていくの。おばうえ、かみかざりをつけていってもいいですか?」
「クリスタ嬢が五歳のお誕生日にもらった髪飾りですものね。薔薇でも牡丹でも、好きな方を付けていくといいですよ」
「おねえさまもいっしょにつけてくださる?」
「わたくしでよければ」
約束をしたクリスタ嬢は泣き止んで、冷えてしまったミルクティーに口を付けた。
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