抱きたい美女に抱かれる現実

秋月真鳥

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第三部 七海とのぶくん (七海編)

1.幼い恋

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 小日向こひなた七海ななみは、母親を知らない。生後一週間で、退院と同時に七海の本当の母親は、不倫相手の父親に七海を押し付けて、去って行った。ベビーシッターとハウスキーパーを付けてくれたが、父親は七海の面倒を一切見ずに、七海の名前も呼ばなかった。ベビーシッターもハウスキーパーも必要以上に七海の前で喋ることはなく、連れて行かれる保育園での生活が、七海の常識になっていた。
 世間の子どもには「ママ」という優しい存在がいて、泣いたら抱っこしてくれたり、今日のご飯は何が良いか聞いてくれたりする。絵本や保育園の園児の様子を見て学んでいた七海は、早く自分の「ママ」と出会える日を夢見ていた。
 それが叶ったのが、2歳のときのこと。
 姉のかなめに七海を放り出すように預けて、父親が消えてしまったが、七海は少しも寂しいとは思わなかった。お腹が空いていたのと、オムツが濡れているのは、訴えればベビーシッターとハウスキーパーがどうにかしてくれたから、泣いて訴えるも、要の方もまだ17歳で2歳の幼児を押し付けられてパニックに陥っていた。
 そこに現れたのが園部そのべ鷹野たかのだった。
 突っ伏して泣いている七海を抱っこして、着替えさせて、蜜柑を剥いて食べさせてくれた鷹野。優しく「七海ちゃん」と名前を呼ばれて、保育園の先生以外でこんなに優しい声を聞いたことがなくて、七海はすっかりと鷹野の虜になった。

「まぁま」
「ママじゃないよ」

 否定されても、七海にとって鷹野は離れて行ってもらっては困る存在だ。「ママ」としてどうにか繋ぎ止めておかなければいけない。
 それまで離乳食も適当で、七海の嫌いなどろどろのお粥やパン粥ばかり食べさせられていて、吐き出して嫌がっていたが、鷹野の作る料理は、グラタンやラザニアや、雑炊など、薄味だったがちゃんと味が付いていて美味しかった。
 デザートの果物も、噛むのが最初は難しくて、大きな塊を丸のみしていたが、鷹野がそのことに気付いてすり潰してくれたり、小さく切ってくれたりすると、美味しいことに気付いた。

「七海ちゃん、要ちゃん、晩御飯は何が良い?」
「おかさま!」
「アジフライが食べたいです!」
「それじゃあ、七海ちゃんにはアジのすり身のフライにしようね。要ちゃんはタルタルソースで食べようか」

 朝ご飯の後に晩ご飯のリクエストを聞いてくれて、車で保育園に送ってくれて、帰りは延長保育の時間になる前に早く迎えに来てくれる。理想の「ママ」と姉との暮らしに、七海は完全に満足していた。
 3歳で七海が突き付けられた現実は、鷹野が「ママ」ではないというものだった。
 お弁当を作ってもらったが、雨で遠足が中止になって、ホールで遠足ごっこをしてお弁当を食べていたときに、話しかけてきた年上の男の子。小学生のその子が、七海に言ったのだ。

「ママじゃないんじゃないか。ハウスキーパーなんだろ? 先生と同じで、自分の子どもができたらそっちが可愛くなるし、契約が切れたらどっかいっちゃうんだぞ」

 やっと自分を可愛がって愛してくれる「ママ」に出会うことができたと、心から安心して、毎日鷹野とお風呂に入って、一緒に寝て、ご飯を食べさせてもらっているのに、その子は鷹野が七海の「ママ」ではないという。
 噛み付いてしまったその子は、自分よりも10歳近く小さな七海をいじめたということで両親に怒られていたが、七海も噛んだことを先生に叱られた。その後で、迎えに来た鷹野を見ると、七海は泣いてしまった。

「まぁま、ちやうって。どっかいっちゃうって」

 抱っこされて、ぎゅっと鷹野の胸に縋り付くと、鷹野はいつも甘くていい匂いがする。優しい鷹野が大好きで、「ママ」であって欲しいという気持ちが七海の目から涙を零させた。

「まぁま、ほんとのこが、いーの? ななおいて、どっかいっちゃうの?」
「僕は結婚する予定もないし、どこにも行かないけど、本当のことを教えてあげるね」
「ほんとのこと?」
「僕は七海ちゃんのお隣りに住んでて、七海ちゃんのママじゃない。要ちゃんが大学に入学したら、僕は七海ちゃんのお家から出て行くよ」
「いなくなゆの?」

 小さな七海にも、鷹野は真剣に答えてくれた。
 家から出て行くという言葉に、七海の鼻から洟が垂れる。

「でもね、ずっとお隣りに住んでるから、困ったことがあったらすぐに来て良いし、そうじゃなくても遊びに来て良いよ。七海ちゃんのことは、ずっと大好きだよ」
「ななも、まぁま、すち!」
「僕も大好きだよ」

 ずっと大好きだという言葉と、離れてしまうという現実。
 要が大学に入ったらという期限が、七海にはよく分からないが、そう遠くもないのかもしれない。
 その夜、七海は子ども用ベッドの柵をよじ登って、床に落ちてしまったが、鷹野の胸に這い上がって眠った。どうすれば鷹野がどこにも行かないか、幼い七海には分からなかった。
 分からないなりに、七海は要が鷹野のことが好きで、お嫁さんにしたいというのは理解していたので、要が鷹野を口説き落とせるように願っていた。
 本当は、七海が鷹野をお嫁さんにしたかった。
 それに気付いたのは、鷹野に告白をされてからだった。

「だからね、僕は七海ちゃんのお兄さんなの」
「まぁま?」
「血が繋がってて、七海ちゃんとは本当の家族だから、どこかに行ったり、絶対にしないんだよ」
「ほんとの、まぁま?」
「もう、それでいいよ」

 兄だと言われてもピンと来ない七海は、鷹野を「本当のママ」と認定したが、兄でもママでも、血縁があるので結婚できないのには変わりない。
 幼い初恋は破れてしまったが、七海には新しい恋が待っていた。

「七海ちゃん、お菓子の中で何が好き?」
「はちみつボーロ!」
「蜂蜜ボーロか、分かった」

 以前に七海が噛み付いた男の子は、中学生になっていて、家の洋菓子店を手伝っているという。その子が作ってくれた蜂蜜ボーロは、可愛くリボンでラッピングされていた。

「バレンタインデーって知ってるか?」
「しらない」
「好きな子に、プレゼントする日なんだぞ。俺にくれるよな」
「ママとおはなししてみるね」

 一人でお菓子は作れないし、買いにもいけないので、七海は鷹野に相談することにした。

「ばろんとろんでいがね、のぶくん、ほしいんだって」
「のぶくんって、蜂蜜ボーロくれた子だよね」
「うん、ななも、ばろんとろんでい、つくれる?」
「えーっと、バレンタインデーかな? 一緒にクッキーを作ってみる?」

 鷹野は要の分を、七海は「のぶくん」の分を作ることになった。ココアを練り込んだ生地を捏ねて作って、冷やしてから、動物の型に抜いていく。プレーンのクッキーも作って、ハート形にも抜いた。

「七海ちゃんはのぶくんが好きなの?」
「のぶくんのおかし、おいしいの。のぶくんも、あまぁいにおいがするのよ」

 洋菓子店の子どもだからか、「のぶくん」からは甘い香りがする。そう主張する七海も、バレンタインデーのある2月が終わって、3月になれば5歳になる。バース性の検査のできる最低年齢に達する。

「急がなくて良いと思うんだけど……七海ちゃんは、検査を受けたい?」
「けんさ?」
「要ちゃんはアルファで、僕はオメガ。オメガは赤ちゃんが産めるんだよ」
「のぶくん、あかちゃん、うめるの?」
「のぶくんは、どうかなぁ?」

 バース性は個人情報で、あまり明かされない。両親が有名洋菓子店を経営していて、アルファとオメガのカップルである「のぶくん」は、血統的にアルファかオメガである確率が高かった。同じく、父親がアルファ、母親がオメガの七海も、アルファかオメガである確率が高い。

「ななね、ママみたいなおよめさん、ほしいの」
「へ? 僕?」
「ななちゃんったら、趣味が良いんだから。私に似たのかな」
「ママはママだし、かなちゃんのだから、あきらめるけど、のぶくん、およめにきてくれるかなぁ?」

 焼き上がったクッキーをラッピングする七海は、5歳直前の4歳児だった。
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