愛の言葉に傾く天秤

秋月真鳥

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ユストゥス編

1.最悪の出会い

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 ユストゥス・ハインツェは自他共に認めるブラコンである。幼い頃から「好きな相手は?」と聞かれたら必ず「兄さん」と答えるような子どもだった。物がどうやって燃えるかを知りたくて灯油を持ち出して家の裏の納屋で物を燃やしているうちに、納屋に火が燃え移って逃げられなくなったとき、兄のエリーアスはユストゥスを助けに来てくれた。
 あれはユストゥスが7歳で、エリーアスが17歳のとき。火傷を負いながらもユストゥスを助けてくれたエリーアスにユストゥスは泣いて謝った。ユストゥスが反省しているのは分かっていたので、エリーアスも両親もユストゥスを厳しく𠮟ることはなかった。

「あなたが無事でよかったです。もう二度とこんな危険なことはしてはいけませんよ」

 普段は他人に触れるのを嫌がるエリーアスがユストゥスを抱き締めてくれたのに、ユストゥスはそれだけエリーアスを心配させてしまったのだと涙を流した。
 十六年後、ユストゥスが23歳、エリーアスが33歳のときに、エリーアスは結婚した。
 研究医なのに戦場に連れて行かれていたエリーアスは、出かける前に疫病の特効薬の研究データをユストゥスに託した。大陸中に広がる疫病の特効薬が出来上がればそれを交渉条件に、この国は戦争を終わらせることができる。
 できる限り研究を急いだつもりだったのに、帰って来たエリーアスは自爆テロで左腕と左脚を失っていた。義肢の技術が進んでいるし、左腕と左脚がなくなった程度でエリーアスはなにも変わらない。これからはユストゥスがフォローしつつ生きていくのかと思っていたら、エリーアスを追い駆けてギルベルトという戦争の最前線の部隊を率いていた英雄がやってきた。
 エリーアスとギルベルトは気持ちが通じ合っていなかったようだが、ユストゥスの助けもあってギルベルトはエリーアスに告白し、結婚することになった。幸せな二人を見守ってから出た学会で、ユストゥスは多少機嫌が悪かったのかもしれない。
 大好きな兄のエリーアスが結婚することに関しては、自分はエリーアスとは結婚できないのだからギルベルトと幸せになってくれてよかったと心から思っているのだが、それにしても、エリーアスを取られたような気持がなかったわけではない。
 学会で発表される論文を、エリーアスは資料を見ながら聞いていたが、妙に引っかかるところがある。
 質問時間になってエリーアスは自分のタブレット端末から質問画面に飛んだ。学会の正面のスクリーンに黒髪に水色の目のユストゥスの姿が映される。

「研究員のユストゥス・ハインツェです」

 にっこりと微笑んだユストゥスが名乗ると周囲がざわめくのを感じた。疫病の特効薬を開発したとして、ユストゥスの名前は国中に知れ渡っている。特効薬の特許は国に譲ったが、国は英雄としてユストゥスを祀り上げていた。

「素人質問で恐縮なのですが、その治験にバイアスがかかっていないという根拠はありますでしょうか?」
「ど、どういう意味でしょうか?」
「一般的に偽薬を使ってのプラセボ効果というものが認められています。病状が改善されたという例の中に、治療薬だからという触れ込みで使ったために、病状が改善されたかのように思い込んだグループがないかをお聞きしたいのです」

 発表している銀色の髪を長く伸ばした男性は慌てているようだった。資料を捲って必死に答えようとしている。

「治験を行ったグループはどのグループも症状は改善しています」
「その病気については、重症化する場合と自然治癒する場合がありますよね。自然治癒する患者さんが、治療薬を投与されたという思い込みによって、それで治ったと言っている場合はないのですか?」
「そ、それは……」

 たじたじになって答えることのできない銀髪の男性に、同じ研究グループの男性が割って入る。

「その件に関しては、持ち帰りもう一度調べ直したいと思います」

 それは事実上の敗北だった。学会で発表した論文に不備があったことを認めるに等しい。やり込めたという気分も特になく、学会会場を出ようとするユストゥスに、銀髪の男性が声をかけてくる。

「ユストゥス・ハインツェ……専門家中の専門家じゃないか。どこが素人なんだ」
「あの病気については素人でしたよ」
「おかげで論文を取り下げることになった。俺はお前を許さないからな」
「許さないって、どうするんですか?」

 笑顔を崩さないままでユストゥスが銀髪の男性に問いかける。

「僕を糾弾する? どういう理由で? 僕を今の地位から引きずり落とす? どういう手段で? 僕を刺す? これは刑事事件ですよね。僕を訴える? どういう理由で?」

 どれもできるはずがないとユストゥスが笑顔のままで伝えると、銀髪の男性は俯いてしまう。

「お前のいる研究所に行ってやる! お前の研究がどれ程のものか見せてもらおうじゃないか!」

 迫ってくる銀髪の男性の横を通り過ぎて、ユストゥスは駐車場に向かう。ユストゥスの後ろから銀髪の男性はしつこく追い駆けてくる。

「特効薬の開発だって、本当は兄の功績を奪っただけなんだろう?」
「そうなんですよ。兄さんは本当に素晴らしい研究員で、兄さんこそが評価されるべきです。あなた、分かってますね」
「へ?」
「それでは、見学に来たいのならば研究所にアポを取ってくださいね」

 ユストゥスが傷付くか、激昂すると思って言ったであろう言葉に、完全に同意したユストゥスに銀髪の男性は呆気に取られてユストゥスを見送っていた。
 電気自動車に乗り込んでから、ユストゥスは論文をタブレット端末で検索して、写真入りの銀髪の男性の名前を調べておいた。

「ライナルト・ヴェールマン……めんどくさそうな奴だった」

 銀色の髪をわざわざ長く伸ばして格好つけているし、学会で論文に疑問を投げかけた程度でしつこく絡んでくる。面倒だとは思ったが、面白そうだともユストゥスは考えていた。
 顔も綺麗に整っていたし、モテそうな男性だった。その鼻っ柱を折ってやるのは愉快かもしれない。

「ギルベルト、今日は暇かな? 僕、学会で首都から帰るんだけど、寄ってもいい?」

 兄のエリーアスの伴侶のギルベルトとユストゥスは仲がいい。連絡をすればすぐに了承してくれた。
 晩ご飯は美味しいものが食べられそうだと期待しながらユストゥスは帰路に着いた。
 エリーアスの借りている家に行くと、玄関先でスリッパに履き替えさせられる。ギルベルトは部屋の床を張り替えて、土足で室内に入らないようにしていた。部屋は掃除機がきちんとかかっていて、清潔に整えられている。体に厚みのある筋肉質なエリーアスがソファで論文を読んでいた。左腕と左脚は白銀に輝く義手と義足だが、慣れているので何の問題もなく左手でタブレット端末を持って、右手で操作している。

「兄さん、なんの論文を読んでいるの?」
「この論文の矛盾点が気になっているんですよ」

 特に資源も特産品もないが、医学技術に力を入れているこの国では、医学に関する論文は書かれるとすぐに研究員で共有できるデータ保管場所に入れられる。エリーアスもユストゥスも最新の論文を読んで常に勉強していた。

「あぁ、ライナルト・ヴェールマンの論文だ。このひとの論文を今日の学会で聞いて来たよ」
「どうでしたか?」
「思考にバイアスがかかってる感じがした」

 重症になるものと自然治癒するものがいる病気の場合では、治験に関わらず、自然治癒した可能性を必ず考慮に入れるものだが、それがライナルトの論文にはなかった。自分の開発した治療薬で全ての治験のグループが改善に向かったという結果を、無理やりに作り出したイメージすらあった。
 あまり優秀な研究者ではないのだろうというのがユストゥスのライナルトに対する印象だった。

「彼、ユストゥスの研究所に移動するんですか?」
「え!? そうなの?」
「元々、疫病の特効薬を開発した研究者のいる研究所に移動をしたがっていたようですよ」

 見学に来るならアポをなどと言ってしまったが、それ以前からライナルトはユストゥスのことを知っていて、同じ研究所で研究をしたいと思っていた。憧れられていたのかもしれない。その憧れをすりこ木とすり鉢ですり潰すようなことをしてしまったユストゥスは、ちょっとだけやりすぎたかなと思ったが、あまり気にしないことにした。

「いい匂いがするね、ギルベルト。今日のご飯は何?」
「グリーンカレーを作ってみたんだ。タンドリーチキンもあるよ」
「美味しそう!」

 スパイシーな香りが家中に広がっていた。身を乗り出したユストゥスに、ギルベルトが料理を持ってくる。大きなナンは香ばしい匂いがする。

「これは?」
「バターナンだよ」
「これをカレーにつけるんですか?」
「タンドリーチキンを乗せても美味いよ」

 日に日に料理上手になって行くギルベルトは、エリーアスと結婚してから調理と栄養学の大学に通い始めた。本人は抵抗があるようだが、まだ23歳にもなっていないギルベルトが大学生というのに違和感はなく、周囲に溶け込んでいるようだった。

「いただきます!」

 手を合わせて、ユストゥスはナンを千切って、グリーンカレーにつけて食べ始めた。
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