桜の朽木に虫の這うこと

朽木桜斎

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第3作 ドラゴン・タトゥーの少年 桜の朽木に虫の這うこと(三)

第47話 虚の太刀

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「……遅漏め」

 低い声で呻いた浅野が、ようやくコンドーム越しにアオイのナカで射精に至ったのはそれから三十分は後のことだった。

 やっと解放されたアオイは、なんとか呼吸を落ち着かせ、恨みがましい目で浅野を睨みつける。

「そんなこと言わないでくれよ。想像以上にキミが可愛いから、必死で我慢したんだ」
「死ぬかと思った」
「死ぬほどよかったんだろう?」
「そうとも言う」

 浅野はくつくつと喉の奥で笑いながら、汗ばんだ額に張り付いたアオイの髪を梳いてくれた。

 いつもなら、浅野の低い呻き声を聞くとき、アオイは浅野のペニスを握り愉悦に浸っているはずだ。
 この瞬間が好きだった。彼が感じている顔が好きだ、達するときに歪む映画俳優みたいな甘いマスクが好きだ。いつも余裕の浅野が見せる、唯一の余裕のない表情。今、この男を支配しているのは自分なのだ、自分は必要とされているのだと、感じることができるから。

 それなのに、今日は立場がまるで逆であることが、少々面白くない。

「ふたりでいろんなことをしよう。もっと気持ちよくしてあげる。いろんな顔を見せて」

 浅野はチュ、とアオイの目尻に口付けた。
 そこには快楽のあまりに流した涙の跡がある。

「シャワーを浴びてくるよ。キミはもうちょっと落ち着いたらおいで」
 と、ダブルサイズのベッドにぐったりとしたアオイを残し、激しいセックスの疲れなどまったく感じさせない颯爽とした足取りで、浅野はバスルームに向かった。






 そんな調子で、浅野との関係はもう二年は続いている。
 エルミタージュへの出勤は月に一度か二度。これはもう趣味みたいなもんだ。
 浅野は店へは来なくなった。かわりに、こうして月に一度程度、店の外で逢瀬を重ねる。
「あッ、ここ、すごい……奥、あたるっ……」
「気持ちいい?」
「イイッ、あ、あ、すご……あ……ッ」
 ベッドサイドに腰掛けた浅野の上に跨って、アオイは腰を振っていた。「上手だね」と浅野は嬉しそうに微笑んで、だらしなく開いたままのアオイの唇に、かぶりつくように口付ける。
 密会の場所はひなびたラブホテルだったり、小綺麗なシティホテルだったりと様々だ。
 ホテルのレストランで食事をした後部屋に行くこともあれば、直行でホテルに連れ込まれることもある。土日だろうと平日だろうと、あまり関係ない。
 当初提示された「店に払うのと同じ額を払う」という約束のもとはじまった関係だが、約束の額が払われたことは一度もない。
 ――一回、五万。
 これが、浅野がアオイとセックスのたびに払う金額だ。


 初めて浅野とセックスをした日――浅野のあとに続いてシャワーを浴び、バスローブ姿で出てきたアオイに「これ、今日の分」と、五万円という予定より大きな金額を浅野は握らせた。
「えっ、多すぎない?」
 ぎょっとして思わず返そうとするアオイに「そう?」と、浅野はすっとぼけた様子で微笑んで「ほら、早く着替えなよ。風邪ひくよ」と急かした。
 浅野はすっかりスーツを着込んでいる。アオイは驚きのあまりそれ以上何も言えず、そのままもらった五万円を仕舞い、呆然としたまま着替えはじめた。

 それ以来、浅野はアオイとのセックスの度に五万円握らせる。
 毎回それを突っぱねる理由もない。
 浅野の都合のいい日・時間にアオイが合わせ、セックスに付き合い、ときには食事を共にする。
 時間にしたら三時間程度だ。これほど割のいいバイトもないだろう。

 エルミタージュでのバイトと、学生時代染みついた貧乏性のお蔭で、奨学金の返済はとうに終えていた。本職での給料でも十分にやっていける。金には困っていない。
 それでも浅野との関係を続ける理由は、単に居心地がいいからだ。
 浅野とのセックスは気持ちがいい。
 毎度、意識が飛びそうなほどの快楽が得られることが確約されている。
 求められている。必要とされているのだと、毎回再確認できる。五万円の収入は、そのおまけみたいなものだ。
 現に浅野からもらった金はほぼ手付かずで、貯金ばかりが増えていく。


「そこ、あっだめ、すくイっちゃ……」
「すぐイっちゃうんじゃなくて、何度もイっちゃうの間違いだろ?」
「ん……いっぱい、イっちゃう……ッ!」
「可愛いね、アオイ。いいよ、いっぱいイってごらん」
 今日は待ち合わせて早々、手近なラブホテルに入った。

 多いときは月に一、二度。浅野が忙しかったり、予定が合わせられないこともしばしばあり二、三か月会えないこともある。

 今日はまさに約二か月ぶりの逢瀬だった。

 ホテルに入った途端に「会いたかったよ」と抱き締められ、アオイは安堵する。
 浅野との関係は決して恋愛ではない。

 セックスの最中、浅野はよく「可愛いね」を繰り返し何度もキスをするが、それ以外でキスをすることはないし、アオイからしようとも思わない。

 長い付き合いである浅野にある種の信頼は寄せているが、それは決して恋愛感情ではない。

 だが、柔軟剤の匂いすらしない、無臭の浅野に抱き締められると、アオイは不思議と落ち着く。ここが帰ってくる場所のような気がしてホッとする。

 浅野はひとしきりアオイの感触を堪能すると、おもむろに解放し「シャワー、浴びようか」と微笑む。いつも余裕の浅野は、決してがっついたりしない。
 シャワーの後、ベッドの縁に腰掛ける浅野の上でアオイは何度もイった。
 最後は正常位で奥深くを貫かれ、コンドーム越しに浅野が達すると同時に更にドライでイった。
 毎度のこと、意識が飛びそうなほどの快楽に溺れてアオイはぐったりとしたまま、浅野のたくましい腕に抱かれていた。

「本当は、外で食事でもと思ったんだけど……今日、娘がこの辺で遊んでるらしいんだよね」
 汗ばんだアオイの髪を梳きながら、浅野はさもなんてことのない口調で言う。
 浅野は結婚指輪をしていない。
 一度も言及したことはなかったが、指輪をしていない。だからと言って、このスペックでまさか独身なはずはないだろう、とは思っていた。
 だが直接的に家族の話を聞くのは、長い付き合いの中、今日が初めてだ。
「へえ、何してんの?」
 アオイは動揺を悟られないように、何気ない様子を装いたずねてみる。

「友達と映画見て、ご飯食べるんだってさ」
「へぇ。友達とか言って、カレシなんじゃないの?」
「うーん、そうかもねぇ」
「娘さん、いくつ?」
「今年大学に入学したばかりだから、まだ十八だね」

 まじか。そんな大きい娘がいるのか。
 そもそも、浅野の正確な年齢もアオイは知らない。
 知っていることと言えば、彼の職業と、家が実は「エルミタージュ」の近くであるということ。
 大して隠れてもいない、比較的大きな通りに面した場所にある風俗店に通うなど、相当にリスキーなことだったはず。当時、浅野はそうまでしてアオイに会いにきていたのだ。
 そう思うと悪い気はしない。
 娘の存在など、アオイにとって大した問題ではない。
 アオイは「じゃあ、もうちょっとこのままのんびりしよ?」と浅野の胸にすり寄った。

「本当にキミは甘え上手だね」
「そ?」
「わかっててやってるその性格も好きだよ」
「どーもっ」
 他の客と違って取り繕わなくてもいいのも気が楽だ。汗ばんでしっとりとした浅野の逞しい胸に頬を寄せ、セックス後の倦怠感に身を任せアオイは目を閉じた。
 そしてそのままうとうとしてしまったらしい。
「アオイ」
 頬を撫でられながら名前を呼ばれ、アオイはハッと目を開けた。
「俺、寝てた?」
「ほんの一瞬ね。お湯を溜めたから、一緒に入ろう」
 アオイがうたた寝をしている間に、風呂の用意をしてくれていたらしい。
「キミの好きな泡風呂にしたから」と補足した浅野に、アオイは「サイコ~」と無邪気に笑顔を見せた。
 普段家ですることのない泡風呂は、浅野とラブホテルに来たときだけの楽しみだ。
 まだ怠い体をベッドから起こしたところに「忘れないうちに今日の分」と五万円を渡される。
「あぁ、ありがと」

 アオイは礼を言って受け取ると、おざなりにカバンの中に入れた。札がばらけて散らばらないよう、仕切りポケットの中に適当に突っ込み、先にバスルームに向かった浅野の後を追う。
 いつまでこんなことを続けられるのだろう。
 浅野の用意してくれた泡風呂に浸かりながら、同じく向かい合って大きなバスタブに浸かっている浅野の顔を見る。
 浅野が飽きるまでだ。
 自分にいつまででも、金を払ってセックスする価値があるとは思えない。
 エルミタージュの客もそうだ。
 今は人気が人気を呼び、出勤の度に予約で埋まる人気キャストだが、いつまでも自分が必要とされるとは限らない。
 きっと、そんな価値がなくなる日がくるだろう。それがいつになるのかは、誰にもわからないけれど。


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