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第1作 桜の朽木に虫の這うこと
第20話 世界について
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ウツロのいた医務室は、東向きアパートの一階。
方位でいうと、その中の南東に位置していた。
廊下を出て西へ歩き、T字コーナーを曲がってさらに北へ歩くと、広いロビーに出る。
洋館を改装したというだけあって、いかにもレトロな様式と装飾になっている。
年代物とおぼしき大きな柱時計の振り子の音は、規則的ではあるが古風な響きで心が落ちついた。
秒針の動きはいかにも頼りなげで、いまにも止まってしまいそうだ。
いや、時計は活動しているのだけれど、時間そのものは静止しているかのように感じられる。
ウツロはこの空間について、そう思いを馳せたのだった。
建物の全体はほぼ左右対称になっているらしく、出入口から見て両側に、二階へ上がる階段がついている。
外の世界を初めて体験するウツロではあったが、この建物はなぜか隠れ里への郷愁を満たしてくれて、それほど抵抗は感じなかった。
窓から外をのぞきこんでみる。
敷地は相当広いようで、さまざまな種類の花や樹木が植えられた庭園の遠くに、門らしきものが見て取れる。
その周りはツタが縦横無尽に絡まった白壁で囲まれていて、外界からの侵入を拒絶しているような雰囲気がある。
美しいけれど、どこか人工的に見えるような。
分厚いはめ込み式の窓は、強化されたくもりガラスのようである。
「改装」か、なるほど。
きっとまだまだ秘密があるのだろう。
彼はそれを悟ったものの、真田龍子をわずらわせまいと気づかないふりをした。
やっぱり俺は閉じ込められ、つながれているんだ。
隠れ里でも、ここでも。
いや、おそらく世界のあらゆるところで……
彼を閉ざしているのは他ならぬ彼の精神自体であるのだけれど、ウツロはそれを認識しつつ、認めたくないというジレンマに苦しんでいるのだった。
自由を欲するいっぽうで、つながれていたいという矛盾に。
それはちょうど、牢獄の個室で何不自由ない暮らしをしたいというわがままにも似ていた。
「一階はこんなところかな。建物の北側の半分は、食堂と厨房だね。いまごろ柾樹がお昼ご飯を作っている頃だから、楽しみにしてて」
「あの男の昼餉か。悪いけれど、あまり食欲がわかないな」
「あはは。言っておくけど、柾樹の料理は絶品だよ? わたしの実家が食堂でさ。柾樹はバイトでよく来てくれるんだ。父ちゃんも認める確かな腕なんだよ?」
「真田さんのご実家、お食事処なんだね」
「うん、『竜虎飯店』っていうところでね。なんでも亡くなったおじいちゃんが、本場中国で修業して開店したのが最初らしいんだ。わたしと虎太郎の名前も、そこから取られてるってわけ。いまは父さんと母さんが切り盛りしてるけど、やっぱり将来はわたしが継ぐのかなーなんて。ま、虎太郎もいるしね」
「そうだったんだね。ご家族が、帰る家があるのはいいことだよ」
「あ……」
「あ、ごめん……また悲観的なことを言ってしまって。悪い癖なんだ」
「いやいや、いいんだよウツロくん」
「本当にやさしいね、真田さんは」
ウツロは窓辺に手を添えて、外を眺めながらまた物思いにふけっている。
彼はすでに、思索に耽溺しながら、他人とのコミュニケーションも円滑に取るという、仙人のようなデュアルタスクを体得していた。
彼の思考は、その名のとおり虚ろっているのである。
それはさしずめ、水に映える月のように、はかない存在なのかもしれない。
ウツロの瞳は家族や帰る家、それを探しているようにも見える。
しかしそれはまさに水面に映る月であって、永遠に掴むことはできないのではないか?
彼はこの世のいたるところで孤独なのだ。
彼は世界に捨てられたのだ。
真田龍子はその寂しそうな横顔を憂いた。
いまは無理だとしても、いつか必ず……
「真田さんが継ぐとしたら、跡取りの男子がいないとね」
「ええっ!?」
やにわに吐き出された言葉に、彼女は仰天した。
「ど、どうしたの?」
「いえ、ごめん。何でもない」
ウツロは不器用な少年だ。
真田龍子は彼の鈍感さに、少し疲れを感じてきた。
「そうか、南柾樹……あの男が真田さんのご実家を手伝っているのか。何という、こすずるい奴だ」
「あはは……」
鈍いところと鋭いところのギャップがすごすぎる。
彼女は御しがたいこの少年に、かなりあきれたのだった。
しかしとりあえずここは、気を取り直す必要がある。
「じゃ、次は二階ね。二階はここの住人の部屋がほとんどなんだ。ウツロくんの部屋も、ちゃんと用意してあるから」
「え? あ、ありがとう。その、いいのかな? そこまでしてもらって?」
「これも何かの縁だからね。遠慮なんかしなくていいって。さ、上へ上がりましょう」
「うん……」
正面左側の階段を登る。
真田龍子はウツロに気をつかって、ゆっくりと歩いた。
もしも体勢が不安定になったとき、すぐに支えられるように。
手すりをつかませて、よりそうように上階へと移動する。
ウツロは階段を登りながら考えていた。
このままでいいんだろうか?
こんな状況になってしまって……
少なくとも真田さんはよくしてくれるし、拘束されているようで自由さはある。
でも俺は、それに甘えていていいのか?
そもそも、こんなことをしていてよいのだろうか?
お師匠様もアクタも、無事なのだろうか?
どこかで傷ついて、俺の帰りを待っていてくれているかもしれないのに……
そこには漠然とした不安だけがあった。
自分が裏切りを働いているのではないかという葛藤もある。
考えながら何の気なしに顔を上げると、階段を上がった右手、建物からすると二階にある壁面のちょうど中心の位置に、バカでかい額縁が飛びこんできた。
中にはなにやら絵が描かれているが、パッと見た感じ、どうやら地図のようだ。
「あれは……」
「あれ? ああ、朽木市の拡大図だよ。ちょっと見てみる?」
「うん、お願いするよ」
二人は階段を上がりきったところで右に折れ、ほんの少し歩いて、くだんの巨大な額縁の前に立った。
布のキャンバスに油絵の具で描いてあるようだ。
ウツロはその絵地図が気になって凝視した。
「朽木市出身の画家さんが描いた絵らしいんだけど、わたしもよくわかんない。このアパートに最初から飾ってあったみたいだね」
絵の内容は、朽木市を簡略化したもののようだけれど、写実的かというと砕けているし、ポップかというと渋い感じで、カジュアルとフォーマルの折衷といった風情だ。
そのいっぽうで、朽木という土地のエッセンスを凝縮するべく試みたようにも感じられる。
ウツロは言葉もなく、その絵の隅々に視線を這わせている。
「いまわたしたちがいる蛮頭寺区は南西、つまり左下のこのブロックだね」
真田龍子は右手をひょいとかざして、現在地をウツロに示してみせた。
蛮頭寺区を基準とすると、時計回りに西の六車輪区、北西の斑曲輪区、北の御石神区、北東の美香星区、東の黒水区、南東の百色区、南の坊松区、最後に中心の朔良区と、都合、九つのブロックに区切られている。
「この、朽木市というのは、碁盤の目のようになっているんだね」
その絵地図をまじまじと眺めながら、ウツロは素朴な感想を述べた。
「お、気づいた? そうだね、朽木市のモデルは京の都なんだよ。朽木市民なら学校で習うんだけれど、室町時代に足利将軍家が京の都を真似て、この土地を開発したのが最初なんだ。戦国時代には北条家が拠点にしたり、江戸時代に入ってからは徳川家が西国へにらみを利かすために整備したり、歴史的には面白いところだね」
「そんないわれがあるんだね。朽木市か……でもこれも、世界から見れば、ほんの一部でしかないわけだよね?」
「え? うん、まあね。でもそれを言い出したら、地球の外はーとか、宇宙の果てはーとかって議論になっちゃうかもね。それともウツロくんは、そういうのに興味があるのかな?」
「よくわからないけれど、世界って何なんだろう? 世界という特定の主体が存在するのか、単なる概念の総体なのか……」
「ええ? うーん、難しい話だね。世界、か」
「あ、ごめん真田さん。また変なことを言ってしまって」
「いやいや、きっとウツロくんはすごく頭がいいんだよ。わたしは体育会系だからピンと来ないだけで」
「よくない癖なんだ。アクタもよく、悪癖だって言ってた」
「アクタさんって、ウツロくんの大切な存在なんだよね? その、ご無事だと何よりだよ」
「真田さんは」
「え?」
「痛みのわかる人だよね」
「あ……」
「ありがとう、心配してくれて。何だか、真田さんと一緒にいると、とても落ちつくんだ」
「……そんなふうに、言ってくれるんだね。こっちこそありがとう。ウツロくんこそ、心根のやさしい人だよ」
ウツロと真田龍子は、お互いに顔を綻ばせた。
何だかとても不思議な感じだ。
この感情の正体はいっこうにわからないし、どうして彼女といるとその感情を持ってしまうのか?
しかしそれは少なくとも、悪いものではないようだ。
彼は顔を合わせているのが照れくさくなり、視線を反らす大義名分として、もう一度くだんの絵地図を見やった。
自分の知る世界がどれほど狭いものだったのかを、こんな一枚の地図を眺めただけでも思い知らされる。
世界……
世界って何だろう?
ウツロは絵地図に見入りながら、また思索を膨らませた。
「姉さん」
「虎太郎? どうした?」
「ちょっと、ちょっと」
左手奥の方から、真田虎太郎が姉を呼んでいる。
「虎太郎が何か用があるみたい。すぐ戻るからウツロくん、気兼ねしないでその辺をぶらぶらしててよ」
「うん、ありがとう真田さん」
「龍子でいいってば」
真田龍子はほほえんで、弟の方へと向かった。
ウツロは遠ざかっていく彼女の背中を見つめていた。
「龍子……真田龍子さん、か……」
何だろう、この不思議な感覚は?
胸もとが締めつけられるような……
まだ出あったばかりだし、ほんの少し会話をした程度だ。
だけど何か、彼女のことが気になる。
一緒にいて落ち着くのはアクタと同じだけれど、彼女の場合は何か、アクタのときとは違う別な感覚が……
わからない。
でも何だろうか、この感じ。
苦しい――
悪い意味でじゃなく、彼女の存在を意識すると、何というか、心が洗われるような、解放されるような気持ちになる。
心地がいいのに、苦しいと表現してしまうのは何でだろう?
わからない。
やっぱり人間は、難しい……
「ウツロくん」
真田龍子に突然呼びかけられ、ウツロはハッとなった。
「虎太郎が君と話をしたいみたいなんだ」
「虎太郎くん、が?」
「部屋へ来てほしいって」
「え、ああ……」
「どうしたの?」
「え? いや、何でもないよ」
冷静沈着だと思っているウツロであったが、彼女の前では馬脚をあらわしてしまう。
それも含めて、人間とは不思議だなと思った。
「ほら、あの一番の奥の右側が虎太郎の部屋だよ。ちなみに左側はウツロくんの部屋ね。虎太郎と遊んでいる間に片づけておくから、任せといて」
「あ、ありがとう」
ドアが開いて、真田虎太郎がこちらへ手招きしている。
「こちらへどうぞ」
「ゆっくりしてきなよ。くれぐれも、遠慮なんてしないでね?」
真田龍子の姿が、左側の部屋の中へと消えていく。
「あ、うん、ありがとう。お邪魔させてもらいます」
「どうぞ、どうぞ」
「お邪魔します」
ウツロは他人の領域に入ることをためらったけれど、真田虎太郎の勧誘があまりにも軽いものだったから、勇んで彼の部屋へ足を踏み入れた。
(『第21話 夜の歌』へ続く)
方位でいうと、その中の南東に位置していた。
廊下を出て西へ歩き、T字コーナーを曲がってさらに北へ歩くと、広いロビーに出る。
洋館を改装したというだけあって、いかにもレトロな様式と装飾になっている。
年代物とおぼしき大きな柱時計の振り子の音は、規則的ではあるが古風な響きで心が落ちついた。
秒針の動きはいかにも頼りなげで、いまにも止まってしまいそうだ。
いや、時計は活動しているのだけれど、時間そのものは静止しているかのように感じられる。
ウツロはこの空間について、そう思いを馳せたのだった。
建物の全体はほぼ左右対称になっているらしく、出入口から見て両側に、二階へ上がる階段がついている。
外の世界を初めて体験するウツロではあったが、この建物はなぜか隠れ里への郷愁を満たしてくれて、それほど抵抗は感じなかった。
窓から外をのぞきこんでみる。
敷地は相当広いようで、さまざまな種類の花や樹木が植えられた庭園の遠くに、門らしきものが見て取れる。
その周りはツタが縦横無尽に絡まった白壁で囲まれていて、外界からの侵入を拒絶しているような雰囲気がある。
美しいけれど、どこか人工的に見えるような。
分厚いはめ込み式の窓は、強化されたくもりガラスのようである。
「改装」か、なるほど。
きっとまだまだ秘密があるのだろう。
彼はそれを悟ったものの、真田龍子をわずらわせまいと気づかないふりをした。
やっぱり俺は閉じ込められ、つながれているんだ。
隠れ里でも、ここでも。
いや、おそらく世界のあらゆるところで……
彼を閉ざしているのは他ならぬ彼の精神自体であるのだけれど、ウツロはそれを認識しつつ、認めたくないというジレンマに苦しんでいるのだった。
自由を欲するいっぽうで、つながれていたいという矛盾に。
それはちょうど、牢獄の個室で何不自由ない暮らしをしたいというわがままにも似ていた。
「一階はこんなところかな。建物の北側の半分は、食堂と厨房だね。いまごろ柾樹がお昼ご飯を作っている頃だから、楽しみにしてて」
「あの男の昼餉か。悪いけれど、あまり食欲がわかないな」
「あはは。言っておくけど、柾樹の料理は絶品だよ? わたしの実家が食堂でさ。柾樹はバイトでよく来てくれるんだ。父ちゃんも認める確かな腕なんだよ?」
「真田さんのご実家、お食事処なんだね」
「うん、『竜虎飯店』っていうところでね。なんでも亡くなったおじいちゃんが、本場中国で修業して開店したのが最初らしいんだ。わたしと虎太郎の名前も、そこから取られてるってわけ。いまは父さんと母さんが切り盛りしてるけど、やっぱり将来はわたしが継ぐのかなーなんて。ま、虎太郎もいるしね」
「そうだったんだね。ご家族が、帰る家があるのはいいことだよ」
「あ……」
「あ、ごめん……また悲観的なことを言ってしまって。悪い癖なんだ」
「いやいや、いいんだよウツロくん」
「本当にやさしいね、真田さんは」
ウツロは窓辺に手を添えて、外を眺めながらまた物思いにふけっている。
彼はすでに、思索に耽溺しながら、他人とのコミュニケーションも円滑に取るという、仙人のようなデュアルタスクを体得していた。
彼の思考は、その名のとおり虚ろっているのである。
それはさしずめ、水に映える月のように、はかない存在なのかもしれない。
ウツロの瞳は家族や帰る家、それを探しているようにも見える。
しかしそれはまさに水面に映る月であって、永遠に掴むことはできないのではないか?
彼はこの世のいたるところで孤独なのだ。
彼は世界に捨てられたのだ。
真田龍子はその寂しそうな横顔を憂いた。
いまは無理だとしても、いつか必ず……
「真田さんが継ぐとしたら、跡取りの男子がいないとね」
「ええっ!?」
やにわに吐き出された言葉に、彼女は仰天した。
「ど、どうしたの?」
「いえ、ごめん。何でもない」
ウツロは不器用な少年だ。
真田龍子は彼の鈍感さに、少し疲れを感じてきた。
「そうか、南柾樹……あの男が真田さんのご実家を手伝っているのか。何という、こすずるい奴だ」
「あはは……」
鈍いところと鋭いところのギャップがすごすぎる。
彼女は御しがたいこの少年に、かなりあきれたのだった。
しかしとりあえずここは、気を取り直す必要がある。
「じゃ、次は二階ね。二階はここの住人の部屋がほとんどなんだ。ウツロくんの部屋も、ちゃんと用意してあるから」
「え? あ、ありがとう。その、いいのかな? そこまでしてもらって?」
「これも何かの縁だからね。遠慮なんかしなくていいって。さ、上へ上がりましょう」
「うん……」
正面左側の階段を登る。
真田龍子はウツロに気をつかって、ゆっくりと歩いた。
もしも体勢が不安定になったとき、すぐに支えられるように。
手すりをつかませて、よりそうように上階へと移動する。
ウツロは階段を登りながら考えていた。
このままでいいんだろうか?
こんな状況になってしまって……
少なくとも真田さんはよくしてくれるし、拘束されているようで自由さはある。
でも俺は、それに甘えていていいのか?
そもそも、こんなことをしていてよいのだろうか?
お師匠様もアクタも、無事なのだろうか?
どこかで傷ついて、俺の帰りを待っていてくれているかもしれないのに……
そこには漠然とした不安だけがあった。
自分が裏切りを働いているのではないかという葛藤もある。
考えながら何の気なしに顔を上げると、階段を上がった右手、建物からすると二階にある壁面のちょうど中心の位置に、バカでかい額縁が飛びこんできた。
中にはなにやら絵が描かれているが、パッと見た感じ、どうやら地図のようだ。
「あれは……」
「あれ? ああ、朽木市の拡大図だよ。ちょっと見てみる?」
「うん、お願いするよ」
二人は階段を上がりきったところで右に折れ、ほんの少し歩いて、くだんの巨大な額縁の前に立った。
布のキャンバスに油絵の具で描いてあるようだ。
ウツロはその絵地図が気になって凝視した。
「朽木市出身の画家さんが描いた絵らしいんだけど、わたしもよくわかんない。このアパートに最初から飾ってあったみたいだね」
絵の内容は、朽木市を簡略化したもののようだけれど、写実的かというと砕けているし、ポップかというと渋い感じで、カジュアルとフォーマルの折衷といった風情だ。
そのいっぽうで、朽木という土地のエッセンスを凝縮するべく試みたようにも感じられる。
ウツロは言葉もなく、その絵の隅々に視線を這わせている。
「いまわたしたちがいる蛮頭寺区は南西、つまり左下のこのブロックだね」
真田龍子は右手をひょいとかざして、現在地をウツロに示してみせた。
蛮頭寺区を基準とすると、時計回りに西の六車輪区、北西の斑曲輪区、北の御石神区、北東の美香星区、東の黒水区、南東の百色区、南の坊松区、最後に中心の朔良区と、都合、九つのブロックに区切られている。
「この、朽木市というのは、碁盤の目のようになっているんだね」
その絵地図をまじまじと眺めながら、ウツロは素朴な感想を述べた。
「お、気づいた? そうだね、朽木市のモデルは京の都なんだよ。朽木市民なら学校で習うんだけれど、室町時代に足利将軍家が京の都を真似て、この土地を開発したのが最初なんだ。戦国時代には北条家が拠点にしたり、江戸時代に入ってからは徳川家が西国へにらみを利かすために整備したり、歴史的には面白いところだね」
「そんないわれがあるんだね。朽木市か……でもこれも、世界から見れば、ほんの一部でしかないわけだよね?」
「え? うん、まあね。でもそれを言い出したら、地球の外はーとか、宇宙の果てはーとかって議論になっちゃうかもね。それともウツロくんは、そういうのに興味があるのかな?」
「よくわからないけれど、世界って何なんだろう? 世界という特定の主体が存在するのか、単なる概念の総体なのか……」
「ええ? うーん、難しい話だね。世界、か」
「あ、ごめん真田さん。また変なことを言ってしまって」
「いやいや、きっとウツロくんはすごく頭がいいんだよ。わたしは体育会系だからピンと来ないだけで」
「よくない癖なんだ。アクタもよく、悪癖だって言ってた」
「アクタさんって、ウツロくんの大切な存在なんだよね? その、ご無事だと何よりだよ」
「真田さんは」
「え?」
「痛みのわかる人だよね」
「あ……」
「ありがとう、心配してくれて。何だか、真田さんと一緒にいると、とても落ちつくんだ」
「……そんなふうに、言ってくれるんだね。こっちこそありがとう。ウツロくんこそ、心根のやさしい人だよ」
ウツロと真田龍子は、お互いに顔を綻ばせた。
何だかとても不思議な感じだ。
この感情の正体はいっこうにわからないし、どうして彼女といるとその感情を持ってしまうのか?
しかしそれは少なくとも、悪いものではないようだ。
彼は顔を合わせているのが照れくさくなり、視線を反らす大義名分として、もう一度くだんの絵地図を見やった。
自分の知る世界がどれほど狭いものだったのかを、こんな一枚の地図を眺めただけでも思い知らされる。
世界……
世界って何だろう?
ウツロは絵地図に見入りながら、また思索を膨らませた。
「姉さん」
「虎太郎? どうした?」
「ちょっと、ちょっと」
左手奥の方から、真田虎太郎が姉を呼んでいる。
「虎太郎が何か用があるみたい。すぐ戻るからウツロくん、気兼ねしないでその辺をぶらぶらしててよ」
「うん、ありがとう真田さん」
「龍子でいいってば」
真田龍子はほほえんで、弟の方へと向かった。
ウツロは遠ざかっていく彼女の背中を見つめていた。
「龍子……真田龍子さん、か……」
何だろう、この不思議な感覚は?
胸もとが締めつけられるような……
まだ出あったばかりだし、ほんの少し会話をした程度だ。
だけど何か、彼女のことが気になる。
一緒にいて落ち着くのはアクタと同じだけれど、彼女の場合は何か、アクタのときとは違う別な感覚が……
わからない。
でも何だろうか、この感じ。
苦しい――
悪い意味でじゃなく、彼女の存在を意識すると、何というか、心が洗われるような、解放されるような気持ちになる。
心地がいいのに、苦しいと表現してしまうのは何でだろう?
わからない。
やっぱり人間は、難しい……
「ウツロくん」
真田龍子に突然呼びかけられ、ウツロはハッとなった。
「虎太郎が君と話をしたいみたいなんだ」
「虎太郎くん、が?」
「部屋へ来てほしいって」
「え、ああ……」
「どうしたの?」
「え? いや、何でもないよ」
冷静沈着だと思っているウツロであったが、彼女の前では馬脚をあらわしてしまう。
それも含めて、人間とは不思議だなと思った。
「ほら、あの一番の奥の右側が虎太郎の部屋だよ。ちなみに左側はウツロくんの部屋ね。虎太郎と遊んでいる間に片づけておくから、任せといて」
「あ、ありがとう」
ドアが開いて、真田虎太郎がこちらへ手招きしている。
「こちらへどうぞ」
「ゆっくりしてきなよ。くれぐれも、遠慮なんてしないでね?」
真田龍子の姿が、左側の部屋の中へと消えていく。
「あ、うん、ありがとう。お邪魔させてもらいます」
「どうぞ、どうぞ」
「お邪魔します」
ウツロは他人の領域に入ることをためらったけれど、真田虎太郎の勧誘があまりにも軽いものだったから、勇んで彼の部屋へ足を踏み入れた。
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