216 / 277
216.母の見解
しおりを挟む
サミュエルに相談の手紙を送った後、ちょうど閨教育の件で母親に会うことになったノアは、招待状の話を切り出した。
「――というわけで、王妃殿下主催の小規模のお茶会に招待されているのですが」
「なるほどねぇ。……随分と、手段を選ばなくなっていること」
応える母親の声には、多分に呆れが滲んでいた。
手元に置いた教本をめくり、ノアに差し出しながら、何事か考え込むように目を細める。
ノアへの基本的な閨教育は既に済んでいるらしいが、母親はさらに知識を教え込もうと余念がない。そのせいで、最近はノアとの間で静かな攻防が起きていた。
(男性を悦《よろこ》ばせる手技とか……これを覚えて、僕にどうしろと……)
ちらりと見えた文字に、ノアは顔に熱が上るのを抑えられなかった。
その言葉の意味が分からないと言うほどの初心《うぶ》ではない。それくらいの教育は、嫌というほどされた。
だからといって、相手が明確になっている現状で、そんな生々しい想像ができそうな知識は覚えたくない。羞恥心は消えることなく、むしろ強まっている。
ノアはさりげなく教本を閉じながら、そっと目を逸らす。母親が「あら、きちんと目を通してちょうだい」と告げるのは、聞かなかったことにした。
「……前回の王妃殿下のお茶会では、どのようなご様子でしたか?」
「そうねぇ。……高慢ちきな態度はなくなっていたけれど、その分鬱憤は溜まっていそうだったわね。うちに、グレイ公爵家との仲介をしてほしがっている感じでもあったから、ノアを招待したのはそのせいかもしれないわ」
「なるほど……」
母親の見解に頷き、ノアは暫し考え込む。
王妃がカールトン国王家の思惑とは関係なく、ノアに近づこうとしているなら、やはりあまり警戒する必要はないように思える。グレイ公爵家との仲介を求められたところで、ノアはサミュエルの意思を尊重して対応するだけなのだ。
「――では、サミュエル様にご相談して、出席するかどうか決めたらいいのですね?」
「ランドロフ侯爵家としては、とりあえずグレイ公爵家に同調するつもりよ。でも、ノアの代で、王家とどう接していくかは、あなたたちで決めたらいいと思うわ。特に、ルーカス王太子殿下のことを考えると、否応なく王家との距離は縮まるのだろうから」
ノアが考えていたことなど、母親にとっても想定内だった様子で、軽く頷かれる。ノアは「分かりました」と答えながら、微笑んだ。
話したかったことは終えた。となれば、閨教育の話を進めることになるわけで――母親により再び開かれようとした教本を、ノアはなんとか遠ざけようとする。
基本的な教育が終わっているならば、これ以上は必要ない、とこれまで何度も告げた言葉を繰り返そうと口を開いた瞬間、視界に執事長の姿が飛び込んできた。
「奥様、ノア様、ご歓談のところ、失礼いたします」
「あら、珍しいわね。何かあったかしら」
戸口で慇懃《いんぎん》に頭を下げる執事長に、母親が意外そうな表情で応じる。
ノアとの閨教育の時間は、普段邪魔が入らないように人払いしているから、執事が現れるのは本当に珍しいことだ。
ノアも首を傾げて執事長を見ていると、不意に視線が合った。
「サミュエル様がいらっしゃいましたので、応接間にお通ししました」
「え、サミュエル様が?」
ノアは目を丸くし、母親は「あら……」と呟いて口元を押さえた。
サミュエルが来ることはよくあるとはいえ、急に来られると少し驚く。貴族の礼儀上、急な訪問はあまり褒められたものではないからだ。
(まぁ、サミュエル様がそのルールを無視することは前もあったし、たぶん今日は、僕が書き送った相談ごとのためだろうな……)
ノアの手紙を読んで、すぐに駆けつけてくれたとしか思えない早さだ。
サミュエルも忙しいだろうに、ノアへの愛情の強さが為せるわざだろうか。
「――お母様、本日のお話は取りやめということで……」
「そうね。ノアを心配していらっしゃったのだろうし、あまり待たせてもいけないわ。早くお行きなさいな」
ノアの挨拶に、母親が少しばかり呆れた表情で手を振る。その呆れは、貴族の礼儀を無視するサミュエルに向けられたのか、それとも、閨教育から一時解放されることにホッとして、いそいそとサミュエルの元に行こうとするノアに向けられたのか。
どちらにせよ、母親が反対しないのをいいことに、ノアは微笑み、立ち上がった。サミュエルの元へ向かう足が速まる。
閨教育だとか、相談ごとだとかは置いておいても、サミュエルに会えるのはやはり嬉しい。
「ノア様、それほどまでに急がれなくても……」
不意に背後のロウから注意されて、ノアはグッと息を呑んで、意識的に速度を緩めた。確かに駆け足に近い速度で廊下を進むのは、はしたない行動だ。
廊下を行き過ぎる使用人たちには、微笑ましげに見送られたけれど。
「……ほら、あまり待たせるのは、失礼でしょう?」
言い訳のように呟くノアに、ロウが苦笑しながら肩をすくめる。
「突然訪問されたサミュエル様の方が失礼なので、その配慮は必要ないと思いますね」
「……それは……確かに……」
さすがに、サミュエルを庇うことはできなかった。
「――というわけで、王妃殿下主催の小規模のお茶会に招待されているのですが」
「なるほどねぇ。……随分と、手段を選ばなくなっていること」
応える母親の声には、多分に呆れが滲んでいた。
手元に置いた教本をめくり、ノアに差し出しながら、何事か考え込むように目を細める。
ノアへの基本的な閨教育は既に済んでいるらしいが、母親はさらに知識を教え込もうと余念がない。そのせいで、最近はノアとの間で静かな攻防が起きていた。
(男性を悦《よろこ》ばせる手技とか……これを覚えて、僕にどうしろと……)
ちらりと見えた文字に、ノアは顔に熱が上るのを抑えられなかった。
その言葉の意味が分からないと言うほどの初心《うぶ》ではない。それくらいの教育は、嫌というほどされた。
だからといって、相手が明確になっている現状で、そんな生々しい想像ができそうな知識は覚えたくない。羞恥心は消えることなく、むしろ強まっている。
ノアはさりげなく教本を閉じながら、そっと目を逸らす。母親が「あら、きちんと目を通してちょうだい」と告げるのは、聞かなかったことにした。
「……前回の王妃殿下のお茶会では、どのようなご様子でしたか?」
「そうねぇ。……高慢ちきな態度はなくなっていたけれど、その分鬱憤は溜まっていそうだったわね。うちに、グレイ公爵家との仲介をしてほしがっている感じでもあったから、ノアを招待したのはそのせいかもしれないわ」
「なるほど……」
母親の見解に頷き、ノアは暫し考え込む。
王妃がカールトン国王家の思惑とは関係なく、ノアに近づこうとしているなら、やはりあまり警戒する必要はないように思える。グレイ公爵家との仲介を求められたところで、ノアはサミュエルの意思を尊重して対応するだけなのだ。
「――では、サミュエル様にご相談して、出席するかどうか決めたらいいのですね?」
「ランドロフ侯爵家としては、とりあえずグレイ公爵家に同調するつもりよ。でも、ノアの代で、王家とどう接していくかは、あなたたちで決めたらいいと思うわ。特に、ルーカス王太子殿下のことを考えると、否応なく王家との距離は縮まるのだろうから」
ノアが考えていたことなど、母親にとっても想定内だった様子で、軽く頷かれる。ノアは「分かりました」と答えながら、微笑んだ。
話したかったことは終えた。となれば、閨教育の話を進めることになるわけで――母親により再び開かれようとした教本を、ノアはなんとか遠ざけようとする。
基本的な教育が終わっているならば、これ以上は必要ない、とこれまで何度も告げた言葉を繰り返そうと口を開いた瞬間、視界に執事長の姿が飛び込んできた。
「奥様、ノア様、ご歓談のところ、失礼いたします」
「あら、珍しいわね。何かあったかしら」
戸口で慇懃《いんぎん》に頭を下げる執事長に、母親が意外そうな表情で応じる。
ノアとの閨教育の時間は、普段邪魔が入らないように人払いしているから、執事が現れるのは本当に珍しいことだ。
ノアも首を傾げて執事長を見ていると、不意に視線が合った。
「サミュエル様がいらっしゃいましたので、応接間にお通ししました」
「え、サミュエル様が?」
ノアは目を丸くし、母親は「あら……」と呟いて口元を押さえた。
サミュエルが来ることはよくあるとはいえ、急に来られると少し驚く。貴族の礼儀上、急な訪問はあまり褒められたものではないからだ。
(まぁ、サミュエル様がそのルールを無視することは前もあったし、たぶん今日は、僕が書き送った相談ごとのためだろうな……)
ノアの手紙を読んで、すぐに駆けつけてくれたとしか思えない早さだ。
サミュエルも忙しいだろうに、ノアへの愛情の強さが為せるわざだろうか。
「――お母様、本日のお話は取りやめということで……」
「そうね。ノアを心配していらっしゃったのだろうし、あまり待たせてもいけないわ。早くお行きなさいな」
ノアの挨拶に、母親が少しばかり呆れた表情で手を振る。その呆れは、貴族の礼儀を無視するサミュエルに向けられたのか、それとも、閨教育から一時解放されることにホッとして、いそいそとサミュエルの元に行こうとするノアに向けられたのか。
どちらにせよ、母親が反対しないのをいいことに、ノアは微笑み、立ち上がった。サミュエルの元へ向かう足が速まる。
閨教育だとか、相談ごとだとかは置いておいても、サミュエルに会えるのはやはり嬉しい。
「ノア様、それほどまでに急がれなくても……」
不意に背後のロウから注意されて、ノアはグッと息を呑んで、意識的に速度を緩めた。確かに駆け足に近い速度で廊下を進むのは、はしたない行動だ。
廊下を行き過ぎる使用人たちには、微笑ましげに見送られたけれど。
「……ほら、あまり待たせるのは、失礼でしょう?」
言い訳のように呟くノアに、ロウが苦笑しながら肩をすくめる。
「突然訪問されたサミュエル様の方が失礼なので、その配慮は必要ないと思いますね」
「……それは……確かに……」
さすがに、サミュエルを庇うことはできなかった。
73
◇長編◇
本編完結
『貧乏子爵令息のオメガは王弟殿下に溺愛されているようです』
本編・続編完結
『雪豹くんは魔王さまに溺愛される』書籍化☆
完結『天翔ける獣の願いごと』
◇短編◇
本編完結『悪役令息になる前に自由に生きることにしました』
お気に入りに追加
4,631
あなたにおすすめの小説

別れようと彼氏に言ったら泣いて懇願された挙げ句めっちゃ尽くされた
翡翠飾
BL
「い、いやだ、いや……。捨てないでっ、お願いぃ……。な、何でも!何でもするっ!金なら出すしっ、えっと、あ、ぱ、パシリになるから!」
そう言って涙を流しながら足元にすがり付くαである彼氏、霜月慧弥。ノリで告白されノリで了承したこの付き合いに、βである榊原伊織は頃合いかと別れを切り出したが、慧弥は何故か未練があるらしい。
チャライケメンα(尽くし体質)×物静かβ(尽くされ体質)の話。

性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました
まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。
性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。
(ムーンライトノベルにも掲載しています)

美貌の騎士候補生は、愛する人を快楽漬けにして飼い慣らす〜僕から逃げないで愛させて〜
飛鷹
BL
騎士養成学校に在席しているパスティには秘密がある。
でも、それを誰かに言うつもりはなく、目的を達成したら静かに自国に戻るつもりだった。
しかし美貌の騎士候補生に捕まり、快楽漬けにされ、甘く喘がされてしまう。
秘密を抱えたまま、パスティは幸せになれるのか。
美貌の騎士候補生のカーディアスは何を考えてパスティに付きまとうのか……。
秘密を抱えた二人が幸せになるまでのお話。
悪役令息の七日間
リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。
気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】

美少年に転生したらヤンデレ婚約者が出来ました
SEKISUI
BL
ブラック企業に勤めていたOLが寝てそのまま永眠したら美少年に転生していた
見た目は勝ち組
中身は社畜
斜めな思考の持ち主
なのでもう働くのは嫌なので怠惰に生きようと思う
そんな主人公はやばい公爵令息に目を付けられて翻弄される

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

転生貧乏貴族は王子様のお気に入り!実はフリだったってわかったのでもう放してください!
音無野ウサギ
BL
ある日僕は前世を思い出した。下級貴族とはいえ王子様のお気に入りとして毎日楽しく過ごしてたのに。前世の記憶が僕のことを駄目だしする。わがまま駄目貴族だなんて気づきたくなかった。王子様が優しくしてくれてたのも実は裏があったなんて気づきたくなかった。品行方正になるぞって思ったのに!
え?王子様なんでそんなに優しくしてくるんですか?ちょっとパーソナルスペース!!
調子に乗ってた貧乏貴族の主人公が慎ましくても確実な幸せを手に入れようとジタバタするお話です。

雫
ゆい
BL
涙が落ちる。
涙は彼に届くことはない。
彼を想うことは、これでやめよう。
何をどうしても、彼の気持ちは僕に向くことはない。
僕は、その場から音を立てずに立ち去った。
僕はアシェル=オルスト。
侯爵家の嫡男として生まれ、10歳の時にエドガー=ハルミトンと婚約した。
彼には、他に愛する人がいた。
世界観は、【夜空と暁と】と同じです。
アルサス達がでます。
【夜空と暁と】を知らなくても、これだけで読めます。
随時更新です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる